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第五章 ふたりの千早
ふたりの千早(3)
しおりを挟む時間が、経ち過ぎている事は致命的だった。十七年もの長い年月が過ぎ、お互い、それぞれの人生が出来上がってしまっている。
真実が露見すれば、今まで築き上げてきた人生は粉々になり、元には戻らない。それを自ら体験した千早は、もうひとりの千早にまで、この痛みを味合わせたくないと言っているのだ。
強い娘だ、と義人は思う。見た目はたおやかで優しげだが、こらえる我慢強さが半端ないのだろう。
『御乙神の至宝』と呼ばれるほどの強い術者だと聞いていたが、なるほどと納得した。この心の強さが、強大な呪術を支えているのだと。
けれどその我慢強さが裏目に出て、彼女は体に異変をきたしてしまった。まだ短い付き合いだが、彼女を知れば知るほど、けなげで、危なっかしくて、何か力を貸してあげたくなる女の子だと義人は思った。
「何がしたいんだ、千早」
静かに二人の会話を聞いていた明が、千早に問う。
子供の頃以来の、肩にかかる短い髪を揺らし、千早が答えた。
「今夜、私ひとりでこの街に泊まって、明日一日、ひとりでこの街を見て回りたいの」
「いけません。まだ病み上がりです。それにお一人で過ごされるなんて危ないです。絶対ダメです」
言ったハナから反対を申し上げる、すっかり執事役が板についた義人である。
明は、じっと千早の横顔を見ていた。そして義人へと向く。
「義人さん、ホテルの手配をしてもらえますか。千早が一人でも安全に過ごせるようなホテルを」
「いやいや明様。こんな超箱入りのお姫様をいきなり一人で外泊とか、ちょっとハードル高過ぎですよ」
「それなりのホテルなら大丈夫でしょう。金は輝がいくらでも出すから」
「いやでも、一人はちょっと、心配ですよっ」
止める義人と頼む明と、押し問答をしている横から千早が静かに告げる。
「この街で、ひとりで『普通』に、過ごしてみたいんです」
自分を見やる二人に、千早はまた微笑んでみせる。
「普通の色々な事を、ひとりでやってみたいんです。もしかしたら、自分が住んでいたかもしれないこの街で……」
結局折れた義人が手配した、街の中心部にあるシティホテルに、千早は生まれて初めて一人で宿泊した。
「使える場所ならこれで何でも買えますから」とクレジットカートの使い方を念入りにレクチャーしてから、それでも心配顔の義人と明はホテルのロビーを立ち去った。
翌朝。身支度を整え、千早は初めて自分でホテルをチェックアウトした。そして昨日とは別の駅に向かい、生まれて初めて自分で切符を買い、周囲の真似をしてホームで並び電車に乗った。
電車には、市橋愛実の通う高校の生徒がちらほらと居た。さりげなく彼らの後に付いて、千早は再び昨日訪れた高校へと向かう。
前を行く高校生達と少し距離を取って、千早はゆっくりとアスファルトの歩道を歩く。
朝の冷えた空気は新鮮で、高校生たちはマフラーで半分覆った口から白い息を吐きながら、街路樹の並ぶ通学路を歩いて行く。何も珍しくはない、日本で良く見る朝の風景だ。
校門が近くなると学生たちの後を離れ、千早はひとり周囲を歩いてみた。高校は住宅街の中にあって、道端には色々な家があった。
古い家、新しい家、近代的な家、二階建てのアパート、四階建てのマンション。今までじっくりと見る事の無かった世間の景色を、千早はゆっくりと歩き、見て回った。
天気の良いこの日は、外に洗濯物を干している家が多かった。失礼にならない程度にそれらを眺め、その家に住んでいる家族を想像してみたりもした。
しばらく歩いていると、高校の敷地を区切るフェンスにたどり着いた。フェンスの向こうから、たくさんのにぎやかな声が聞こえる。
フェンスに近づき見ると、そろいの運動着に着替えた高校生たちが走り回ってゲームに興じていた。
男女に分かれ、白黒のボールを蹴っている。千早は知識を総動員して考え、それがサッカーという球技であると思い付く。
これが学校で受ける授業のひとつ『体育』であることは、明が読ませてくれた漫画や小説で知っている。
フェンスに手を置き、歓声を上げボールを追いかける同年代の若者たちに千早は見入っていた。
しばらくそうしていると、高校生達を監督している中年男性が千早に気付いたようで、フェンスの方に目を向ける。この男性が『先生』なんだろうと千早は考える。
その『先生』は、少しけげんな様子で千早を見ていた。身を隠す術も施していなかった千早は、自分が怪しい人物と認識されたのだと気づく。
千早は慌ててフェンスから離れ、駆け出した。何か聞かれたら、うまく答えられる自信が無かったのだ。
少し走って立ち止まり、千早は乱れた息を整える。まだ十分体力が戻っていないようで、大して走っていないのにひどく疲れてしまった。
週中日の午前中、住宅街の道を歩いている人間は皆無だった。
自動車も通らない道路にぽつんと立った千早は、この『普通』の世界では、自分は異端な存在なのだと思い至った。
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