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1話
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緑深い森の奥、そこに魔女の館がある。
森はかつて魔の森と怖れられていた。あるいは妖精の境ともいわれ、そこに立ち入る人間はいなかった。現在フィンコリーの森と呼ばれ、「森の魔女」がそこに居を構えている。
森の魔女がいつから森に住みついたのか、多くの者は知らない。いつの間にか森にいて、いつの間にか存在を知られるようになり、そうしていつしか森は人が踏み入ることを拒まなくなっていった。もっとも、踏み入る人間のえり好みはしているようだが。
森に住む魔女は、魔法薬作りの名人として名を馳せていた。天候を読むのにも長け、時には空模様を操れたりもしたらしい。魔物を退ける護符の効き目も抜群というので、魔女をおとなう者が列を成した、という話が伝説的に語られている。森の魔女の名声は国中にひろまっており、「魔法」の依頼をする者が後を絶たなかったという。国を越えてやってくる者までいたという。
しかし時経るうちに噂も落ち着いたようで、森の魔女の住まいは閑静そのものだ。
ことに森の魔女の晩年はひっそりとしたもので、余生のほとんどを幼い弟子の養育に費やした。
――そして現在。「森の魔女」が天寿を全うし、他界して二年。森の魔女の住まいには唯一の弟子とその眷属がひっそりと暮らしていた。
「惚れ薬を作ってほしい」
魔女のもとにそういった依頼を携えてやって来る者は珍しくない。
だからその依頼自体はそう驚くようなことではなかったのだが、それを言った依頼主が意外な人物だった。
魔女を訪ね、依頼を口にしたのは亜麻色の髪の美しい青年だった。
亜麻色の髪の青年は、ぽかんと口をあけている黒髪の魔女に繰り返してみせた。とてつもなく美々しい微笑みを湛えて。
「聞こえなかったかな? 惚れ薬を作ってほしいと依頼しているのだけど?」
唖然とした顔のまま、森の魔女は応えた。
「…………冗談なら、もうちょっと気の利いたことをいったほうがいいと思いますよ。笑えませんから」
「冗談ならね。君も魔女ならば、惚れ薬くらいはお手の物だろう?」
まさかとは思うが、どうやら本当らしい。
森の魔女は一瞬ムッとしたがすぐに作り笑いを浮かべた。
「残念です。もう店じまいです。閉めます。帰ってください。またのご来店をお待ちしてます」
「まだ午後のお茶の時間だが、早い閉店だね」
「魔女は夜行性なんです」
「わかった。ならば深夜にもう一度でなお……」
「臨時休業です、たった今から」
「長年の顧客は大切にするものだと、師匠殿から聞かされてはいなかったのかな?」
「何事も臨機応変に、というのが師匠の教えの一つでした」
「師匠殿の言うとおりだね。ここはひとつ臨機応変に接客してもらえたら嬉しいのだけど」
「相手によるのも、臨機応変です」
亜麻色の髪の青年は、小さく笑う。まだ年若い魔女との会話は、いつもこの調子だ。
青年の身分を知りながら、そのことに関してさほど頓着しない。そのことが青年には嬉しい。
「だいたいですね、王子」
しかたなく、森の魔女は「お客」として青年をもてなすことにした。どうせ、素直に帰るようなことはないだろう。淹れたてのハーブティーを青年の前に置いた。
「いきなり惚れ薬って、何ですか」
問われて、王子と呼ばれた青年は意味ありげに微笑んだ。
「なんですか、その顔」
「何と言われても。……気になる?」
「どうでもいいですけど。……とにかく!」
魔女は両の手を腰にあてて、ちょっと威儀を正してみせた。小柄な森の魔女がそうやって空威張りをする様は、たいそう可愛らしい。それを口にすると怒られそうなので、王子は口を噤んだままで魔女を微笑ましく見つめた。
「惚れ薬は作れません。なので、その依頼は却下です」
「おや、魔法薬作りの名人が?」
「作れません」
「師匠殿だったら、作れたかもしれないね?」
「作れませんってば。師匠を引き合いに出しても無駄ですよ? 師匠にだって作れない薬はありましたから」
「不死の薬と、惚れ薬?」
「知ってるなら、そんなばかげた依頼しないでください。だいたい、どうして惚れ薬なんて必要なんです?」
必要ないだろうと思う。
魔女の目の前にいる青年は、卓越した美貌の持ち主だ。しかも「王子」という肩書までついている。王子というのは肩書きではなく単なる事実で、「領主」と呼ぶのが正しい。が、見た目の麗々しさからいつしか「王子」と呼ばれることが多い。
気さくで物腰穏やかな王子は、領内の女の子達の憧れの的だ。市井の娘達のみならず、貴族階級のご婦人方や財産家のお嬢様方からも人気があり、熱い視線が注がれている。惚れさせる薬など、王子には無用のものだろう。
少女はふと思いつき、確認してみた。
「もしかして、別の誰かからの依頼ですか? 王都にいらっしゃるご兄弟からとか?」
「いや」
ここにいる王子は、何人かいる国王の王子のうちの一人だ。末弟でなく、上にも下にも何人か異母の兄弟がいると聞いている。
もともとは王都、国王のひざ元にいたのだが、数年前にこの「リマリック領」に封ぜられた。リマリックは辺境の地といっていい。その辺境地の領主なのだ、亜麻色の髪の王子は。
王子の身上については、だいたいのことは本人から聞いて魔女も知っている。幼い頃からの馴染みでもある。だから私事についても、そこそこ詳しいと言える。だから今王子に恋人と思しき人がいないことも、知っている。ただ、意中の人がいるかどうかまでは知らなかった。
「それじゃぁ、王子自身の依頼なんですか?」
「……そうだね」
王子は曖昧に笑って、首を横に振った。森の魔女は怪訝そうに小首を傾げる。
「私に必要なんだよ。是非に、ね」
「…………」
どうしてですかと、なぜか魔女は問いかえせなかった。
魔女と王子が出逢ったのは、もう何年前。魔女が五歳頃のことだった。
両親を不慮の事故で亡くし、孤児となった少女はフィンコリーの森に住む魔女に預けられた。どういった経緯がそこにあったのか、少女は知らなかった。だがどうやら魔女の才がありそうだということで、魔女修行を勧められ、少女はそれからずっと森の魔女のもとで過ごすこととなった。
一方、王都から辺境の地へやってきていた王子は、日々英才教育を受けていた。後のち領主となるべく王都からこの地に封ぜられたとはいっても、王子もまだ幼かった。辺境の地に「追いやられた」という感覚は王子にはなかった。実母が病弱で、療養のために来たのだと思っていた。実際、国王もそのように配慮してくれたのだ。家格も低い貧乏貴族の令嬢だった母にとって、王都での生活は心身共にストレスが多かった。それを知って、国王は転居を勧めたのだ。
魔法薬作りの名人だという森の魔女の噂を、国王は耳にしていたのだろう。
こうして、王子と森の魔女と、その弟子になりたての少女は出逢ったのだ。
魔女見習いの少女より王子は三つほど年上だった。なるほど「王子」らしく気品のある少年だった。
「よろしく、魔女のお弟子さん」と、握手を求めてきた時の王子のはにかんだ笑顔を、今も憶えている。
森の魔女はため息をついた。
あの頃は可愛かったのに、と。
とはいえ、二十歳の男がいつまでも可愛いままではいられないだろう。あれから十年以上が経ったのだ。
いや、それにしたって、あんな胡散臭い笑顔を見せる少年ではなかった。優しく素直な少年だったのだ。美麗な容貌はそのまま……というより、歳を重ねることに珠が磨かれていくがごとくにより美しくなっていった。
それはともかく、だ。
「よりにもよって惚れ薬だなんて、どう思う、リプ?」
リプと呼ばれて振り返ったのは、尻尾の長い、金褐色の毛並みのネズミだった。
「リフレナスだと、何度言ったらわかる? 勝手に短縮するな。それにプじゃなく、フだ」
「リプのほうが似合ってるし、可愛いじゃない」
「お前の師匠がつけた名だ。正式な名前で呼ばれたいものだな、現在はお前が主なんだからな」
「主なんだから、好きに呼んだっていいでしょ? ほら、リンゴ剥いたよ、リプ」
「…………」
リフレナスはリンゴを受け取った。少々不機嫌そうにも見えるが、別段怒っているわけではなく、それがリフレナスのいつもの顔だ。存外表情が豊かなネズミなのだ。
リフレナスは、ネズミの形をとっている魔女の眷属だ。
先代の森の魔女が眷属の契約者であり、元の主だった。二年前に先代が病で他界し、「森の魔女」は代替わりをした。そして眷属の契約はそのまま継続され、まだ幼さの残る二代目森の魔女がリフレナスの主となった。眷属というより、もっぱらお喋りの相手にされている。
「で、どう思う、リプ? 王子が惚れ薬なんて?」
「必要なんだろう、王子にとっては」
「てことは、そういう相手がいるってことだよね? リプ、何か知ってるの?」
「さぁな」
「リプってば、なんか知ってそうな口ぶり。まぁ、王子だってそろそろ結婚話くらい持ち上がってるよね。一応はこの地の領主って立場にいるんだし。……だけど王子の結婚話なんて、そんなの噂にも聞こえてこないなぁ」
リフレナスはリンゴを齧っただけで、応えなかった。
夕食後のお茶を用意しながら、魔女はあれこれと思いを巡らせている。なぜなのか、ひどく胸がもやもやして、気が落ち着かない。
「そういえば王子、最近は毎日のようにここに来てるけど、仕事とか、大丈夫なのかな?」
「丸一日居るわけではないから大丈夫だろうさ。一応は、お前の身辺を気にかけてるんだろう」
「それは、……ありがたいけど。師匠が亡くなった時なんかも、すごく助かったし」
二年前師匠が他界した時に、王子から屋敷に来ないかと誘われた。
森の奥で年若い娘が独り暮らしをするのを案じて、王子は押しつけがましくなく気遣って、そう申し出てくれた。王子の気持ちは嬉しかったが、魔女は丁重に断った。
魔法薬作りの腕を上げ、町で評判の「薬剤師」になった魔女は、一人でもなんとか暮らしていける自信はあった。何より、師匠と暮らした思い出のある館を出るのは、しのびなかった。
王子の行政力が高かったため、治安は良いといっていい土地だし、師匠の威光が国中に広まっていたおかげで、「魔女の住む森」には盗賊なども入り込まなかった。いざとなれば、リフレナスが(たぶん)護ってくれるだろう。
王子は強いて魔女を屋敷へ連れて行こうとはしなかったが、変わりに頻々と森の魔女の住処へ足を運ぶようになった。とくに用事もなく「顔を見に」ということもあったが、時には薬の処方を依頼してくることもあった。大抵は風邪薬や胃腸薬といったありきたりなもので、森の魔女は馴染みの上客として快くそれに応じていた。王子の「顔を見る」こと自体も、それなりに嬉しかった。
しかし、その王子がいきなり「惚れ薬」とは。
惚れ薬は、作るのは不可能だ。
それは先代の森の魔女でも同じだ。「惚れ薬」などというものは存在しない、あったとしても森の魔女はその処方を知らない、よしんば知っていても作ることはしない。
師匠から、そう学んできたのだ。
そのことを何度説明しても、王子は引き下がらない。ただにこにこと笑って、「頼む」と繰り返すばかりだった。「惚れ薬が必要なんだ」、と。
魔法薬の大半は、魔法を使わず調合できる。材料は薬草だから、知識さえあれば魔女に限らず作ることは可能だ。
魔女はそうした薬草などの知識が豊富なため、薬を作ることが得意なのだが、稀にその薬に魔法を用いることがある。効き目をよりよくするための調味料、もしくは香辛料のようなものだ。
だから、肉体の全てを変化させる薬や、心を操るような薬は、作れない。
「よしんば魔力でそれを作ることができても、作るべきではないんだよ」
師匠はそう言っていた。
何十年魔女として生きてきたのか、それを知る者もいないくらい長生きをしてきた師匠も、やはり「不死」ではいられなかった。
「変わっていくことは、良いことなのだよ。それを無理に捻じ曲げてしまえば、そのしわ寄せは必ず己が身に返ってくるからね」
師匠の言うことを、魔女見習いの少女は肝に銘じていた。
そして今、師匠の言葉を思い出していた。
変わっていく……それがほんの少し、怖くもあった。
森の魔女は森の奥で「変わり映えなく」ずっと生きてきたから。
変わっていくんだろうか、とそんな予感がよぎったのはいつだったろうか。
変わっていくのは、自然の摂理でもある。当然のことだし、残念なことはあるかもしれないけれど、悪いことばかりではないはずだ。自分次第で良い方向に向かうかもしれない。
うら若い魔女は見目麗しい王子の面貌を思い浮かべ、知らずため息をついていた。
森はかつて魔の森と怖れられていた。あるいは妖精の境ともいわれ、そこに立ち入る人間はいなかった。現在フィンコリーの森と呼ばれ、「森の魔女」がそこに居を構えている。
森の魔女がいつから森に住みついたのか、多くの者は知らない。いつの間にか森にいて、いつの間にか存在を知られるようになり、そうしていつしか森は人が踏み入ることを拒まなくなっていった。もっとも、踏み入る人間のえり好みはしているようだが。
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しかし時経るうちに噂も落ち着いたようで、森の魔女の住まいは閑静そのものだ。
ことに森の魔女の晩年はひっそりとしたもので、余生のほとんどを幼い弟子の養育に費やした。
――そして現在。「森の魔女」が天寿を全うし、他界して二年。森の魔女の住まいには唯一の弟子とその眷属がひっそりと暮らしていた。
「惚れ薬を作ってほしい」
魔女のもとにそういった依頼を携えてやって来る者は珍しくない。
だからその依頼自体はそう驚くようなことではなかったのだが、それを言った依頼主が意外な人物だった。
魔女を訪ね、依頼を口にしたのは亜麻色の髪の美しい青年だった。
亜麻色の髪の青年は、ぽかんと口をあけている黒髪の魔女に繰り返してみせた。とてつもなく美々しい微笑みを湛えて。
「聞こえなかったかな? 惚れ薬を作ってほしいと依頼しているのだけど?」
唖然とした顔のまま、森の魔女は応えた。
「…………冗談なら、もうちょっと気の利いたことをいったほうがいいと思いますよ。笑えませんから」
「冗談ならね。君も魔女ならば、惚れ薬くらいはお手の物だろう?」
まさかとは思うが、どうやら本当らしい。
森の魔女は一瞬ムッとしたがすぐに作り笑いを浮かべた。
「残念です。もう店じまいです。閉めます。帰ってください。またのご来店をお待ちしてます」
「まだ午後のお茶の時間だが、早い閉店だね」
「魔女は夜行性なんです」
「わかった。ならば深夜にもう一度でなお……」
「臨時休業です、たった今から」
「長年の顧客は大切にするものだと、師匠殿から聞かされてはいなかったのかな?」
「何事も臨機応変に、というのが師匠の教えの一つでした」
「師匠殿の言うとおりだね。ここはひとつ臨機応変に接客してもらえたら嬉しいのだけど」
「相手によるのも、臨機応変です」
亜麻色の髪の青年は、小さく笑う。まだ年若い魔女との会話は、いつもこの調子だ。
青年の身分を知りながら、そのことに関してさほど頓着しない。そのことが青年には嬉しい。
「だいたいですね、王子」
しかたなく、森の魔女は「お客」として青年をもてなすことにした。どうせ、素直に帰るようなことはないだろう。淹れたてのハーブティーを青年の前に置いた。
「いきなり惚れ薬って、何ですか」
問われて、王子と呼ばれた青年は意味ありげに微笑んだ。
「なんですか、その顔」
「何と言われても。……気になる?」
「どうでもいいですけど。……とにかく!」
魔女は両の手を腰にあてて、ちょっと威儀を正してみせた。小柄な森の魔女がそうやって空威張りをする様は、たいそう可愛らしい。それを口にすると怒られそうなので、王子は口を噤んだままで魔女を微笑ましく見つめた。
「惚れ薬は作れません。なので、その依頼は却下です」
「おや、魔法薬作りの名人が?」
「作れません」
「師匠殿だったら、作れたかもしれないね?」
「作れませんってば。師匠を引き合いに出しても無駄ですよ? 師匠にだって作れない薬はありましたから」
「不死の薬と、惚れ薬?」
「知ってるなら、そんなばかげた依頼しないでください。だいたい、どうして惚れ薬なんて必要なんです?」
必要ないだろうと思う。
魔女の目の前にいる青年は、卓越した美貌の持ち主だ。しかも「王子」という肩書までついている。王子というのは肩書きではなく単なる事実で、「領主」と呼ぶのが正しい。が、見た目の麗々しさからいつしか「王子」と呼ばれることが多い。
気さくで物腰穏やかな王子は、領内の女の子達の憧れの的だ。市井の娘達のみならず、貴族階級のご婦人方や財産家のお嬢様方からも人気があり、熱い視線が注がれている。惚れさせる薬など、王子には無用のものだろう。
少女はふと思いつき、確認してみた。
「もしかして、別の誰かからの依頼ですか? 王都にいらっしゃるご兄弟からとか?」
「いや」
ここにいる王子は、何人かいる国王の王子のうちの一人だ。末弟でなく、上にも下にも何人か異母の兄弟がいると聞いている。
もともとは王都、国王のひざ元にいたのだが、数年前にこの「リマリック領」に封ぜられた。リマリックは辺境の地といっていい。その辺境地の領主なのだ、亜麻色の髪の王子は。
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「それじゃぁ、王子自身の依頼なんですか?」
「……そうだね」
王子は曖昧に笑って、首を横に振った。森の魔女は怪訝そうに小首を傾げる。
「私に必要なんだよ。是非に、ね」
「…………」
どうしてですかと、なぜか魔女は問いかえせなかった。
魔女と王子が出逢ったのは、もう何年前。魔女が五歳頃のことだった。
両親を不慮の事故で亡くし、孤児となった少女はフィンコリーの森に住む魔女に預けられた。どういった経緯がそこにあったのか、少女は知らなかった。だがどうやら魔女の才がありそうだということで、魔女修行を勧められ、少女はそれからずっと森の魔女のもとで過ごすこととなった。
一方、王都から辺境の地へやってきていた王子は、日々英才教育を受けていた。後のち領主となるべく王都からこの地に封ぜられたとはいっても、王子もまだ幼かった。辺境の地に「追いやられた」という感覚は王子にはなかった。実母が病弱で、療養のために来たのだと思っていた。実際、国王もそのように配慮してくれたのだ。家格も低い貧乏貴族の令嬢だった母にとって、王都での生活は心身共にストレスが多かった。それを知って、国王は転居を勧めたのだ。
魔法薬作りの名人だという森の魔女の噂を、国王は耳にしていたのだろう。
こうして、王子と森の魔女と、その弟子になりたての少女は出逢ったのだ。
魔女見習いの少女より王子は三つほど年上だった。なるほど「王子」らしく気品のある少年だった。
「よろしく、魔女のお弟子さん」と、握手を求めてきた時の王子のはにかんだ笑顔を、今も憶えている。
森の魔女はため息をついた。
あの頃は可愛かったのに、と。
とはいえ、二十歳の男がいつまでも可愛いままではいられないだろう。あれから十年以上が経ったのだ。
いや、それにしたって、あんな胡散臭い笑顔を見せる少年ではなかった。優しく素直な少年だったのだ。美麗な容貌はそのまま……というより、歳を重ねることに珠が磨かれていくがごとくにより美しくなっていった。
それはともかく、だ。
「よりにもよって惚れ薬だなんて、どう思う、リプ?」
リプと呼ばれて振り返ったのは、尻尾の長い、金褐色の毛並みのネズミだった。
「リフレナスだと、何度言ったらわかる? 勝手に短縮するな。それにプじゃなく、フだ」
「リプのほうが似合ってるし、可愛いじゃない」
「お前の師匠がつけた名だ。正式な名前で呼ばれたいものだな、現在はお前が主なんだからな」
「主なんだから、好きに呼んだっていいでしょ? ほら、リンゴ剥いたよ、リプ」
「…………」
リフレナスはリンゴを受け取った。少々不機嫌そうにも見えるが、別段怒っているわけではなく、それがリフレナスのいつもの顔だ。存外表情が豊かなネズミなのだ。
リフレナスは、ネズミの形をとっている魔女の眷属だ。
先代の森の魔女が眷属の契約者であり、元の主だった。二年前に先代が病で他界し、「森の魔女」は代替わりをした。そして眷属の契約はそのまま継続され、まだ幼さの残る二代目森の魔女がリフレナスの主となった。眷属というより、もっぱらお喋りの相手にされている。
「で、どう思う、リプ? 王子が惚れ薬なんて?」
「必要なんだろう、王子にとっては」
「てことは、そういう相手がいるってことだよね? リプ、何か知ってるの?」
「さぁな」
「リプってば、なんか知ってそうな口ぶり。まぁ、王子だってそろそろ結婚話くらい持ち上がってるよね。一応はこの地の領主って立場にいるんだし。……だけど王子の結婚話なんて、そんなの噂にも聞こえてこないなぁ」
リフレナスはリンゴを齧っただけで、応えなかった。
夕食後のお茶を用意しながら、魔女はあれこれと思いを巡らせている。なぜなのか、ひどく胸がもやもやして、気が落ち着かない。
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「丸一日居るわけではないから大丈夫だろうさ。一応は、お前の身辺を気にかけてるんだろう」
「それは、……ありがたいけど。師匠が亡くなった時なんかも、すごく助かったし」
二年前師匠が他界した時に、王子から屋敷に来ないかと誘われた。
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魔法薬作りの腕を上げ、町で評判の「薬剤師」になった魔女は、一人でもなんとか暮らしていける自信はあった。何より、師匠と暮らした思い出のある館を出るのは、しのびなかった。
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王子は強いて魔女を屋敷へ連れて行こうとはしなかったが、変わりに頻々と森の魔女の住処へ足を運ぶようになった。とくに用事もなく「顔を見に」ということもあったが、時には薬の処方を依頼してくることもあった。大抵は風邪薬や胃腸薬といったありきたりなもので、森の魔女は馴染みの上客として快くそれに応じていた。王子の「顔を見る」こと自体も、それなりに嬉しかった。
しかし、その王子がいきなり「惚れ薬」とは。
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師匠から、そう学んできたのだ。
そのことを何度説明しても、王子は引き下がらない。ただにこにこと笑って、「頼む」と繰り返すばかりだった。「惚れ薬が必要なんだ」、と。
魔法薬の大半は、魔法を使わず調合できる。材料は薬草だから、知識さえあれば魔女に限らず作ることは可能だ。
魔女はそうした薬草などの知識が豊富なため、薬を作ることが得意なのだが、稀にその薬に魔法を用いることがある。効き目をよりよくするための調味料、もしくは香辛料のようなものだ。
だから、肉体の全てを変化させる薬や、心を操るような薬は、作れない。
「よしんば魔力でそれを作ることができても、作るべきではないんだよ」
師匠はそう言っていた。
何十年魔女として生きてきたのか、それを知る者もいないくらい長生きをしてきた師匠も、やはり「不死」ではいられなかった。
「変わっていくことは、良いことなのだよ。それを無理に捻じ曲げてしまえば、そのしわ寄せは必ず己が身に返ってくるからね」
師匠の言うことを、魔女見習いの少女は肝に銘じていた。
そして今、師匠の言葉を思い出していた。
変わっていく……それがほんの少し、怖くもあった。
森の魔女は森の奥で「変わり映えなく」ずっと生きてきたから。
変わっていくんだろうか、とそんな予感がよぎったのはいつだったろうか。
変わっていくのは、自然の摂理でもある。当然のことだし、残念なことはあるかもしれないけれど、悪いことばかりではないはずだ。自分次第で良い方向に向かうかもしれない。
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