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小夜のまどろみ
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「ねぇ、魔女殿?」
古い魔法書を片手に、薬草作りに精を出している森の魔女に、暇を持て余しているセレンは声をかけた。少女に淹れてもらった紅茶をすっかり飲み干してしまったため、おかわりをねだるような声になってしまった。
「なんですか?」
長い黒髪を後頭部で一つに束ねている小柄な魔女は、何やら得体の知れない液体の入ったガラスの小瓶を持ったままセレンの方に向き直った。
「あ、お茶のおかわりですか?」
所は、森の舘の台所。そして森の魔女は魔法薬を調合中だ。しかも大量に要るため、大きな銅の鍋でそれを作っている。いかにも魔女といった仕事ぶりだ。
鍋は火にかけられ、ぐらぐらと煮え立っていた。そこから放たれる臭いは、甘く美味しそうなものではない。くさい、とまではいかなくとも、いかにも薬草を煮立てたといった苦味のある臭いで、食欲をかきたてる類の臭いではなかった。
当然なのだろうが、森の魔女はそんな臭いにはもう慣れっこになっていて、顔をしかめるようなことはない。セレンだけは未だ慣れず、眉根を寄せてしまう。
「お茶、すぐに淹れますね。ちょっと待っててください」
少女は魔法書とガラスの小瓶をテーブルに置くと、棚に並べてある茶葉の缶を取ろうとさらに体の向きを変えた。セレンは立ち上がり、森の魔女より先に缶を手に取った。
「いや、自分で淹れるからいいよ。君の分も、よかったら淹れようか?」
「いいんですか? じゃぁ、お願いしようかな」
少女はちょっと小首を傾げて、黒い瞳をやさしく和らげてあどけなく笑った。
晴れて恋人同士になった「魔女と王子」なのだが、二人の雰囲気は以前あまり変わらない。
森の魔女は森の奥の館にこもっていることが多いし、王子がそこに一人でやってきてお茶をいただく、という習慣も、変わらず続いている。
森の魔女は、魔法薬作りの名人だ。先代の森の魔女から秘伝を継ぎ、さらに自らもいろいろと研究し、様々な魔法薬を作り出してきた。
魔法薬といっても、自家栽培した薬草などで作った解熱薬や胃痛薬、軟膏などで、魔法がかけられているものは少ない。調合過程で魔法を使うことはあるが、補助的な要素である場合がほとんどだ。もちろん魔法を主とした薬もなくはないが、それを見ることはほとんどないし、その場合は薬よりもむしろ魔女の魔法そのものが主となる。
この日、セレンが森の魔女の舘にやってきたのは、魔法薬を分けてもらうためだった。
初冬、領内で風邪が流行っていた。性質の悪い流行の風邪であるらしく、高熱のため、幾日も枕も上がらない者もいる。今のところ死亡者は出ていないが、解熱の薬が不足しており、そのため領主であるセレン自ら魔女の元に出向き、解熱薬の依頼にやってきた、という次第だ。
領主の立場として森の魔女の元へやってきたセレンだが、むろんそれだけではない。
恋人に会いたくて、セレンは馬を駆らせてやってきたのだ。それを、恋人であるはずの森の魔女はたして気づいているのかいないのか。
この地を治める領主であり、さらには国王の実子であるという、いわば高貴な身分であるはずのセレンだが、そのセレンは今、恋人のつれなさに苦笑しながら、いそいそと茶を淹れている。
昼過ぎになってから森の舘へ来たのだが、日はとうに暮れかかっている。つい先刻まで小窓から西日が差し込んでいたというのに、ふと見ると、もはや濃紺色の帳が空を覆い始めている。茶を淹れるついでに、部屋のランプにも火をいれた。湯を沸かしている暖炉の火もあるが、部屋を明るく灯す役割はないだろう。
冬の落日は早い。
刻一刻と暗くなり、それとともに空気も冷たくなってゆく。
セレンは暖炉に薪をくべてから森の魔女の傍に戻った。なかなかに甲斐甲斐しい。
「魔女殿、はい、お茶をどうぞ」
森の魔女は鍋の中身を長い棒でかき混ぜつつ、「ありがとうございます」と、笑顔でカップを受け取った。森の魔女はちょっと熱そうな顔をしつつ、ちびちびとセレンの淹れた茶を飲んだ。それからホッと息をつき、カップをテーブルに戻すと、再びセレンに背を向けて、魔法薬作りに没頭した。
森の魔女はセレンの依頼した薬を作ってくれているのだ。相手をしてくれないのは残念だが、邪魔をすべきではないとわかっているから、おとなしく暖炉の火を守ることにした。
セレンは暖炉の前に椅子を移動させた。茶を淹れる時に使ったやかんは後で戻せばいいだろう。火掻き棒で薪の位置を直して火の強さを調節し、灰を掻く。森の魔女の住処である館は来なれた場所だ。先代の森の魔女が生きていた頃も、何度か遊びに来ていた。思い出も多い。
セレンは森の魔女の様子を何度となく窺った。時折、魔女の手から光る粉のようなものが降り落ちている。どうやら「魔法」を使っているようだった。魔女の口から聞こえるか聞こえないかの声が発せられている。
セレンは嘆息し、自分で淹れた茶を飲んだ。渇いているのは、喉だけではない。
声に出しかけては何度も飲み込む「名」があった。呼びかけられず、喉の奥にその名が詰まっている。茶では流し落とせないようだ。
発せられないでいるのは、森の魔女の「名」だ。
「森の魔女」という通り名でしか呼ばれないが、セレンは実の名を知っている。
魔力を持つ者は、実の名を秘すのが通例であるらしい。よほど信頼している相手にしか名を明かすことはないと聞かされてきた。
そして今、セレンは森の魔女の名を知っている。特別にと、その名と気持ちを明かされた。
そうして、晴れて恋人同士になったのだ。
こ二人きりでいる時、セレンは無性に恋人の名を呼びたくなる。実際そうしているのだが、もったいぶって「魔女殿」と呼ぶことも多い。長年の癖が抜けないせいでもあるが。
一方で、森の魔女はなかなかセレンの名を呼んでくれない。「王子」と呼ぶのが当たり前になりすぎていて、急に呼び名を変えるのは慣れないのだと、森の魔女は言う。気恥しさもあるらしく、それも素直に認めた。
だからこそ、ふいに「セレン」と名を呼ばれたときは胸が高鳴るほどに嬉しい。
他愛無いが、それが恋心というものだろう。そういう満足感は、ある。
しかし、やはりつれないとも思うのだ。
恋人同士であるのに、よそよそしすぎやしないか、と。
こうして二人きりでいる時にこそ、セレンは己の独占欲の強さを感じ、懊悩する。
傍に居るのに、ひどく遠いような。
離れているのがもどかしい。互いの熱を感じあいたい。抱きしめたいと、セレンは劣情に身を焦がしている。
セレンの亜麻色の瞳が恋情に揺らめいているというのに、恋人である森の魔女は気づかない。暖炉の炎よりも熱く、激しく、愛しい恋人を求めているというのに。
「魔女殿」
「はい、なんですか、王子?」
声をかければ、森の魔女は返事をする。が、振り返らない。鍋の中身ばかりを気にして、集中している。
セレンは小さなため息を零した。作業の邪魔をしてはいけないとわかってはいるのだが、いい加減我慢の限度だ。森の魔女のつれない背中に向けて、再度「ねぇ、魔女殿」と甘えたような声で呼びかけた。
「そろそろ君を連れてベッドに行きたいのだけど。どうしたらいいかな?」
悪戯なセレンの声に、魔女はようやく振り返った。きょとんとして、セレンを見つめ返す。
「まだ夕食もまだなんですけど?」
森の魔女の返しは、セレンの予想通りだった。何を言われたのか、森の魔女は理解していない。かなり直截的な物言いをしたはずなのだが、とセレンは苦笑する。
「寝室なら、二階ですよ? 階段をあがって右に曲がって突きあたりに客間があるの、王子も知ってますよね?」
もとが貴族の別邸だっただけに、森の魔女が住まう館は広い。だが人が寝泊まりできるように清掃された部屋は少ない。二階に用意されている客間は王子専用といってよかった。セレンがまだ領主になる前は何度か遊びに来ていて、泊っていくこともあった。その時に用意した部屋なのだ。今でもそこはセレンの専用部屋として、常にきれいに整えてある。ちなみに二階には森の魔女の寝室もある。客間とは真逆の方向だ。セレンはまだ足を踏み入れたことがない。
「もし眠いなら、客間で休んでいてください。薬はもうすぐできるので。夕食の支度ができたら、呼びに行きます」
森の魔女の返事はひどく淡々としたものだが、以前にはない感情もそこには混じっていた。セレンを無碍に追い返すこともしない。泊っていくことを、ごく自然の成り行きとして受け入れてくれている。
それはセレンにとって嬉しいことなのだが、ほんの少し物足りなくはある。もう少しだけ、踏み込んでしまいたくなるほどには。
「私が行きたいのは、君の部屋なのだけどね? できれば、君と一緒に」
「そう言われましても……もうちょっと待ってください、あと味の調整だけで済みますから」
ここまで言っても森の魔女は何を言われたのか理解が及ばないようだ。セレンは苦笑するしかない。まさかここまで鈍いとは……考えてはいたが、それにしても。
だが不思議と腹立たしさはなく、むしろ可笑しさすら感じる。我ながら辛抱強いものだと、セレンは自分が滑稽で、やれやれと肩を竦めたくなる。
「もしお疲れなら、客間で休んでてくださっても」
森の魔女は色恋に疎い。だが、疎すぎないともいえた。
恋人同士になる前なら、おそらくセレンに「帰ってもいいですよ」と言ったろう。今日は、その一言が出ない。
「いや、ここで待っているよ。眠いわけではないしね。それとも、私がここに居たら邪魔になるかな?」
「邪魔だなんて、そんなことはないですっ。ただ、その、王子、退屈なのかなぁって」
「魔女殿と一緒に居て、退屈に思うことなんて、ないよ」
「もうっ、王子ってば、またそういうことを」
「真実思っていることを言っているだけなのだけど」
「思ってても、それを口にしなくていいですからっ」
「言葉にしないと、伝わらないだろう?」
「王子の言葉はいちいち……なんというか、甘いっていうか、恥ずかしいんですってば」
言葉の素直さならば、森の魔女の方がよほどだろうと、セレンは亜麻色の瞳を細めて笑う。
森の魔女をからかってその反応を見るのが、セレンの愉しみのひとつになっている。それを告白してしまえば、きっと森の魔女は顔を真っ赤にして拗ねてしまうだろう。その拗ねた顔も可愛らしく、思い描いただけでもセレンの頬は緩む。
セレンは立ち上がり、森の魔女の隣に立って鍋の中を確かめる。においは薄れているから、近寄ってみても顔をしかめずにすんだ。
「退屈ということはないけれど、少しばかり手持無沙汰ではあるかな。何か手伝えることはない、森の魔女殿?」
「…………」
森の魔女は何やら言いたげにセレンを上目遣いに見つめた。言いたいことがあるようだが、それが言葉にならないらしい。森の魔女は小さくため息をつき、それから肩の力を抜いたような笑みを浮かべて言った。
「分かりました。それじゃ遠慮なくお手伝いしてもらっちゃいますからね、王子?」
薬作りはおおむね順調に進められた。いつもは眷属のリフレナスが手伝ってくれるのだが、今日に限って朝から一度も姿を見せない。気を利かせてくれたらしいと察したのはセレンだけで、森の魔女は「森の探索に出ている」というリフレナスの言葉を額面通りに受け取っていた。
ともあれ、作業の合間に夕食をとりつつ、無事大量の解毒薬は完成した。
「明日には持って帰って、配給できますよ。必要としてる人に配って、それでも足りなかったらまた作り足しますから、遠慮なく言ってくださいね。他に必要な薬もあれば用意しますから。わたしも明日は街に行って、どんな様子か確認して……それ、から……」
言い終えぬうちに、森の魔女はくたくたとソファーに座りこみ、身体を横たえた。
「魔女殿」
セレンは少々慌ててその場に跪き、魔女の手を取った。手は温かかったが、力が抜けきっている。
「……すみません、大丈夫です。じつは昨日からあまり寝てなくて……急に眠気が……」
魔法を使いすぎたせいもあるのだろう。とにかく身体に力が入らないといった具合だ。
セレンが頬を撫ぜても、森の魔女は何の反応も見せない。瞼を持ちあげるのですら億劫なようだ。
「眠いだけです、から……このまま……」
「眠くて耐えられないのは分かったけれど、ここで眠ってしまってはだめだよ」
「……ん……」
頷くものの、森の魔女は瞼を閉じてしまう。
セレンは長い黒髪を撫でつけてから、小柄な体をゆっくりと横抱きにして持ちあげた。
「……っ、おう、じっ」
身体が浮いたのに気づいて、森の魔女はさすがにハッと目を開けた。
「じっとしてて。ともかく、ここで眠ってしまっては、君まで体調を崩しかねないからね」
「……はい」
驚きはしたものの、抗う力も残っていないらしい。森の魔女はおとなしくセレンに抱きかかえられていた。頬だけは紅潮している。
「君の部屋に入ること、許してもらえるかな?」
森の魔女の身体を労わりながら、セレンはゆったりと歩く。そして律儀にも、そう尋ねた。森の魔女はこっくりと頷いて応じた。
階段を上り、客間ではない方向へセレンは足を向ける。幸い、月明りがさしていて、廊下は明るかった。
「……あの」
森の魔女の指が、そっとセレンの手に触れた。腕を上げるのもしんどかったろうに、意識がまだ消えぬうちにと思ったのだろう。森の魔女の瞼が少しだけ開いて、セレンの亜麻色の瞳を覗きこむようにして見つめる。幼げな、というよりひどく甘やかな表情で、セレンを見つめて言った。
「ありがとう、…………セレン」
傍にいてね、と囁かれた。あるいはそれはセレンの願望ゆえの空耳だったかもしれないが、そうではないだろう。
セレンは名残惜しげに、森の魔女をベッドに横たえさせた。着替えさせてやりたかったが、靴を脱がせるだけにとどめた。
森の魔女はもう夢の中だ。安らいだ寝息が、ほんのりと笑みの形をのこしている口から聞こえてくる。
「ずっと傍にいるよ。……おやすみ、私のキラ」
セレンは恋人の名を、まるで魔法の呪文であるかのようにささやき、そして額に口付けた。
翌朝、キラはすぐ傍にセレンの秀麗な顔を見つけるだろう。そしてセレンは何食わぬ顔して、キラの唇に接吻するに違いない。
そして二人の一日は甘やかに始まるのだ。
古い魔法書を片手に、薬草作りに精を出している森の魔女に、暇を持て余しているセレンは声をかけた。少女に淹れてもらった紅茶をすっかり飲み干してしまったため、おかわりをねだるような声になってしまった。
「なんですか?」
長い黒髪を後頭部で一つに束ねている小柄な魔女は、何やら得体の知れない液体の入ったガラスの小瓶を持ったままセレンの方に向き直った。
「あ、お茶のおかわりですか?」
所は、森の舘の台所。そして森の魔女は魔法薬を調合中だ。しかも大量に要るため、大きな銅の鍋でそれを作っている。いかにも魔女といった仕事ぶりだ。
鍋は火にかけられ、ぐらぐらと煮え立っていた。そこから放たれる臭いは、甘く美味しそうなものではない。くさい、とまではいかなくとも、いかにも薬草を煮立てたといった苦味のある臭いで、食欲をかきたてる類の臭いではなかった。
当然なのだろうが、森の魔女はそんな臭いにはもう慣れっこになっていて、顔をしかめるようなことはない。セレンだけは未だ慣れず、眉根を寄せてしまう。
「お茶、すぐに淹れますね。ちょっと待っててください」
少女は魔法書とガラスの小瓶をテーブルに置くと、棚に並べてある茶葉の缶を取ろうとさらに体の向きを変えた。セレンは立ち上がり、森の魔女より先に缶を手に取った。
「いや、自分で淹れるからいいよ。君の分も、よかったら淹れようか?」
「いいんですか? じゃぁ、お願いしようかな」
少女はちょっと小首を傾げて、黒い瞳をやさしく和らげてあどけなく笑った。
晴れて恋人同士になった「魔女と王子」なのだが、二人の雰囲気は以前あまり変わらない。
森の魔女は森の奥の館にこもっていることが多いし、王子がそこに一人でやってきてお茶をいただく、という習慣も、変わらず続いている。
森の魔女は、魔法薬作りの名人だ。先代の森の魔女から秘伝を継ぎ、さらに自らもいろいろと研究し、様々な魔法薬を作り出してきた。
魔法薬といっても、自家栽培した薬草などで作った解熱薬や胃痛薬、軟膏などで、魔法がかけられているものは少ない。調合過程で魔法を使うことはあるが、補助的な要素である場合がほとんどだ。もちろん魔法を主とした薬もなくはないが、それを見ることはほとんどないし、その場合は薬よりもむしろ魔女の魔法そのものが主となる。
この日、セレンが森の魔女の舘にやってきたのは、魔法薬を分けてもらうためだった。
初冬、領内で風邪が流行っていた。性質の悪い流行の風邪であるらしく、高熱のため、幾日も枕も上がらない者もいる。今のところ死亡者は出ていないが、解熱の薬が不足しており、そのため領主であるセレン自ら魔女の元に出向き、解熱薬の依頼にやってきた、という次第だ。
領主の立場として森の魔女の元へやってきたセレンだが、むろんそれだけではない。
恋人に会いたくて、セレンは馬を駆らせてやってきたのだ。それを、恋人であるはずの森の魔女はたして気づいているのかいないのか。
この地を治める領主であり、さらには国王の実子であるという、いわば高貴な身分であるはずのセレンだが、そのセレンは今、恋人のつれなさに苦笑しながら、いそいそと茶を淹れている。
昼過ぎになってから森の舘へ来たのだが、日はとうに暮れかかっている。つい先刻まで小窓から西日が差し込んでいたというのに、ふと見ると、もはや濃紺色の帳が空を覆い始めている。茶を淹れるついでに、部屋のランプにも火をいれた。湯を沸かしている暖炉の火もあるが、部屋を明るく灯す役割はないだろう。
冬の落日は早い。
刻一刻と暗くなり、それとともに空気も冷たくなってゆく。
セレンは暖炉に薪をくべてから森の魔女の傍に戻った。なかなかに甲斐甲斐しい。
「魔女殿、はい、お茶をどうぞ」
森の魔女は鍋の中身を長い棒でかき混ぜつつ、「ありがとうございます」と、笑顔でカップを受け取った。森の魔女はちょっと熱そうな顔をしつつ、ちびちびとセレンの淹れた茶を飲んだ。それからホッと息をつき、カップをテーブルに戻すと、再びセレンに背を向けて、魔法薬作りに没頭した。
森の魔女はセレンの依頼した薬を作ってくれているのだ。相手をしてくれないのは残念だが、邪魔をすべきではないとわかっているから、おとなしく暖炉の火を守ることにした。
セレンは暖炉の前に椅子を移動させた。茶を淹れる時に使ったやかんは後で戻せばいいだろう。火掻き棒で薪の位置を直して火の強さを調節し、灰を掻く。森の魔女の住処である館は来なれた場所だ。先代の森の魔女が生きていた頃も、何度か遊びに来ていた。思い出も多い。
セレンは森の魔女の様子を何度となく窺った。時折、魔女の手から光る粉のようなものが降り落ちている。どうやら「魔法」を使っているようだった。魔女の口から聞こえるか聞こえないかの声が発せられている。
セレンは嘆息し、自分で淹れた茶を飲んだ。渇いているのは、喉だけではない。
声に出しかけては何度も飲み込む「名」があった。呼びかけられず、喉の奥にその名が詰まっている。茶では流し落とせないようだ。
発せられないでいるのは、森の魔女の「名」だ。
「森の魔女」という通り名でしか呼ばれないが、セレンは実の名を知っている。
魔力を持つ者は、実の名を秘すのが通例であるらしい。よほど信頼している相手にしか名を明かすことはないと聞かされてきた。
そして今、セレンは森の魔女の名を知っている。特別にと、その名と気持ちを明かされた。
そうして、晴れて恋人同士になったのだ。
こ二人きりでいる時、セレンは無性に恋人の名を呼びたくなる。実際そうしているのだが、もったいぶって「魔女殿」と呼ぶことも多い。長年の癖が抜けないせいでもあるが。
一方で、森の魔女はなかなかセレンの名を呼んでくれない。「王子」と呼ぶのが当たり前になりすぎていて、急に呼び名を変えるのは慣れないのだと、森の魔女は言う。気恥しさもあるらしく、それも素直に認めた。
だからこそ、ふいに「セレン」と名を呼ばれたときは胸が高鳴るほどに嬉しい。
他愛無いが、それが恋心というものだろう。そういう満足感は、ある。
しかし、やはりつれないとも思うのだ。
恋人同士であるのに、よそよそしすぎやしないか、と。
こうして二人きりでいる時にこそ、セレンは己の独占欲の強さを感じ、懊悩する。
傍に居るのに、ひどく遠いような。
離れているのがもどかしい。互いの熱を感じあいたい。抱きしめたいと、セレンは劣情に身を焦がしている。
セレンの亜麻色の瞳が恋情に揺らめいているというのに、恋人である森の魔女は気づかない。暖炉の炎よりも熱く、激しく、愛しい恋人を求めているというのに。
「魔女殿」
「はい、なんですか、王子?」
声をかければ、森の魔女は返事をする。が、振り返らない。鍋の中身ばかりを気にして、集中している。
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「そろそろ君を連れてベッドに行きたいのだけど。どうしたらいいかな?」
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「まだ夕食もまだなんですけど?」
森の魔女の返しは、セレンの予想通りだった。何を言われたのか、森の魔女は理解していない。かなり直截的な物言いをしたはずなのだが、とセレンは苦笑する。
「寝室なら、二階ですよ? 階段をあがって右に曲がって突きあたりに客間があるの、王子も知ってますよね?」
もとが貴族の別邸だっただけに、森の魔女が住まう館は広い。だが人が寝泊まりできるように清掃された部屋は少ない。二階に用意されている客間は王子専用といってよかった。セレンがまだ領主になる前は何度か遊びに来ていて、泊っていくこともあった。その時に用意した部屋なのだ。今でもそこはセレンの専用部屋として、常にきれいに整えてある。ちなみに二階には森の魔女の寝室もある。客間とは真逆の方向だ。セレンはまだ足を踏み入れたことがない。
「もし眠いなら、客間で休んでいてください。薬はもうすぐできるので。夕食の支度ができたら、呼びに行きます」
森の魔女の返事はひどく淡々としたものだが、以前にはない感情もそこには混じっていた。セレンを無碍に追い返すこともしない。泊っていくことを、ごく自然の成り行きとして受け入れてくれている。
それはセレンにとって嬉しいことなのだが、ほんの少し物足りなくはある。もう少しだけ、踏み込んでしまいたくなるほどには。
「私が行きたいのは、君の部屋なのだけどね? できれば、君と一緒に」
「そう言われましても……もうちょっと待ってください、あと味の調整だけで済みますから」
ここまで言っても森の魔女は何を言われたのか理解が及ばないようだ。セレンは苦笑するしかない。まさかここまで鈍いとは……考えてはいたが、それにしても。
だが不思議と腹立たしさはなく、むしろ可笑しさすら感じる。我ながら辛抱強いものだと、セレンは自分が滑稽で、やれやれと肩を竦めたくなる。
「もしお疲れなら、客間で休んでてくださっても」
森の魔女は色恋に疎い。だが、疎すぎないともいえた。
恋人同士になる前なら、おそらくセレンに「帰ってもいいですよ」と言ったろう。今日は、その一言が出ない。
「いや、ここで待っているよ。眠いわけではないしね。それとも、私がここに居たら邪魔になるかな?」
「邪魔だなんて、そんなことはないですっ。ただ、その、王子、退屈なのかなぁって」
「魔女殿と一緒に居て、退屈に思うことなんて、ないよ」
「もうっ、王子ってば、またそういうことを」
「真実思っていることを言っているだけなのだけど」
「思ってても、それを口にしなくていいですからっ」
「言葉にしないと、伝わらないだろう?」
「王子の言葉はいちいち……なんというか、甘いっていうか、恥ずかしいんですってば」
言葉の素直さならば、森の魔女の方がよほどだろうと、セレンは亜麻色の瞳を細めて笑う。
森の魔女をからかってその反応を見るのが、セレンの愉しみのひとつになっている。それを告白してしまえば、きっと森の魔女は顔を真っ赤にして拗ねてしまうだろう。その拗ねた顔も可愛らしく、思い描いただけでもセレンの頬は緩む。
セレンは立ち上がり、森の魔女の隣に立って鍋の中を確かめる。においは薄れているから、近寄ってみても顔をしかめずにすんだ。
「退屈ということはないけれど、少しばかり手持無沙汰ではあるかな。何か手伝えることはない、森の魔女殿?」
「…………」
森の魔女は何やら言いたげにセレンを上目遣いに見つめた。言いたいことがあるようだが、それが言葉にならないらしい。森の魔女は小さくため息をつき、それから肩の力を抜いたような笑みを浮かべて言った。
「分かりました。それじゃ遠慮なくお手伝いしてもらっちゃいますからね、王子?」
薬作りはおおむね順調に進められた。いつもは眷属のリフレナスが手伝ってくれるのだが、今日に限って朝から一度も姿を見せない。気を利かせてくれたらしいと察したのはセレンだけで、森の魔女は「森の探索に出ている」というリフレナスの言葉を額面通りに受け取っていた。
ともあれ、作業の合間に夕食をとりつつ、無事大量の解毒薬は完成した。
「明日には持って帰って、配給できますよ。必要としてる人に配って、それでも足りなかったらまた作り足しますから、遠慮なく言ってくださいね。他に必要な薬もあれば用意しますから。わたしも明日は街に行って、どんな様子か確認して……それ、から……」
言い終えぬうちに、森の魔女はくたくたとソファーに座りこみ、身体を横たえた。
「魔女殿」
セレンは少々慌ててその場に跪き、魔女の手を取った。手は温かかったが、力が抜けきっている。
「……すみません、大丈夫です。じつは昨日からあまり寝てなくて……急に眠気が……」
魔法を使いすぎたせいもあるのだろう。とにかく身体に力が入らないといった具合だ。
セレンが頬を撫ぜても、森の魔女は何の反応も見せない。瞼を持ちあげるのですら億劫なようだ。
「眠いだけです、から……このまま……」
「眠くて耐えられないのは分かったけれど、ここで眠ってしまってはだめだよ」
「……ん……」
頷くものの、森の魔女は瞼を閉じてしまう。
セレンは長い黒髪を撫でつけてから、小柄な体をゆっくりと横抱きにして持ちあげた。
「……っ、おう、じっ」
身体が浮いたのに気づいて、森の魔女はさすがにハッと目を開けた。
「じっとしてて。ともかく、ここで眠ってしまっては、君まで体調を崩しかねないからね」
「……はい」
驚きはしたものの、抗う力も残っていないらしい。森の魔女はおとなしくセレンに抱きかかえられていた。頬だけは紅潮している。
「君の部屋に入ること、許してもらえるかな?」
森の魔女の身体を労わりながら、セレンはゆったりと歩く。そして律儀にも、そう尋ねた。森の魔女はこっくりと頷いて応じた。
階段を上り、客間ではない方向へセレンは足を向ける。幸い、月明りがさしていて、廊下は明るかった。
「……あの」
森の魔女の指が、そっとセレンの手に触れた。腕を上げるのもしんどかったろうに、意識がまだ消えぬうちにと思ったのだろう。森の魔女の瞼が少しだけ開いて、セレンの亜麻色の瞳を覗きこむようにして見つめる。幼げな、というよりひどく甘やかな表情で、セレンを見つめて言った。
「ありがとう、…………セレン」
傍にいてね、と囁かれた。あるいはそれはセレンの願望ゆえの空耳だったかもしれないが、そうではないだろう。
セレンは名残惜しげに、森の魔女をベッドに横たえさせた。着替えさせてやりたかったが、靴を脱がせるだけにとどめた。
森の魔女はもう夢の中だ。安らいだ寝息が、ほんのりと笑みの形をのこしている口から聞こえてくる。
「ずっと傍にいるよ。……おやすみ、私のキラ」
セレンは恋人の名を、まるで魔法の呪文であるかのようにささやき、そして額に口付けた。
翌朝、キラはすぐ傍にセレンの秀麗な顔を見つけるだろう。そしてセレンは何食わぬ顔して、キラの唇に接吻するに違いない。
そして二人の一日は甘やかに始まるのだ。
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