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第三章 十三夜の月の下で
十三夜の月の下で(8)
しおりを挟む「明!だめ――!」
叫んだ千早が壊れた渡り廊下の入り口から飛び降り、まるで耕した畑の様になった屋敷跡を走って来る。
呼び声に思わず手を降ろした明が、渾身の大声で叫ぶ。
「来るな千早っ!来るんじゃない――!」
魔物の赤い目が、駆け寄ってくる少女の姿を捕らえる。そして御乙神織哉は空中を下降し、千早と穿たれた大穴を挟んで対峙する。
「千早!やめろ――!」
父親の後を追って地上へと向かおうと意識すると、明の身体はその通りに動いた。
初めての感覚に戸惑いながら、何とか地上へと降り立つと、檜扇を構えた千早が、既に何らかの術を発動させていた。
「!」
千早の前方、大穴にかぶる様に巨大な霊能の道が立ち上がる。先程、方位四神の術で立てた『神柱』を数十本まとめたような代物だ。
開いた檜扇を水平に構え、千早は己が霊能力を最大限まで高めていく。そして霊能の道を、目的の場所へと繋ぐ。
檜扇を、鋭く舞い上げた。そして巨大な霊能の道から、圧倒的な貴き力があふれ来る。
それは一般の霊能者では拒絶反応を出してしまうほどの、濃く強い神格の力だった。
事の成り行きを見守っていた術師たちが、慄然とする。
「まさか……!」
千早の霊能の力は更に高められていく。不意に髪飾りが粉々に吹き飛び、長い黒髪が異次元の余波に舞い上がる。霊能力を増幅する特別製の髪飾りが、高まる霊能力に耐えられなかったのだ。
夜空を貫く霊能の道から、巨大な何かが姿を現した。
白く輝くたてがみと青く澄んだ目が美しい。それは方位四神の一柱、西方を司る神、白虎本体だった。
白虎は、四神の中で最も破邪の力が強い。
強力な魔を滅ぼす為、千早は、神格の力を借り受けるのではなく、この次元に神格そのものを召喚したのだ。
有り得ない事だった。正に奇跡だった。千早の術師としての力量は、もはや数百年に一人出るかどうかという域まで達していた。
この地に満ちていた魔の空気が、見る間に浄化されていく。さすがに明も驚き、目前に顕現した西方の守護神・白虎をただ見上げる。
白虎は、千早の霊能力の高さを認め、その願いに応えたのだ。
人間とは格が違い過ぎる貴き存在への敬意を示すため、千早は莫大な負担を負いながら、全力でこの次元と白虎の在る次元を霊能の道で繋ぎ続ける。
白虎は、この次元にあってはならない、魔の存在を見留める。青い瞳が魔物・御乙神織哉の姿を捕らえる。
しかし黒装束の魔物は、特に逃げる様子も見せない。ただじっと赤い瞳で千早を見つめ、ほんの数瞬、間を置いてから語り始めた。
それは誰の声も重なっていない、織哉本人の声に聞こえた。
『君は殺さない。君は、御乙神一族の人間ではない。君には、一滴も御乙神の血が流れていない』
声は響き、周囲に良く通った。
何を言われたのか分からない千早は、巨大な術を支えながらもいぶかしげな顔をする。
一方、この場に駆け付けていた飛竜健信は、目に見えて顔が強張る。
端で見ている者が分かるほど、みるまに顔色が悪くなっていく。剛毅で知られた七家頭にはあり得ない、あからさまな狼狽ぶりだった。
『これ以上、身の丈以上の術を使わない方が良い。異次元の力に染まり過ぎた君の身体は、既に人としての生殖機能を失っている。今すぐ呪術の行使を辞めないと、遠からず人間ではなくなるぞ』
続いた言葉は、千早の心にするりと入り込む。それは、心当たりがあったからだ。
ここ半年ほど、千早は月のものが無かった。続く体調不良の影響だろうと考え医者にも診てもらったが、十代には良くある事だからと薬を処方されただけだった。
一向に良くならない体調不良。異常に冷える体。そして来なくなってしまった女性としての印。
秋の頃、池端で出会った分家の子供たちが脳裏に浮かぶ。小さな体は柔らかくあたたかく、無邪気な様子はとても愛おしかった。
そう、愛おしかった。抱き付いてきた小さな体を抱き返すと、幸せな気持ちになった。
その時思ったのだ。自分もいつかは大好きな人と、こんなかわいい子供を持てたらと。
浮かんだ相手は、結ばれることはないと分かっていたが、夢を見る事だけは許されると思った。
きっと可愛いだろう。他人の子供でさえこんなに可愛いのだから、好きな人との子供はたまらなく可愛いだろう。
千早の表情が、凍りついていく。目に見えて血の気が引いていく。
その時後方から飛竜健信が声を張り上げる。
「千早!聞くな!魔物に惑わされるな!術に集中しろ!」
思わず振り向いた千早は、術師たちの中で叫ぶ父の姿を見た。
取り巻く人々の中で、頭一つ抜け出ている父親を見つけるのはたやすかった。
離れた距離で、視線がかち合う。
常に自信に満ち溢れていた眼が、激しく動揺していた。
常に威風堂々とし、何者からも逸らされることのなかった眼差しが、初めて焦りの色を映していた。
その眼に――千早は真実を見てしまった。
術の集中が破れた。まるで幻の様に巨大な霊能の道が消えてしまった。
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