切恋

咲屋安希

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回想(6)ーSide千早

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 予約した部屋は、旅館の最奥にある離れだった。庭園をのぞむ専用露天風呂も設置されていて、離れから一歩も出なくて済む造りだった。

 仲居にサービスを全て断っているのを聞いて、旅館の人には色々分かってしまうのだろうなと、千早は恥ずかしくなる。

 二人きりになって、すぐに引き寄せられる。汗を流してからと言うと、予想通り露天風呂に二人で入る羽目になった。

 二人では広すぎる浴場で、甘いいたずらをされ、くちづけをされ、愛される。もう風呂だけでぐったりとしてしまった千早を、明は抱き上げてベッドに運び、また愛でる。

 明に全てを支配され、体中余すところなく明に触れられるこの行為が、千早にとっては幸せだった。

 快楽に溺れる自分が明に浅ましく映っていないか、それだけが心配だった。
 


 見慣れない天井が見えて、しばらくぼんやりとしてしまう。次第に意識がはっきりとしてきて、自分が何故ここにいるのか思い出す。

 思い出して、身体の奥から恥ずかしさがこみ上げてきて、思わず左手で目元を被った。
 
 明は居なかった。露天風呂が設置されているテラスから水音が聞こえるので、入浴しているようだ。
 
 千早が本当に辛い時は、明は絶対に無理強いしない。甘く苛めることはあっても、本気で嫌がる事はしない。見栄えの良い優しさは無い人だけど、いつも心から気遣ってくれる。

 いつも、いつも――昔から。

 
 意識を飛ばす前に、聞こえていた言葉を思い出す。

『お前こそ、浮気するなよ』

 かすむ意識の中で、遠く低く聞こえた。

『浮気なんか絶対に許さない』

 全身が過敏に震える中、明の指が喉元を横になぞった。

 低く底冷えのする、抜き身の刀のような声音が、する。

『お前は――俺のだ』

 恐くはなかった。落ちていく意識の中、明になら殺されても構わないと、すんなりと思っていた。



(ただの執着、なのかも……)

 千早が万が一、何か間違って浮気しようものなら、絶対にただでは済まない。想像するだに恐ろしいこととなるだろう。

 少なくとも相手は多分殺される。それくらい明が自分に執着している事は、大人になった今なら分かる。

 甘く優しい気遣いの裏にひっそりと隠れている、黒く激しい独占欲。

 あれだけ選び放題の立場でただひとりの女性しか相手にしないという事は、それだけの濃く深い感情を相手に抱いているということだ。


 それはもしかしたら、愛情から来るものではないのかも知れない。

 明の千早に対する思いも、もしかしたら千早が思っているようなものではないのかも知れない。

 どんなに気遣ってくれるように見えても、本音は、千早のことを所有物と思っているのかも知れない。

 幼い頃から寂しさを慰め合った、心許なさを共有し合った相手を手放したくないだけかも知れない。

 思い出を、握りしめておきたいだけなのかも知れない。

 ――これは愛情ではなく、ただの執着なのかも知れない。


 離れの客室は、ひどく静かだった。恥ずかしいからとカーテンを引いた室内は暗く、わずかな隙間から射し込む光が、夕暮れも終わりの時間であるのを教えていた。

 薄暗い天井を眺めながら、手の甲の下で、千早の目から涙がこぼれる。

(ねえ明……どうして私なの……)

 千早は御乙神家分家である飛竜家の娘として育った。しかし真実は、高い霊能の才を狙われ新生児の頃誘拐されていた。千早の本来の名前は、市橋愛美いちはしあいみという。

 千早と本物の『飛竜千早』である我が子を取り換えた、飛竜家当主・飛竜健信はすでに死去している。一〇年前の、御乙神一族滅亡の騒動に紛れるように死んだ。

 これを機に飛竜家は断絶となり、千早は名字だけ本当の両親の姓である『市橋』を名乗るようになった。


 一族の者たちが次々と殺害されていく壮絶な状況の中で、千早は自分の出生の秘密を知り、明たちにどうしてもと懇願して本当の両親と『飛竜千早』が住む街を訪れた。

 遠くからうかがう洋風の一軒家に、少し着崩した制服が似合う女子高生がいた。目鼻立ちがくっきりとした美人の女子高生。彼女は飛竜家の母や姉たちにそっくりだった。

『市橋愛美』は友達と楽し気に語らいながら、電車に乗って登校していた。放課後は公共図書館で、彼氏らしい男子高校生と勉強していた。

 本物の『飛竜千早』は、勉学に恋にと、誰もが通る青春を余すところなく謳歌していた。その生活はまさに、千早が痛いほどあこがれていた人生そのものだった。


 遠目で見ていた時は大丈夫だった。少し涙が出たけれど、笑顔で明たちに「私が飛竜千早だから」と言えた。

 「彼女がもう『市橋愛美』さんだから。もう今さら生活を壊せないから」と。

 十八年かけて造り上げられた『市橋愛美』の人生を、壊してしまう訳にはいかなかった。そして自分の中に荒れ狂うこんな思いを、本当の両親を含め他の人間に味合わせたくはなかった。


 あきらめて、自分を納得させ、現実を受け止めたつもりだったのに、気が付くと千早は市橋愛美の通う高校の屋上に昇っていた。

 屋上から一歩踏み出すことを悪霊たちにそそのかされているところを、明に止められた。

 今まで見た事がないほど感情をさらけ出して、明は千早を説得した。『一緒に生きよう』と手を伸ばしほほ笑んでくれた。

 悪霊に引きずられ屋上から落ちた千早を救ってくれた。感情が堰を切りむせび泣く千早を、明は文字通り受け止めてくれた。

 千早は泣いた。涙が枯れるほど泣いた。

 本来は自分が居たはずだった場所に、本当の家族に、友達に、もう二度と手が届かない現実に泣いた。取り返せない十八年間に絶望して、泣いた。


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