42 / 47
最終話
しおりを挟む
ずっと海の近くで暮らしていると時間帯によって風の動きが変わるのがわかる。
初夏の夕暮れ港の近くにある公会堂の庭園から海を眺めた。
僕は平民になり、領地の端の、この港近くの町で教師をしている。
領地に足を運んだことは数回しかなかった。この町の人たちは、僕が公爵だったなんて誰も知らない。
すべてを自分でする。まさに洗濯から食事の用意まで。
なかなか苦労したが、できなくても自分が困るだけで、誰にも迷惑はかけない。
その点、気持ちは楽だった。
子供たちは自分の興味のある事には熱心に学ぶ姿勢を向けるが、その他には、てんで学ぶ意欲を見せない。
それでも将来なにかの役に立つ事が必ずあるから、学ぶ事は大切だと日々熱心に彼らに説いている。
ここは、外国からの貿易船も出入りする港だ。外国語が飛び交う事も日常だ。港で働く民たちは言葉のやり取りに皆苦労している。
子供の頃から他言語を学べば、必ず役に立つだろう。スポンジのように吸収できる時期の脳を利用し、多くの知識を習得してほしい。
生徒を送り出し、そろそろ中に戻ろうとした時、見覚えのある一人の女性が僕の方へ歩いてきた。
彼女は日傘をさして顔が隠れているが、姿勢や歩き方から見知った女性だと思った。
何処で会おうと、何を着ていようと、その優美で清潔な雰囲気が彼女の正体を明らかにする。
生まれながらに持っている特別で彼女独特のものだろう。
「風がないから、少し蒸し暑く感じるわ。陽はもう傾きかけているのにね」
そう言うと、彼女は僕の側で日傘を折りたたむ。
所作が綺麗だ。
「昼間は陸の方が暖かい。上昇気流で風が空へと昇っていく。代わりに海の方から冷たい風が吹いてくる。夜はその逆で冷えた陸の風が暖かい海の方へと流れるんだ」
僕は挨拶をせずに、何故か海風、陸風の話をしてしまう。
「そうなのね。今は風を感じないけど」
変わらぬ彼女の姿に、全てに必死だった頃の自分を思い出した。
かなり久しぶりだ。もう二年は経っているだろう。
「一時だけ、風が吹かない時間帯があって、それが凪だ。夕方一時的に風が吹きやんだ状態の事なんだけど。この状態の事を夕凪というんだ」
よく動く僕の舌に驚いたように彼女が、ふふ、と笑う。
「そう……ならば、今はその夕凪の時間なのね」
ああ。と頷いた。
自分は今、凪の状態で変化のない日常を繰り返している。
あの時は何もかも自分で背負い込んで、ちゃんとやらなくてはならないと必死だった。
けど、できなかった。
そんな才覚は僕にはなかった。
空回りして何が重要なのかも見失って、結果大事な物を全て失った。
そして大切な人は出ていってしまった。
「アイリス……すまなかった」
謝罪の言葉くらいでは足りないだろう。
けれど、彼女に直接会う事ができたなら、ちゃんと伝えなければならない言葉だった。
◇
「謝罪は、慰謝料と丁寧なお手紙で受け取ったわ」
「……ああ」
考えてみれば今の自分は彼女と言葉を交わせる身分ではない。
できるだけきちんと見えるようにシャツとスラックスは清潔にしているけど、服装も平民のそれだ。
「情けないわ……」
え、と、いや……
そんな言葉が彼女の口から出るなんて思ってなかった。
確かに情けないけど、それを言うために彼女はわざわざここまで来たのだろうか?
面食らってぽかんとしてしまった。
「貴方は、本当に駄目な旦那様だった。やる事全てが悪い方向へ進んでいって、何故そうするのと不思議でならなかった。いろんな事情があったのだろうけど、簡単に人を信用して騙されて、本当に情けなくって。忙しくて他の事にまで気が回らなかったのは分かるけどそれは言い訳でしかない。単純で真面目で純粋で、人を疑わない性格が悪い方へ作用しているのに気づかないし。逆に清々しいくらいだったわ」
辛らつだな。
散々皆から言われたから、免疫はあるけどアイリスから直接聞くと、なかなかの破壊力だ。
「えっ……と……」
どう返せばいいのだろう。
なにかを言えば保身にしかならない。正論を突き付けられているのは分かるし。
……文句を言いに来たのだろうか。
僕からの言葉の謝罪を、直接聞きたいわけでもなさそうだし。
なんとも返答に困り、考える。
「だから、私がいなくては駄目だと思うの」
「……え?」
思いもよらない言葉に不意を突かれる。
それは……どういう意味だろう。
アイリスは僕と離婚した後、王宮で一年ほど働いていたと聞いている。
表には顔を出さないが陰のオブザーバーとして、会議の「観察者、傍聴者、立会人、第三者」の立場にいると旧友に聞いていた。
彼女は有能だった。多分裏でアドバイザー的な役割を担っていたのだろう。
そのうち良縁に恵まれて幸せな人生を歩むと思っていたし、心からそう願っていた。
その相手はムンババ大使だろうとも思っていた。
「僕は……いや、私は……っていうか。どういう意味だろう?」
率直に訊ねた。
アイリスは僕の方を見ずに答えた。
「私は、自分でもどうしてなのか分からないけど、貴方を放っておけないの」
「放っておけない?」
彼女はそうだと頷くと歩き出した。
「まず、話をしましょう」
僕は何が何だかわからず、彼女の後を追う。
薄暗くなった町の中から海へ向かって風が吹いていく。
ずっと止まったままだった。凪の状態だった自分。
陸から吹く風の流れが、ゆっくりと僕の背中を押した。
完
初夏の夕暮れ港の近くにある公会堂の庭園から海を眺めた。
僕は平民になり、領地の端の、この港近くの町で教師をしている。
領地に足を運んだことは数回しかなかった。この町の人たちは、僕が公爵だったなんて誰も知らない。
すべてを自分でする。まさに洗濯から食事の用意まで。
なかなか苦労したが、できなくても自分が困るだけで、誰にも迷惑はかけない。
その点、気持ちは楽だった。
子供たちは自分の興味のある事には熱心に学ぶ姿勢を向けるが、その他には、てんで学ぶ意欲を見せない。
それでも将来なにかの役に立つ事が必ずあるから、学ぶ事は大切だと日々熱心に彼らに説いている。
ここは、外国からの貿易船も出入りする港だ。外国語が飛び交う事も日常だ。港で働く民たちは言葉のやり取りに皆苦労している。
子供の頃から他言語を学べば、必ず役に立つだろう。スポンジのように吸収できる時期の脳を利用し、多くの知識を習得してほしい。
生徒を送り出し、そろそろ中に戻ろうとした時、見覚えのある一人の女性が僕の方へ歩いてきた。
彼女は日傘をさして顔が隠れているが、姿勢や歩き方から見知った女性だと思った。
何処で会おうと、何を着ていようと、その優美で清潔な雰囲気が彼女の正体を明らかにする。
生まれながらに持っている特別で彼女独特のものだろう。
「風がないから、少し蒸し暑く感じるわ。陽はもう傾きかけているのにね」
そう言うと、彼女は僕の側で日傘を折りたたむ。
所作が綺麗だ。
「昼間は陸の方が暖かい。上昇気流で風が空へと昇っていく。代わりに海の方から冷たい風が吹いてくる。夜はその逆で冷えた陸の風が暖かい海の方へと流れるんだ」
僕は挨拶をせずに、何故か海風、陸風の話をしてしまう。
「そうなのね。今は風を感じないけど」
変わらぬ彼女の姿に、全てに必死だった頃の自分を思い出した。
かなり久しぶりだ。もう二年は経っているだろう。
「一時だけ、風が吹かない時間帯があって、それが凪だ。夕方一時的に風が吹きやんだ状態の事なんだけど。この状態の事を夕凪というんだ」
よく動く僕の舌に驚いたように彼女が、ふふ、と笑う。
「そう……ならば、今はその夕凪の時間なのね」
ああ。と頷いた。
自分は今、凪の状態で変化のない日常を繰り返している。
あの時は何もかも自分で背負い込んで、ちゃんとやらなくてはならないと必死だった。
けど、できなかった。
そんな才覚は僕にはなかった。
空回りして何が重要なのかも見失って、結果大事な物を全て失った。
そして大切な人は出ていってしまった。
「アイリス……すまなかった」
謝罪の言葉くらいでは足りないだろう。
けれど、彼女に直接会う事ができたなら、ちゃんと伝えなければならない言葉だった。
◇
「謝罪は、慰謝料と丁寧なお手紙で受け取ったわ」
「……ああ」
考えてみれば今の自分は彼女と言葉を交わせる身分ではない。
できるだけきちんと見えるようにシャツとスラックスは清潔にしているけど、服装も平民のそれだ。
「情けないわ……」
え、と、いや……
そんな言葉が彼女の口から出るなんて思ってなかった。
確かに情けないけど、それを言うために彼女はわざわざここまで来たのだろうか?
面食らってぽかんとしてしまった。
「貴方は、本当に駄目な旦那様だった。やる事全てが悪い方向へ進んでいって、何故そうするのと不思議でならなかった。いろんな事情があったのだろうけど、簡単に人を信用して騙されて、本当に情けなくって。忙しくて他の事にまで気が回らなかったのは分かるけどそれは言い訳でしかない。単純で真面目で純粋で、人を疑わない性格が悪い方へ作用しているのに気づかないし。逆に清々しいくらいだったわ」
辛らつだな。
散々皆から言われたから、免疫はあるけどアイリスから直接聞くと、なかなかの破壊力だ。
「えっ……と……」
どう返せばいいのだろう。
なにかを言えば保身にしかならない。正論を突き付けられているのは分かるし。
……文句を言いに来たのだろうか。
僕からの言葉の謝罪を、直接聞きたいわけでもなさそうだし。
なんとも返答に困り、考える。
「だから、私がいなくては駄目だと思うの」
「……え?」
思いもよらない言葉に不意を突かれる。
それは……どういう意味だろう。
アイリスは僕と離婚した後、王宮で一年ほど働いていたと聞いている。
表には顔を出さないが陰のオブザーバーとして、会議の「観察者、傍聴者、立会人、第三者」の立場にいると旧友に聞いていた。
彼女は有能だった。多分裏でアドバイザー的な役割を担っていたのだろう。
そのうち良縁に恵まれて幸せな人生を歩むと思っていたし、心からそう願っていた。
その相手はムンババ大使だろうとも思っていた。
「僕は……いや、私は……っていうか。どういう意味だろう?」
率直に訊ねた。
アイリスは僕の方を見ずに答えた。
「私は、自分でもどうしてなのか分からないけど、貴方を放っておけないの」
「放っておけない?」
彼女はそうだと頷くと歩き出した。
「まず、話をしましょう」
僕は何が何だかわからず、彼女の後を追う。
薄暗くなった町の中から海へ向かって風が吹いていく。
ずっと止まったままだった。凪の状態だった自分。
陸から吹く風の流れが、ゆっくりと僕の背中を押した。
完
5,446
お気に入りに追加
6,257
あなたにおすすめの小説
〖完結〗その愛、お断りします。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚して一年、幸せな毎日を送っていた。それが、一瞬で消え去った……
彼は突然愛人と子供を連れて来て、離れに住まわせると言った。愛する人に裏切られていたことを知り、胸が苦しくなる。
邪魔なのは、私だ。
そう思った私は離婚を決意し、邸を出て行こうとしたところを彼に見つかり部屋に閉じ込められてしまう。
「君を愛してる」と、何度も口にする彼。愛していれば、何をしても許されると思っているのだろうか。
冗談じゃない。私は、彼の思い通りになどならない!
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
【第一章完結】相手を間違えたと言われても困りますわ。返品・交換不可とさせて頂きます
との
恋愛
「結婚おめでとう」 婚約者と義妹に、笑顔で手を振るリディア。
(さて、さっさと逃げ出すわよ)
公爵夫人になりたかったらしい義妹が、代わりに結婚してくれたのはリディアにとっては嬉しい誤算だった。
リディアは自分が立ち上げた商会ごと逃げ出し、新しい商売を立ち上げようと張り切ります。
どこへ行っても何かしらやらかしてしまうリディアのお陰で、秘書のセオ達と侍女のマーサはハラハラしまくり。
結婚を申し込まれても・・
「困った事になったわね。在地剰余の話、しにくくなっちゃった」
「「はあ? そこ?」」
ーーーーーー
設定かなりゆるゆる?
第一章完結
誤解されて1年間妻と会うことを禁止された。
しゃーりん
恋愛
3か月前、ようやく愛する人アイリーンと結婚できたジョルジュ。
幸せ真っただ中だったが、ある理由により友人に唆されて高級娼館に行くことになる。
その現場を妻アイリーンに見られていることを知らずに。
実家に帰ったまま戻ってこない妻を迎えに行くと、会わせてもらえない。
やがて、娼館に行ったことがアイリーンにバレていることを知った。
妻の家族には娼館に行った経緯と理由を纏めてこいと言われ、それを見てアイリーンがどう判断するかは1年後に決まると言われた。つまり1年間会えないということ。
絶望しながらも思い出しながら経緯を書き記すと疑問点が浮かぶ。
なんでこんなことになったのかと原因を調べていくうちに自分たち夫婦に対する嫌がらせと離婚させることが目的だったとわかるお話です。
【完結】幼い頃から婚約を誓っていた伯爵に婚約破棄されましたが、数年後に驚くべき事実が発覚したので会いに行こうと思います
菊池 快晴
恋愛
令嬢メアリーは、幼い頃から将来を誓い合ったゼイン伯爵に婚約破棄される。
その隣には見知らぬ女性が立っていた。
二人は傍から見ても仲睦まじいカップルだった。
両家の挨拶を終えて、幸せな結婚前パーティで、その出来事は起こった。
メアリーは彼との出会いを思い返しながら打ちひしがれる。
数年後、心の傷がようやく癒えた頃、メアリーの前に、謎の女性が現れる。
彼女の口から発せられた言葉は、ゼインのとんでもない事実だった――。
※ハッピーエンド&純愛
他サイトでも掲載しております。
私があなたを好きだったころ
豆狸
恋愛
「……エヴァンジェリン。僕には好きな女性がいる。初恋の人なんだ。学園の三年間だけでいいから、聖花祭は彼女と過ごさせてくれ」
※1/10タグの『婚約解消』を『婚約→白紙撤回』に訂正しました。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
【完結】捨ててください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。
でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。
分かっている。
貴方は私の事を愛していない。
私は貴方の側にいるだけで良かったのに。
貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。
もういいの。
ありがとう貴方。
もう私の事は、、、
捨ててください。
続編投稿しました。
初回完結6月25日
第2回目完結7月18日
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる