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第6章 悪役令嬢は利用されたくない
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しおりを挟む 太陽は地平線に沈み、空には月と数多の星が瞬いている。大勢の人たちが焚火を囲んで杯を交わし、手を叩いてリズムを取りながら声を合わせて歌を歌っている。
その水辺は広く 波は逆巻きて
あふれる水は 豊かに流る
見よ イコンの河に命満ち
はるかなる野辺に 月は落ちる
「あれはこの地に古くから伝わる歌だ」
あたたかいお茶の器を僕に手渡しながら、サイードさんが教えてくれた。
「そういえば歌や昔話をたくさん聞かせてくれる約束でしたよね」
以前、ダーヒルの神殿領でした話を持ちだすと、サイードさんの眉がほんの少し顰められる。
「その思いに偽りはないが、よく考えたら私はそう歌が上手くはない」
「そんなことないのに」
実際、神殿領から帝都への旅の途中で口ずさんでくれた歌はとても素敵だった。確か砂漠の旅人が見た流れ星の歌と草原を走る仔馬の歌だったと思う。
火の番をしながら僕にだけ聞かせてくれた、少し低くて張りのある歌声をもう一度聞かせて欲しいと思いながら、僕はサイードさんの横顔を盗み見た。
陽が暮れて河を渡ってくる風は冷たいけれど、皆が喜び歌う姿や興奮の色濃い空気のせいか不思議と寒くは感じない。
僕は普請工事に駆り出された遊牧民の人たちが敷き詰めてくれた厚い毛布の上に座り、第三騎兵団の人が持ってきてくれたラクダの毛布に覆われてお茶を飲んでいる。
あちらこちらで焚かれる篝火や焚火のオレンジ色の灯りやパチパチと火のはぜる音がとても心地いい。なんとなく子どもの頃に参加した夏のキャンプファイヤーを思い出す。
すぐに赤くなる顔を見られたくなくて昔から人付き合いを避けていたけれど、焚火を囲んで騒ぐ皆のざわめきを少し離れた場所から聞いているのは好きだった。
「少しでも何か食べた方がいい」
そう言ってサイードさんが野菜とひき肉の入ったスープの器を渡してくれる。スパイスの入った少し辛いそのスープは身体を芯から温めてくれると知っていたけれど、今はまだ先程の興奮が覚めやらず、なかなか食事に集中することはできなかった。
僕は氾濫直前だったイコン河をなんとか宥めることができた。
それを見た人々は喜びに沸き返り、口々にラハル神と僕とを称えた。
僕はこれまでずっと、行く先々で自分が神の化身や何かのように崇められることに引け目を感じていた。なぜなら自分がそれに見合う結果を出せているとは到底思えなかったし、そもそも神の存在自体がどうしても信じられなかったからだ。
けれど荒れるイコン河を前にして、悟った。
僕がこの世界を少しでも住みやすい土地にするためには神様がいるかどうかは関係ない。そして僕が本当に神子であるかどうかも、だ。
大事なのは、僕が神殿の不思議な球体を動かしたことで何かのスイッチが入り、アル・ハダール全土に水をもたらす力が正常に行き渡るようになったことと、僕がその力の流れのようなものをコントロールできる、ということだけだ。
不安や疑問や心配であんなにも揺らいでいた僕の心は、今は不思議と凪いで驚くほど穏やかだ。
あの球体に触れて何かが僕の中でピタリとはまって、そしてその感覚に頭がようやく追いついた気がする。
もちろんこの世界の人たちが持つ信仰心は尊重するべきだ。皆が僕を『神から遣わされた神子』と思い、それで救われる何かがあるのならそれでいい。
けれど僕自身はこの不思議な力を使うのに神に祈りすがる必要はなく、心は自由なままでいいのだ。
確かに僕には『力』がある。初めて素直にそう認められる。そして今の僕にはこの『神子の力』と呼ばれるものをきちんと使いこなせる自信があった。
ふと冷たい風が頬に当たって被り布を揺らす。サイードさんが僕の頭に毛布を被せて河からの風を防いでくれた。その影に隠れるようにして、僕はサイードさんに少しだけもたれる。
このくらいならきっと人に見られてもそうおかしくはないだろう。そう願いながらスープをこくり、と飲んでサイードさんの顔をこっそり見上げた。
できることならずっとサイードさんの顔を見ていたい。
あの遊牧民のおじいさんのところで数か月ぶりに会えた時は、サイードさんが無事だとわかった興奮と自分がしでかしたことへの後悔やいろんな感情がぐちゃぐちゃになって、素直に再会を喜ぶことができなかった。
それにこっちに戻ってきてからは体調を崩して寝込んでしまい、意識が戻ったら今度はイコン河が氾濫寸前だったりして、もうそれどころじゃなかった。
けれどようやくひと息つけた今、浮かれる気持ちがどうしても抑えきれない。
嬉しい。嬉しい。サイードさんに会えて、サイードさんの声を聞いて、サイードさんの体温を感じられるくらい近くにいられることが嬉しくてたまらない。
「イスマーンでは元気にしていたか?」
サイードさんが僕を見下ろして聞いてくる。
「うん。元気だったよ」
そしてできるだけ面白おかしく、僕が馬や剣の訓練を頑張っていたことや虎髭のカーディム将軍に追いかけ回されて相当鍛えられたこと、どんな本を読んで宰相さんとどんな話をしたかなんて話をした。それをサイードさんは黙って聞いていた。
けれど東の国境へ行った話になると少しだけ顔を曇らせた。だから慌てて首を振ってサイードさんの心配を晴らす。
「本当に大丈夫だったから。皆が助けてくれたし、ちゃんと水も戻ったし」
「そうか」
ああ、駄目だな。心配かけたいわけじゃないんだ。それより遠くに離れていても僕はちゃんとやれてるんだ、と安心して貰いたいのに。
そう思ってもう一度口を開きかけた時、サイードさんが誰かに呼ばれてそちらを向いた。
知らない騎士らしき人と何かを話しているサイードさんを、目深にかぶった毛布の下から再び盗み見る。
やっぱりかっこいいな。こっちへ来る旅の途中にダルガートを見ていても思ったことだけど、仕事をしている大人の人の姿はとてもかっこいい。ドキドキする。
本当は一分一秒逃さずにずっとサイードさんを見ていたい。でもそんな風に思っているのは僕だけなんだろうな。サイードさんも僕と会えて喜んでくれてはいるようだけど、さすがに落ち着いている。
僕だけが馬鹿みたいに浮かれていて恥ずかしい。
スープの器を置いて、立てた膝に頬を押し付ける。身の引き締まるようなピリリと冷たい空気と火のはぜる音、周りを取り巻くざわめきや途切れ途切れに聞こえてくる歌、そして流れる河の音。
そのどれもがかつての僕の日常とはあまりにもかけ離れていて少しワクワクする。でも正直に言えば、本当は今すぐ立ち上がってサイードさんと一緒にどこか二人だけになれる場所に行って、思いっきり抱きついていっぱいキスをして、本当にサイードさんがここにいるのだと全身で実感したかった。
「疲れたか? カイ」
突然そう言われて慌てて顔を上げる。思ったよりもずっと近くにサイードさんの顔があってつい心臓がどくん、と大きく跳ねた。
サイードさん、こうして間近に見ると本当に男前だな……まっすぐでキリッとした眉とか結構長い睫毛とか、切れ長で凛々しい黒い目とか。それに高い鼻梁にくっきりとした口元とか。
ああ、さわりたいな。ううん、このくちで、ゆびで、いっぱいさわってほしい。
急にこみ上げてきた、何とも言えないゾクゾクした感覚に思わず息を詰める。
「カイ?」
「な、なんでもないです」
なんだろう、腹の奥の方がざわざわとしてひどく落ち着かない。その時、熱にうなされていた時に見た夢を思い出した。
そうだ、夢の中で僕はサイードさんにしがみついていて、ねだって触れて貰ったんだ。
キスして、背中を撫でてもらって、抱きしめてもらうだけじゃ全然足りなくてもっと奥の奥まで触って欲しい、ってお願いしたんだ。
そう思い出した途端、下腹の奥がきゅううっつ、と引き連れるように疼いて息を呑む。
やだな、そんないやらしい夢なんて見て。
夢だよね? だって、こんな大勢人がいるところで、そんな。
たまらなくなって熱い顔を隠すようにサイードさんの肩に押し付けると、サイードさんがいぶかしげに覗き込もうとしてくる。
「大丈夫、なんでもないから」
そう言って僕は被った毛布を引き寄せて、火照る顔とはしたなく疼き始めた身体をサイードさんの視線から懸命に隠した。
その水辺は広く 波は逆巻きて
あふれる水は 豊かに流る
見よ イコンの河に命満ち
はるかなる野辺に 月は落ちる
「あれはこの地に古くから伝わる歌だ」
あたたかいお茶の器を僕に手渡しながら、サイードさんが教えてくれた。
「そういえば歌や昔話をたくさん聞かせてくれる約束でしたよね」
以前、ダーヒルの神殿領でした話を持ちだすと、サイードさんの眉がほんの少し顰められる。
「その思いに偽りはないが、よく考えたら私はそう歌が上手くはない」
「そんなことないのに」
実際、神殿領から帝都への旅の途中で口ずさんでくれた歌はとても素敵だった。確か砂漠の旅人が見た流れ星の歌と草原を走る仔馬の歌だったと思う。
火の番をしながら僕にだけ聞かせてくれた、少し低くて張りのある歌声をもう一度聞かせて欲しいと思いながら、僕はサイードさんの横顔を盗み見た。
陽が暮れて河を渡ってくる風は冷たいけれど、皆が喜び歌う姿や興奮の色濃い空気のせいか不思議と寒くは感じない。
僕は普請工事に駆り出された遊牧民の人たちが敷き詰めてくれた厚い毛布の上に座り、第三騎兵団の人が持ってきてくれたラクダの毛布に覆われてお茶を飲んでいる。
あちらこちらで焚かれる篝火や焚火のオレンジ色の灯りやパチパチと火のはぜる音がとても心地いい。なんとなく子どもの頃に参加した夏のキャンプファイヤーを思い出す。
すぐに赤くなる顔を見られたくなくて昔から人付き合いを避けていたけれど、焚火を囲んで騒ぐ皆のざわめきを少し離れた場所から聞いているのは好きだった。
「少しでも何か食べた方がいい」
そう言ってサイードさんが野菜とひき肉の入ったスープの器を渡してくれる。スパイスの入った少し辛いそのスープは身体を芯から温めてくれると知っていたけれど、今はまだ先程の興奮が覚めやらず、なかなか食事に集中することはできなかった。
僕は氾濫直前だったイコン河をなんとか宥めることができた。
それを見た人々は喜びに沸き返り、口々にラハル神と僕とを称えた。
僕はこれまでずっと、行く先々で自分が神の化身や何かのように崇められることに引け目を感じていた。なぜなら自分がそれに見合う結果を出せているとは到底思えなかったし、そもそも神の存在自体がどうしても信じられなかったからだ。
けれど荒れるイコン河を前にして、悟った。
僕がこの世界を少しでも住みやすい土地にするためには神様がいるかどうかは関係ない。そして僕が本当に神子であるかどうかも、だ。
大事なのは、僕が神殿の不思議な球体を動かしたことで何かのスイッチが入り、アル・ハダール全土に水をもたらす力が正常に行き渡るようになったことと、僕がその力の流れのようなものをコントロールできる、ということだけだ。
不安や疑問や心配であんなにも揺らいでいた僕の心は、今は不思議と凪いで驚くほど穏やかだ。
あの球体に触れて何かが僕の中でピタリとはまって、そしてその感覚に頭がようやく追いついた気がする。
もちろんこの世界の人たちが持つ信仰心は尊重するべきだ。皆が僕を『神から遣わされた神子』と思い、それで救われる何かがあるのならそれでいい。
けれど僕自身はこの不思議な力を使うのに神に祈りすがる必要はなく、心は自由なままでいいのだ。
確かに僕には『力』がある。初めて素直にそう認められる。そして今の僕にはこの『神子の力』と呼ばれるものをきちんと使いこなせる自信があった。
ふと冷たい風が頬に当たって被り布を揺らす。サイードさんが僕の頭に毛布を被せて河からの風を防いでくれた。その影に隠れるようにして、僕はサイードさんに少しだけもたれる。
このくらいならきっと人に見られてもそうおかしくはないだろう。そう願いながらスープをこくり、と飲んでサイードさんの顔をこっそり見上げた。
できることならずっとサイードさんの顔を見ていたい。
あの遊牧民のおじいさんのところで数か月ぶりに会えた時は、サイードさんが無事だとわかった興奮と自分がしでかしたことへの後悔やいろんな感情がぐちゃぐちゃになって、素直に再会を喜ぶことができなかった。
それにこっちに戻ってきてからは体調を崩して寝込んでしまい、意識が戻ったら今度はイコン河が氾濫寸前だったりして、もうそれどころじゃなかった。
けれどようやくひと息つけた今、浮かれる気持ちがどうしても抑えきれない。
嬉しい。嬉しい。サイードさんに会えて、サイードさんの声を聞いて、サイードさんの体温を感じられるくらい近くにいられることが嬉しくてたまらない。
「イスマーンでは元気にしていたか?」
サイードさんが僕を見下ろして聞いてくる。
「うん。元気だったよ」
そしてできるだけ面白おかしく、僕が馬や剣の訓練を頑張っていたことや虎髭のカーディム将軍に追いかけ回されて相当鍛えられたこと、どんな本を読んで宰相さんとどんな話をしたかなんて話をした。それをサイードさんは黙って聞いていた。
けれど東の国境へ行った話になると少しだけ顔を曇らせた。だから慌てて首を振ってサイードさんの心配を晴らす。
「本当に大丈夫だったから。皆が助けてくれたし、ちゃんと水も戻ったし」
「そうか」
ああ、駄目だな。心配かけたいわけじゃないんだ。それより遠くに離れていても僕はちゃんとやれてるんだ、と安心して貰いたいのに。
そう思ってもう一度口を開きかけた時、サイードさんが誰かに呼ばれてそちらを向いた。
知らない騎士らしき人と何かを話しているサイードさんを、目深にかぶった毛布の下から再び盗み見る。
やっぱりかっこいいな。こっちへ来る旅の途中にダルガートを見ていても思ったことだけど、仕事をしている大人の人の姿はとてもかっこいい。ドキドキする。
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「疲れたか? カイ」
突然そう言われて慌てて顔を上げる。思ったよりもずっと近くにサイードさんの顔があってつい心臓がどくん、と大きく跳ねた。
サイードさん、こうして間近に見ると本当に男前だな……まっすぐでキリッとした眉とか結構長い睫毛とか、切れ長で凛々しい黒い目とか。それに高い鼻梁にくっきりとした口元とか。
ああ、さわりたいな。ううん、このくちで、ゆびで、いっぱいさわってほしい。
急にこみ上げてきた、何とも言えないゾクゾクした感覚に思わず息を詰める。
「カイ?」
「な、なんでもないです」
なんだろう、腹の奥の方がざわざわとしてひどく落ち着かない。その時、熱にうなされていた時に見た夢を思い出した。
そうだ、夢の中で僕はサイードさんにしがみついていて、ねだって触れて貰ったんだ。
キスして、背中を撫でてもらって、抱きしめてもらうだけじゃ全然足りなくてもっと奥の奥まで触って欲しい、ってお願いしたんだ。
そう思い出した途端、下腹の奥がきゅううっつ、と引き連れるように疼いて息を呑む。
やだな、そんないやらしい夢なんて見て。
夢だよね? だって、こんな大勢人がいるところで、そんな。
たまらなくなって熱い顔を隠すようにサイードさんの肩に押し付けると、サイードさんがいぶかしげに覗き込もうとしてくる。
「大丈夫、なんでもないから」
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