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序章
序章(1)
しおりを挟むそれは三年前、明が一五歳の時。八月の、真夏の時期だった。
結界に封じられた洋館を訪ねてきた千早は、今日も話の途中に眠り込んでしまった。三人掛けのソファに身を縮めよこたわり、まるで猫のように丸くなって眠っている。
話し相手がいなくなり手持ぶさたな明は、床にあぐらをかいてソファに寄り掛かり、すぐそばにある千早の寝顔をのぞき込んでいた。
猛暑の中、立て込む仕事の依頼で、千早はこのところひどく疲れていた。
寝息も聞こえないほど静かに眠る千早は、かなり深く寝入っているように見えた。
こんなに眠り込むほど疲れている千早を気の毒に思い、そして周囲の大人が誰も千早を守ろうとしていないことに、明は静かに怒っていた。
千早が、父親に良い様に使われているのは明白だった。
物心つく頃から厳しい修行を課され、わずか一〇歳から大人の術師と同じ仕事をこなし、食事や娯楽も厳格に制限され、一般的な教養に触れさせないまま未来の夫まで決められている。
優れた才能は、逆に扱いが難しい。
自らの価値を知り自分を守れなければ、才能を狙う狡猾な輩に搾取されるだけだ。
千早は、あまりに自分の価値が分かっていない。
富豪からの専属契約の申し出が絶えない優秀な術者なのに、望みは何もかなわない。
莫大な謝礼も、一円も千早の手には入っていない。金銭の価値も、使い方も知らない。
千早は、まるで赤ん坊のように世間を知らなかった。
でもそれも、恐らく父親の飛竜健信が意図的に行っている事で、わざと千早を様々な情報から隔絶している気配があった。
(奴隷は無知にしておかないと、知恵が付くと逃げ出すからな)
飛竜健信の小狡い思惑をぶち壊してやろうと、明はせっせと流行りの少女漫画や小説を千早に提供している。
購入する際レジに出すのはかなり恥ずかしいが、世間一般の常識などを知るには良いツールだ。
何より千早がとても喜んでくれるので、その笑顔を見るだけで明は買って良かったと思うのだ。
許嫁の次期宗主に見向きもされないと、千早が一族の娘達から陰で笑われているのは知っている。
伯父である現宗主・輝明の創成したこの結界を密かに抜け出し、明は一族内の情報収集を行っていた。
素直な千早は、耳にする陰口を真に受けているようだ。
「私が美人じゃないから、輝様は嫌なんだと思う。お姉さま達はとても美人なのに私はちっとも似てないし」と、自信無さげに口にする。
(本当に、自分の価値が分かっていないんだよな)
眠る千早の周囲に散る長い髪は、艶やかで張りがあり、とても綺麗だった。
閉じられたまぶたとすっと流れる鼻筋、そして少し開いた薄めの唇はバランスが良く、上品な顔立ちだ。
いかにも男受けする華やかさではなく、逸品の工芸品が持つ様な品の良さが漂っている。
幼少時からの育ちと本人の心向きと、持って生まれた容姿が合わさって、千早は歳に合わないほど品格ある少女だった。
娘たちが陰で笑うのは、そうするしかないからだ。
どんなに他の娘たちがアピールしても親たちが裏で手を回しても、許嫁の交代は行われない。申し出があってもすべて却下されている。
理由は単純で、千早にとって代わろうと名乗りを上げるどの娘も、能力、家柄、容姿など様々な条件で千早には敵わず、輝明のお眼鏡にかなわないのだ。
何より千早は真面目で心が優しい。伯父は一番にそれが気に入っているのだと明は知っている。
『隠居』と陰口をたたかれているが、飛竜健信の圧に唯々諾々と従うほど、伯父はバカでも弱くもない。
飛竜健信に敢えて自由にさせているだけで、押さえるべき所は外さない。息子の嫁に迎える人物の精査はきっちり行っている。
(スキがなさ過ぎて腹立つよな……)
母の敵討ちを、御乙神一族を滅ぼすのなら、一番の障害は間違いなく伯父の輝明だった。
過去、武術や呪術の稽古の際、何度も命を狙ったが、全て見透かされ返り討ちにされた。
そして激高した息子の輝に叩きのめされ、命を狙ったはずの伯父に止められ介抱されるのがお決まりになってしまった。
最近はその流れがバカらしくなり直接輝明の命を狙う事はしていない。地味に嫌がらせを続けていた輝も、効き目があったようで最近は顔を見せなくなった。
女遊びで忙しいからな、と心の中で毒づく。
宗家をないがしろにして一族を取り仕切る飛竜健信の言いなりになるまいと、輝は千早を遠ざけ他に恋人を作っている。
(千早の事が好きなくせに無理しまくってバカだろアイツ)
明からすると、宗家の威信など理解不能の価値観だが、跡取りのお坊ちゃまにとっては好きな女を捨てるほど大事な事らしい。
アイツとは絶対に分かり合えんな、と答えを出してから、明はソファに散らばる千早の髪に目を留めた。
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