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本編
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しおりを挟む「すみません、わたし、婚約者を待たせているので…
離して頂けないでしょうか?」
わたしが言うと、彼はわたしの腰に手を掛け、ぐっと引き寄せた。
逞しく引き締まった体、それに、エリックよりも大柄で、ギクリとした。
黒塗りの飾り気の無いハーフマスク越しに見える、深い青色の目が、キラリと光った。
「離さない、やっと見つけたんだ、エリーズ!」
次の瞬間、男はわたしに覆い被さる様にし、唇を奪っていた___
「ん!??」
驚きは彼の口によって塞がれる。
熱い舌が遠慮もせずに挿し入って来て、口内を蹂躙する。
遂には、わたしの舌に絡みついてきた。
「んん!!」
離して!!と抗議した手は簡単に掴まれ、キスは益々深くなる。
男の腕が腰を支えてくれていなければ、わたしは倒れていただろう。
やっと唇が離された時には、息をするのもやっとだった。
頭はぼんやりとし、体に力が入らない。
そんなわたしを、男は抱き上げると、足早に会場を出て行った。
「な、なにをするの!?降ろして!!」
男は無言で歩き続けると、わたしを馬車に放り込んだ。
「きゃ!!」
だが、驚いている場合では無い。
男がわたしの上に乗り掛かり、再び口を塞いで来た___
「ん!!」
力いっぱい、男を叩く。
だが、その手は一纏めにされ、熱く口付けられた。
「いやぁ!止めて!怖い!!」
恐怖が頂点に達し、わたしは遂に泣き出してしまった。
すると、意外にも、男は手を離し、体を起こした。
「悪かった、抑えが利かなくなった…泣かないでくれ、エリーズ…」
男の太い指が、わたしの顎に伝う涙を拭う。
わたしはそれを撥ね退けた。
「触らないで!わたしは、エリーズなんかじゃないわ!」
わたしは仮面を取り、それを投げ捨てた。
男は真剣な目で、じっと、わたしの顔を見つめた。
それから、目を細めたかと思うと、わたしを強く抱きしめた。
「会いたかった、エリーズ___」
「いやーー-!離して!!わたしはエリーズじゃない、アリシアよ!」
腕の中で藻掻くと、男は抱擁を緩め、体を起こした。
そして、わたしの長い髪を手に取ると、匂いを嗅ぎ、口付けた。
「ひっ」と固まるわたしに、男が言った事は…
「いや、君はエリーズだ」
わたしは男の正気を疑い、ぞっとした。
男はわたしの髪を離し、座席に座り直した。
「家まで送ろう、家は何処だ?」
このまま攫われるのではと思っていたわたしは、帰して貰えるなら…と、家を教えていた。
◇◇
会いたかった、エリーズ。
君はエリーズだ。
離さない、やっと見つけたんだ、エリーズ!
「________!!」
わたしは悲鳴を上げ、目を覚ました。
まだ胸がバクバクとしている。
あのカーニバルの夜の事は、わたしの内に恐怖としてこびりついていた。
誰かも分からない熊の様な大男から、キスをされ、押し倒されたのだ。
相手が「エリーズ」と呼んでいた事から、人違いで間違い無いのだが、
仮面を外して見せても、男は「エリーズ」と頑なに言っていた。
「きっと、頭の病に掛かっているんだわ、気の毒ね…」
だが、それで自分が迷惑を被る事には不満がある。
男はわたしを馬車で家まで送ってくれ、帰って行ったが、後々考えると、
それは、「男に家を知られてしまった」という事だ___
それを考えると、恐ろしくなり、この三日、体調が悪いと言って、部屋に閉じ籠っていた。
エリックは、カーニバルの翌日に家を訪ねてくれた。
カーニバルで会えなかった事で気まずそうにしていたが、
わたしが体調を崩し帰った事を知ると、急に元気になった。
「そうだったのか、良かった!君をガッカリさせたんじゃないかと心配だったんだよ」
「ごめんなさい、エリック…会えなくて心配したでしょう?」
「ああ、随分探したんだけどね、だけど、帰っていたんなら、見つかる筈は無いよね!」
エリックが笑ってくれ、わたしは安堵した。
だが、一方では罪悪感に胸が疼いた。
エリックが探してくれていた時、わたしは知らない男にキスされ、抱きしめられていたのだ。
エリックに知られたら、きっと怒るだろう…
秘密にしなければ…
だけど、婚約者に秘密を持つなんて…
わたしは葛藤しつつも、エリックの顔を見ていると、やはり言えなかった。
訪問者はまだ居た。
マリエットとクララだ。
彼女たちは翌日の夕方、わたしを訪ねて来てくれた。
「アリシア、体調を崩したって?大丈夫か?」
「ごめんなさいねぇ、知っていたら、お見舞いを持って来たのだけどぉ…」
「いいのよ、体調を崩しただけで、病ではないから、それより、カーニバルはどうだった?」
わたしは無難に話題を反らした。
「収穫は無し!」
「私は誘われたわぁ、でも、踊りが下手なのぉ、足を踏まれたのよぉ!」
「残念だったわね」
わたしは二人に、あの男の事を聞いて貰おうかとも思ったが、
エリックに漏れるかもしれないと思うと、怖くなり話せなかった。
二人は少しだけお喋りをし、帰って行った。
そして、憂鬱に過ごし、三日が経った。
いつまでも体調が悪いと言ってはいられない。
家の手伝いもあるし、商家の手伝いもある___
わたしは気力を振り絞り、ベッドから出た。
調理場で紅茶を淹れていると、母がやって来た。
「あら、アリシア、体調は良いの?」
「ええ、良くなったわ、手伝えなくてごめんなさい」
「いいのよ、それより、紅茶を持ってパーラーへいらっしゃい、
お父様からあなたに話があるそうよ」
母に促され、わたしは紅茶のカップを手にパーラーへ行った。
「お父様、お早うございます」
「おお、アリシア、丁度良かった、おまえに話があるんだ」
わたしは父が座る長ソファの前、独り掛けの椅子に座った。
父は言い難いのか、咳払いをした。
その表情は何処か気まずそうだ。
「実はな、アリシア、先日、おまえに結婚の申し込みが来たんだ」
わたしは父の言葉を頭で反芻した。
だが、やはり、意味は分からなかった。
「お父様、わたしはエリックと婚約しています、何故、その様な事をおっしゃるのですか?」
申し込みが来ても、父が断れば済む話だ。
父はもう一つ咳払いをした。
「それがだな、相手は伯爵なんだ」
伯爵だから何だと言うのか…
わたしは少し苛立っていた。
「相手が誰であれ、わたしはエリックと結婚します、そう決めたのだもの!」
「まぁ、おまえなら、そう言うだろうとは思ったがね…」
父はあからさまに残念そうな顔をし、肩を落とした。
母は同情する様に、父の肩を擦った。
「でもね、アリシア、良いお話なのよ。
伯爵に見初められる事なんて、普通では無い事よ、それに、伯爵は初婚でいらっしゃるの。
あなたは何の気兼ねもなく、伯爵家に入れるわ」
「お母様、わたしはエリックを愛しているの、他の方との結婚は考えられないわ」
わたしはキッパリと頭を振った。
「父さん、母さん、アリシアを説得するには、本当の事を話すしかないよ」
兄のフィリップがやって来て、わたしの背後に立った。
わたしは不穏なものを感じ、兄を見て、それから父に聞いた。
「お父様、本当の事というのは何ですか?」
父は渋い顔をし、深く息を吐いた。
「実はな、昨年、取引に失敗し、損害を被ったのだ。
おまえの結婚まではと頑張ってはいるが、不景気もあって、難しい…」
「それでは、我が家には、負債があるのですか?」
初めて聞く事に、わたしは驚愕した。
「でも、エリックと婚約した時、何もおっしゃらなかったでしょう?」
「おまえはエリックを慕っているし、折角の話を潰す訳にはいかないと思ってな…
結婚までに何とかするつもりだった」
「何とかって、当てはあるのですか?」
父は口を閉じ、項垂れた。
「アリシア、お父様を責めないで!」
母に言われ、わたしは「すみません」と口を閉じた。
重い空気の中、兄が言う。
「伯爵はおまえとの結婚を条件に、援助を約束してくれたんだ。
正直、伯爵の援助が無ければ、我が家は終わりだよ…」
「それでは、お父様もお母様もお兄様も、わたしに伯爵に身売りしろと言うの!?」
あんまりだわ!
だが、兄は冷酷にも言った。
「ああ、それが女の務めだ、珍しい事じゃないよ、アリシア。
それに、娼館に売られる訳じゃない、伯爵夫人になれるんだ、おまえは恵まれているよ」
愛する人と結婚出来ず、知らない伯爵とお金の為に結婚させられるというのに、
『恵まれている』ですって!?
「信じられない…皆、わたしの事なんて、どうでもいいのね!?」
わたしは酷くショックを受け、立ち上がると家を飛び出していた。
わたしが向かったのは、コレー男爵の館だった。
パーラーに通され、待っていると、エリックが現れた。
「どうしたの、君から訪ねて来るなんて珍しいね、アリシア」
いつも通りのエリックに、わたしは「わっ」と声を上げ、泣いていた。
「どうしたんだい、アリシア?泣いていたら分からないよ」
エリックに優しく言われ、わたしは知った事を取り留め無く話していた。
家には負債があり、伯爵が自分との結婚を条件に、援助を申し出た事。
このままでは、金と引き換えに、伯爵に嫁がされてしまう___!
「助けて、エリック!わたし、あなたを愛しているの!あなたと結婚したいの!」
わたしはエリックに縋った。
だが、エリックはわたしの手を離させ、立ち上がった。
「そういう事なら、君は伯爵と結婚するべきだよ」
わたしはエリックの言葉が信じられなかった。
幻聴であればと願った。
「な、何を言うの?婚約者のあなたが…わたしに伯爵と結婚しろだなんて!
愛しているなら、わたしを攫って逃げて!エリック!」
「逃げてどうするっていうんだい?
それに、君は自分の家がどうなっても平気なのか?子供じゃないんだよ、アリシア」
エリックは冷たく、素っ気なく、教師の様な口調だった。
わたしは愕然としていた。
「それから、当てにされても困るから言っておくけど、
コレー男爵家から援助する事は難しいよ、男爵家なんて、然程裕福じゃないんだからね。
僕は助けてあげられない、ごめんね、アリシア、指輪を返して貰えるかい?」
エリックが手の平を向ける。
わたしは戸惑いつつ、指からそれを抜いた。
「っ!!」
だが、渡せずに、握り込む。
「エリック!わたしを愛してはいないの?」
エリックは辛そうな顔に笑みを浮かべ、頭を振った。
「ああ、アリシア…愛と結婚は別だよ。
君を愛してはいるけど、僕たちは結ばれない運命だった…」
「どういう事…分からないわ」
「君が子供だからさ」
「どうしたら、わたしと結婚してくれるの?」
「君とはもう、結婚は無理だよ、辛い現実だけどね、
商売に失敗した家とは縁続きにはなれない。縁起が悪いだろう?
妾でも無理だよ、ごめんね、アリシア」
「ひっく」と、わたしはしゃくり上げた。
これ程、残酷な事があるだろうか?
結婚出来ない理由が、《縁起が悪い》だなんて…
愛した人に、妾でも無理だと言われるなんて___!
わたしはボロボロと泣きながら、指輪をエリックの手の平に落とした。
そんなわたしに、エリックはいつも通り、優しい口調で告げた。
「アリシア、今日までありがとう、君を愛した事は忘れないよ」
わたしはエリックの言葉に恐怖すら感じた。
何とか気持ちを抑え、わたしは来た時よりも肩を落とし、館を出た。
頼りない足取りで歩きながら、わたしは何処に向かえば良いのか、分からなかった。
家には帰りたくない。
少なくとも、今は帰る気にはなれない。
今まで信じてきた家族は、わたしを愛しておらず、身売りさせようとしているのだ!
そして、愛した人は、わたしが思う程には、わたしを愛していなかった!
「愛していたら、わたしを攫って、逃げてくれたわ…」
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それを、あんなにあっさりと諦めてしまうなんて!
まるで、書類を整理するみたいに!
今聞いたエリックの言葉を全て、頭の中から追い払いたかった。
愛していると言いながら、愛する者が身売りをしても平気でいる。
『アリシア、今日までありがとう、君を愛した事は忘れないよ』
それが、崖淵に立たされた者へ、掛ける言葉なのだろうか?
エリックの中で、わたしは終わったのだ。
わたしは彼から締め出されたのだ。
「これが、愛だというの?」
わたしは肩を揺すり、笑っていた。
それから、また泣いた。
こんなの、愛なんかじゃないわ!
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