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16 離婚届のサイン
しおりを挟む私と離婚するだと?新しい妻を娶れ……と。
「ソフィア。君は私を愛していないのか?戦時中、二年もの間、この領地を守り私の帰りを待っていてくれたのではないのか」
彼女は私と共に歩む道を選んで結婚した。苦労はかけたが、今では侯爵夫人として栄誉ある地位を手に入れたではないか。
私は彼女を妻として愛している。
ソフィアは困ったように表情をゆがめる。
「そうですね。私は旦那様の帰りを待っていました」
「屋敷に私が帰って来てからは、新しい使用人も増やした。今では以前の三倍の数になっている。執事も増えただろう。モーガンだけではなく、コンタンにガブリエルだ」
彼女は黙って私の話に耳を傾けた。
「君が今まで苦労したことを、私は十分理解している。だからこれから、侯爵夫人として貴族らしく優雅に過ごしてくれたら、私はそれでいいと思っている。たくさん茶会や夜会にも行こう。ドレスや宝石も好きな物を購入すればいい」
戦後の混乱の中、忙しく、やらなければならない仕事も多かった。かまってやれなかったのは申し訳ないと思っている。
これからはちゃんと妻と共に社交界のパーティーにも参加しよう。きっとすぐに元の彼女の姿に戻ってくれるだろう。
私にとって妻は、文句を言わず、一歩下がって陰で私を支えてくれる貞淑な存在だった。
何よりソフィアは、若く美しい自慢の妻だった。
私は彼女に温かい眼差しを向け微笑んだ。
「華やかなパーティーなどには私は興味がありません。貴族同士の付き合いで、どうしても必要なら参加しますが、それ以外はできれば行きたくないものです」
私は彼女の言葉に苛立った。
できるだけ平静を保てるよう呼吸を整えた。
「……ソフィア。君には少し考える時間が必要だ。落ち着いたら意見も変わるだろう。私は今日からまた王宮へ行かなければならない。しかし一週間後帰ってきたら、もう当分どこにも行かず、領地にいられる」
「そうですか。承知しました」
「分かってくれたか。それなら帰ってからまたゆっくりと今後について話し合おう」
「離婚届に旦那様がサインをして下さったのなら、話は早く済んだんですが……」
まだそんなことを言っているのか。
私はあきれたように息を吐くと、ソフィアを置いて執務室を後にした。
◇
「旦那様。奥様は少し拗ねてらっしゃるだけですわ。どうか、お気になさらないように……」
マリリンはアーロンをあやしながら私にそう言った。
いつも彼女が優しい言葉をかけてくれるので、いつの頃か彼女の部屋が居心地の良い場所になっている。
「そうだな。やはり自分に子ができないから、少し自棄になっているのかもしれない」
「旦那様、ご本人に、そのようなことはおっしゃってはなりませんわ。大丈夫です。そのためにアーロンがいますもの。私もこちらでずっとお世話になっている状態で、肩身が狭い気持ちでした。けれど、アーロンが旦那様の養子になるのなら、恩返しができますので、とても嬉しく思っています」
マリリンはお茶の準備をメイドに頼み、私に甘い菓子を出してくれた。
部屋の中は女性らしい家具でまとめられていて、私専用の椅子も購入してくれたようだ。「旦那様がいらしゃると、部屋の中が明るくなります。いつでもアーロンに会いに来て下さい」そう言われまんざらでもない気分になる。
「君は母親の権利を、ソフィアに渡してくれるとまで言ってくれた。本当に感謝しているよ」
血の繋がった我が子を他人の子にするということが、どれほど辛いのか私は分かっている。きっと悔しいだろうが、アーロンの将来を考えての決断だろう。
彼女は少し目頭を押さえ、それでも笑顔を作って頷いた。
子供の幸せを願うのは親として当たり前のことだ。
「アーロンは機嫌がよさそうだな」
「ええ。今日は特にご機嫌なんですよ。旦那様が顔を見せてくださると喜んで、はしゃぎ過ぎてしまうくらいです」
そう言って微笑みながら私の腕に触れる。
少し距離が近くなってしまったので、彼女の腕を外し、一歩後ずさった。
「赤子の成長スピードは目覚ましいな。日々新しいことができるようになっている」
アーロンは先日一歳になった。一人で立って歩けるようになり、 自我が芽生えて好奇心も旺盛になったようだ。
「ええ。もう何をするかわかりませんので、目を離せなくて一日中ずっとついて回っていますわ」
アーロンはこの間、私のことをパパと呼んだ。
間違った呼び方だが、悪い気はしなかった。
ソフィアとの子供だったら、どれほど可愛いのだろうと想像すると、早く我が子が欲しいと欲をかいてしまう。
少し、マリリンとアーロンの部屋で休憩をとると、私は王宮へ向かう準備に入った。
職務は軍関係から、侯爵としての仕事に切り変わった。
今後は夜会等も頻繁に出席しなければならないだろう。
マリリンが言うには、ソフィアは頻繁に茶会やパーティーに参加しているようだ。いつも違った綺麗なドレスを身に纏い、出かけていると聞く。
本人はパーティーなどは嫌いだと言ったが、きっと嘘なんだろう。
もしかして新しいドレスや宝石を買っているのを、知られたくないのかもしれない。
普段邸で見る彼女は、高価そうなものを身に着けているようには見えなかった。
夫人の予算内だったら別に文句は言わない。それほどケチな男ではない。
「隠さなくてもよいのに……」
そう考えながら側近を伴い王都へ出発する。
一週間もあればソフィアの気も変わるだろう。
そのとき、私はまだ気づいていなかった。
次に戻ったときには、すでに彼女は屋敷を出てしまっていることに。
◇
いったいどういうことなんだ!
一週間ぶりに屋敷へ帰ってみると妻が出て行ったという。いつもは遅くならない限り、妻は玄関で私を出迎えてくれた。今日は邸が全体的にひっそりとしていた。
なんだか雰囲気がおかしかった。
私は執事に妻はどこだと訊ねた。
「奥様は邸を出て行かれました。旦那様には話してあると聞いております」
モーガンは表情を変えず私にそう告げた。
「話してあると?何を……」
出て行った?出かけていったの間違いだろう。
ここでは邸の使用人たちの目があるからと、モーガンは私を執務室に入るよう促した。
妻はどうしたんだ。
混乱した私の様子にも動じない、邸のこの空気は何なんだ。
「いったい、妻は……いつ?」
「三日ほど前でしょうか」
「なぜ止めなかった!」
「先ほども申しましたが、旦那様とは話がついていると伺っていました。ですから私は奥様をお止めしませんでした」
クソッ……いったい急にどういうことだ。
彼女はどこへ行ったのだ。
「居場所は分かっているのか?すぐに連れ戻すよう従者に……」
「もし、連れて戻られたとしても、また出て行かれると思います」
「そんなはずはない。ちゃんと話し合えば彼女は出て行ったりはしないだろう」
モーガンは怪訝そうな顔をする。
「旦那様。失礼ながら、根本的な原因を取り除かなければ奥様は戻ってらっしゃらないと思います」
「原因?」
原因とはなんだ……
アーロン……マリリンの件か。
「原因とはなんだ。知っているなら答えろ」
「旦那様。奥様が出て行かれた原因を御存じでしょう。話し合われたのではないのですか?マリリンさん親子が、ここにいらっしゃる以上戻ってはこられないと思いますよ」
「彼女は理解していただろう。スコットの忘れ形見だ。面倒を私の邸で見るということは承知していたではないか」
「いつまでのことでしょう。旦那様はしばらくの間とおっしゃいました。いつまで面倒を見るおつもりだったので?」
「……っ、それは、仕方がないだろう。彼女たちはスコットの両親に認めてもらえなかったのだから。どこにも行くあてがないのだ。放り出せとでもいうのか!」
「申し訳ありません。放り出そうが出すまいが、もうどうでもよい話でした。これは奥様が戻るか戻らないかの話でもない。離婚するとおっしゃって出て行かれましたので、そもそも今さら彼女達を追い出したとしても遅い話ですね。失礼いたしました」
何を言っているんだ。
モーガンは私には忠実な執事だった。
邸の管理もすべてモーガンに任せ、それなりの立場も与えていたし、給金も十分渡していたはずだ。
以前はこんな嫌味を言う執事ではなかった。
ドアがノックされ執務室にコンタンが入ってきた。
「失礼します旦那様。これは、司教様の証明書と離婚の受理証明書でございます」
コンタンは離婚が受理されたことを示す証書を私に差し出した。
私はそれを手に取り、読み始め、そして青ざめた。
「何!何故だ。こんなものは無効だ。私は離婚届に署名などしていない!」
離婚届には署名していない。なぜ離婚が成立するんだ。
「いいえ。こちらは司教承諾離婚ですので、相手の同意がなくても離婚が認められます」
「司教承諾離婚?」
「はい。三年の間、子をなすことができなかった夫婦は、どちらかの申し出により双方の合意がなくとも離婚できます。これは法的に認められた離婚証書です」
「三年……」
私は膝から崩れ落ちた。
最後に話し合った時、私たちはちょうど結婚して三年目を迎えていた。
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