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3フレア
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(逃げたわね……)
私は深いため息をついた。
いつもは心を癒してくれる子供たちも、もうここにはいない。
ゼノとルナが寮へ入ったとき、引っ越しと同時に自分の荷物も新居へ移動した。
この家にはもう夫婦共通で使っていた物しか残ってない。
荷物が少なくなっている事に彼は気付いているだろうか。
(私に興味がない人だもの、妻の物がなくなっても気が付かないわよね)
苦笑して立ち上がった。
グレン宛に短い手紙を書いてテーブルの上に置いた。
『私は家を出ます。離婚届にサインしてくれるまで、あなたと話はしません』
用意していたボストンバッグを手に持って私は家を出た。
結婚して15年、いろんな事があった。
思い出の詰まったこの家とさよならする。寂しいけれどここはグレンの家だ。
これからの新しい人生に夫は足枷にしかならない。
***
初めて彼女を見たのは今から10年前、子供たちが5歳の頃だった。
あの時は双子の育児に必死で、毎日が戦場だった。
夫は騎士として今が正念場だと言い、できるだけ手を煩わせないように家の事は全て私が一人でしていた。
双子を連れての買い物は地獄だった。
昔は私が歩きやすいように、グレンが背中から緩い風を私に当て、追い風にして歩くのを助けてくれた。
暑い時期は、室内にも風を起こしてカラッと快適に過ごせるようにしてくれた。
けれど、心地よい時間は、今はもう過去の話だ。
仕事が忙しく、彼は子供達と過ごす時間ですら持つことが難しくなっている。
雨上がりで道はぬかるんでいたけれど、今日新鮮な魚が入ってくると市場のお店の人に言われた。
子連れで市場まで行って、並んでアジを買った。
子供が車道に走り出ないように、声をかけながら、大きな買い物袋を両手に持って私は家路を急いでいた。
息子のゼノが道の石ころに躓いて、水溜りに顔を突っ込む形で盛大に転んだ。
双子というのは不思議なもので、一方が転ぶともう一人も転ぶ。
結果、娘のルナも転び、二人とも水溜りに突っ込んだ。
服は泥だらけで、子供たちは泣き出す。私は両手に荷物を抱えていて身動きが取れない。
急いで荷物を地面に置いて、子供たちを立ち上がらせた。
道行く人が笑って通り過ぎて行く。
ジロジロ見られて、恥ずかしいけど、まだ子供だ。
ハンカチで子供たちの顔の泥を拭い、怪我が無いか確かめた。
前方から、若い娘さんが歩いてくるのが見えた。邪魔にならないように道の脇に子供たちを移動させた。
貴族令嬢なのだろう、護衛の騎士を連れている。
ふっと視線を向けると、護衛にあたっているのが騎士団の制服を着ている夫だと気付いた。
彼と目が合った。
『あっ!』
と思ったが、職務中かもしれない。
邪魔をしてはいけないと、泣いている子供に視線を落とした。
通り過ぎる時に令嬢が私たちの方に向かい言った。
「……汚ったない子」
はっきり聞こえた言葉に耳を疑った。
グレンが子供たちを助けようとするだろうか、私は顔を上げられなかった。
子供たちはまだ泣いている。
グレンは私たちを助けることなく、他人の振りをして通り過ぎていった。
離れていく夫の背中を見た。
令嬢が彼に腕を絡ませて、甘えたように話しかけている……
「……仕事……よ」
彼らは二人きりだ。他の護衛の姿はない。
二人の距離の近さに違和感を覚えたけど、さすがに騎士団の制服で昼間から遊ぶはずはない。
グレンに微笑みを向ける令嬢の横顔を見、私は眉間にしわを寄せた。
私たち親子を無視して行ってしまった夫に腹が立った。
けれど家に帰って考えたら、泥まみれの子供は確かに汚かったのだろう。
あの時、彼が恥ずかしい思いをしなくてよかったと考え直した。
*
「すまなかった。仕事中だったから、子供たちに声をかけられなかった」
帰宅したグレンはそう言って私に謝った。
「ごめんなさい。お仕事の邪魔になったわよね」
彼は私を優しく抱きしめて、いいや、大丈夫だよと言ってくれた。
これからは迷惑をかけないように注意しなくちゃ、それも妻の役目だと自分にいい聞かせた。
それから、何度か彼が街でその令嬢と一緒にいるところを見かけた。
近所の人からも、二人を見たと言われた。
『最近貴族令嬢が襲われる事件が多発していて。グレンは護衛の任務に就いているんです』
私は近所の人にそう説明した。
そしていつも通り、彼の為に部屋を掃除し、食事を温め、居心地の良い家になるよう夫の帰りを待っている。
『お仕事お疲れ様です。家族のためにいつも頑張ってくれていて感謝してるわ』
おかえりなさいと笑顔で夫を労い、彼への愛を伝えているつもりだった。
***
定期的に食事会やパーティーが騎士たちそれぞれの自宅で開かれる。
騎士団の団員はチームで動き、運命共同体のようなものだ。
だから妻たちもの結束も固い。
情報交換も兼ねて、騎士の妻たちだけで集まることも大切な付き合いのひとつだ。
みんなが集まると、いつも話の内容は夫の愚痴だ。
「うちの亭主も浮気ばっかりよ。騎士っていうのはすぐに女が寄って来るでしょ?商売女とだったら仕方がないから許してるの、というか、見て見ぬふりよ」
遠征に行ったりすると、必ずみんなで娼館へ行くらしい話も聞く。
そうじゃない真面目な騎士もいるようだけど、仲間外れにされないため、付き合いで行く人たちもいるらしい。
「浮気がバレたら土下座させて、今度同じ事があったら許さないって鍋で殴ってやるの」
「キャサリンのところは、2回も浮気がバレたんだっけ?」
冗談話に花を咲かせるけど、みんな心の中は穏やかじゃないだろう。
他の女の人と関係を持った夫を寛大な心で許すのが正しいのか私には分からなかった。
「若いうちは仕方がないでしょう。そのうち、旦那は留守の方が楽だなって感じるわよ。うちなんて、旦那から迫ってきたら鬱陶しいから、他所でしてこいって思うわ」
「帰ってきたら偉そうに指図するから、いない方がましよね」
ハハハッと笑い声が湧く。
自分はそう思わないけど、騎士の妻としては浮気ぐらいで騒いじゃ駄目なんだなと思った。
「こらこら、あなたたち。冗談を真に受ける人がいるからほどほどにしなさい」
団長の奥様のメアリーさんが話に入ってくる。
「そうね、そういう騎士もいるってこと。若いお嫁さん捕まえて、ちょっと大きく話を盛っちゃったわ」
「騎士団では、娼館へ行く事は禁止されているのよ。不正な事でお金を稼いでいる娼館もあるわ。摘発された時、常連ですなんてバレたら恥ずかしいでしょう。それに、ああいう場所は病気が蔓延しているから危険だわ」
「だから、男たちは職場で自慢げに話なんてできない。上から怒られるしね。清廉潔白で、正しい行いをするのが騎士道精神。浮気は妻に対しての裏切りですからね」
私は先輩夫人の言葉に頷いた。
「話半分に聞いておくのが良いんですね」
「ハハハッ、フレア、その通りよ。まぁ、グレンは男前だから心配よね。でも『妻がいるから』と断って、寄ってくる女を相手にしないって聞いてるわ」
「そうそう。モテる男は妻が命って。そういうものよ」
それが真実ならどれほど良かっただろう。
私は深いため息をついた。
いつもは心を癒してくれる子供たちも、もうここにはいない。
ゼノとルナが寮へ入ったとき、引っ越しと同時に自分の荷物も新居へ移動した。
この家にはもう夫婦共通で使っていた物しか残ってない。
荷物が少なくなっている事に彼は気付いているだろうか。
(私に興味がない人だもの、妻の物がなくなっても気が付かないわよね)
苦笑して立ち上がった。
グレン宛に短い手紙を書いてテーブルの上に置いた。
『私は家を出ます。離婚届にサインしてくれるまで、あなたと話はしません』
用意していたボストンバッグを手に持って私は家を出た。
結婚して15年、いろんな事があった。
思い出の詰まったこの家とさよならする。寂しいけれどここはグレンの家だ。
これからの新しい人生に夫は足枷にしかならない。
***
初めて彼女を見たのは今から10年前、子供たちが5歳の頃だった。
あの時は双子の育児に必死で、毎日が戦場だった。
夫は騎士として今が正念場だと言い、できるだけ手を煩わせないように家の事は全て私が一人でしていた。
双子を連れての買い物は地獄だった。
昔は私が歩きやすいように、グレンが背中から緩い風を私に当て、追い風にして歩くのを助けてくれた。
暑い時期は、室内にも風を起こしてカラッと快適に過ごせるようにしてくれた。
けれど、心地よい時間は、今はもう過去の話だ。
仕事が忙しく、彼は子供達と過ごす時間ですら持つことが難しくなっている。
雨上がりで道はぬかるんでいたけれど、今日新鮮な魚が入ってくると市場のお店の人に言われた。
子連れで市場まで行って、並んでアジを買った。
子供が車道に走り出ないように、声をかけながら、大きな買い物袋を両手に持って私は家路を急いでいた。
息子のゼノが道の石ころに躓いて、水溜りに顔を突っ込む形で盛大に転んだ。
双子というのは不思議なもので、一方が転ぶともう一人も転ぶ。
結果、娘のルナも転び、二人とも水溜りに突っ込んだ。
服は泥だらけで、子供たちは泣き出す。私は両手に荷物を抱えていて身動きが取れない。
急いで荷物を地面に置いて、子供たちを立ち上がらせた。
道行く人が笑って通り過ぎて行く。
ジロジロ見られて、恥ずかしいけど、まだ子供だ。
ハンカチで子供たちの顔の泥を拭い、怪我が無いか確かめた。
前方から、若い娘さんが歩いてくるのが見えた。邪魔にならないように道の脇に子供たちを移動させた。
貴族令嬢なのだろう、護衛の騎士を連れている。
ふっと視線を向けると、護衛にあたっているのが騎士団の制服を着ている夫だと気付いた。
彼と目が合った。
『あっ!』
と思ったが、職務中かもしれない。
邪魔をしてはいけないと、泣いている子供に視線を落とした。
通り過ぎる時に令嬢が私たちの方に向かい言った。
「……汚ったない子」
はっきり聞こえた言葉に耳を疑った。
グレンが子供たちを助けようとするだろうか、私は顔を上げられなかった。
子供たちはまだ泣いている。
グレンは私たちを助けることなく、他人の振りをして通り過ぎていった。
離れていく夫の背中を見た。
令嬢が彼に腕を絡ませて、甘えたように話しかけている……
「……仕事……よ」
彼らは二人きりだ。他の護衛の姿はない。
二人の距離の近さに違和感を覚えたけど、さすがに騎士団の制服で昼間から遊ぶはずはない。
グレンに微笑みを向ける令嬢の横顔を見、私は眉間にしわを寄せた。
私たち親子を無視して行ってしまった夫に腹が立った。
けれど家に帰って考えたら、泥まみれの子供は確かに汚かったのだろう。
あの時、彼が恥ずかしい思いをしなくてよかったと考え直した。
*
「すまなかった。仕事中だったから、子供たちに声をかけられなかった」
帰宅したグレンはそう言って私に謝った。
「ごめんなさい。お仕事の邪魔になったわよね」
彼は私を優しく抱きしめて、いいや、大丈夫だよと言ってくれた。
これからは迷惑をかけないように注意しなくちゃ、それも妻の役目だと自分にいい聞かせた。
それから、何度か彼が街でその令嬢と一緒にいるところを見かけた。
近所の人からも、二人を見たと言われた。
『最近貴族令嬢が襲われる事件が多発していて。グレンは護衛の任務に就いているんです』
私は近所の人にそう説明した。
そしていつも通り、彼の為に部屋を掃除し、食事を温め、居心地の良い家になるよう夫の帰りを待っている。
『お仕事お疲れ様です。家族のためにいつも頑張ってくれていて感謝してるわ』
おかえりなさいと笑顔で夫を労い、彼への愛を伝えているつもりだった。
***
定期的に食事会やパーティーが騎士たちそれぞれの自宅で開かれる。
騎士団の団員はチームで動き、運命共同体のようなものだ。
だから妻たちもの結束も固い。
情報交換も兼ねて、騎士の妻たちだけで集まることも大切な付き合いのひとつだ。
みんなが集まると、いつも話の内容は夫の愚痴だ。
「うちの亭主も浮気ばっかりよ。騎士っていうのはすぐに女が寄って来るでしょ?商売女とだったら仕方がないから許してるの、というか、見て見ぬふりよ」
遠征に行ったりすると、必ずみんなで娼館へ行くらしい話も聞く。
そうじゃない真面目な騎士もいるようだけど、仲間外れにされないため、付き合いで行く人たちもいるらしい。
「浮気がバレたら土下座させて、今度同じ事があったら許さないって鍋で殴ってやるの」
「キャサリンのところは、2回も浮気がバレたんだっけ?」
冗談話に花を咲かせるけど、みんな心の中は穏やかじゃないだろう。
他の女の人と関係を持った夫を寛大な心で許すのが正しいのか私には分からなかった。
「若いうちは仕方がないでしょう。そのうち、旦那は留守の方が楽だなって感じるわよ。うちなんて、旦那から迫ってきたら鬱陶しいから、他所でしてこいって思うわ」
「帰ってきたら偉そうに指図するから、いない方がましよね」
ハハハッと笑い声が湧く。
自分はそう思わないけど、騎士の妻としては浮気ぐらいで騒いじゃ駄目なんだなと思った。
「こらこら、あなたたち。冗談を真に受ける人がいるからほどほどにしなさい」
団長の奥様のメアリーさんが話に入ってくる。
「そうね、そういう騎士もいるってこと。若いお嫁さん捕まえて、ちょっと大きく話を盛っちゃったわ」
「騎士団では、娼館へ行く事は禁止されているのよ。不正な事でお金を稼いでいる娼館もあるわ。摘発された時、常連ですなんてバレたら恥ずかしいでしょう。それに、ああいう場所は病気が蔓延しているから危険だわ」
「だから、男たちは職場で自慢げに話なんてできない。上から怒られるしね。清廉潔白で、正しい行いをするのが騎士道精神。浮気は妻に対しての裏切りですからね」
私は先輩夫人の言葉に頷いた。
「話半分に聞いておくのが良いんですね」
「ハハハッ、フレア、その通りよ。まぁ、グレンは男前だから心配よね。でも『妻がいるから』と断って、寄ってくる女を相手にしないって聞いてるわ」
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