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数年ぶりに父から呼ばれ、わたしは書斎に入った。

書斎には、父とカサンドラが並んで立っていた。
豪華に着飾ったカサンドラは、腕組をし、嘲る様な表情でわたしを見ている。
父はわたしを見た瞬間、顔を顰め、あの憎悪の目を向けた。
わたしはそっと視線を下げた。

「コレット、いや、おまえは今日から『クリスティナ』だ」

父が前置きも無く言ったかと思うと、
今度はカサンドラが、キンキンとした声で捲し立ててきた。

「クリスティナとして、アラード卿と結婚出来るのよ、良かったじゃないの!
あなた、良い年だというのに、縁談の一つも無いでしょう?
このまま家に居られても困るのよ、家を継ぐのは、優秀なクリスティナか
エリザベスですからね!結婚して出て行って貰わなくては!」

つまり、わたしはクリスティナとして、アラード卿に嫁ぐ…という事らしい。
貴族の間では、親が娘の結婚相手を決める事は珍しい事ではない。
だが、何故、自分…コレットとしてではなく、クリスティナとしてなのか?

「何故…わたしが、クリスティナになるのでしょうか?」

それを聞いた瞬間、父とカサンドラは恐ろしい顔になり、わたしは反射的に後退った。

「アラード卿は、クリスティナを御所望なんだ!
名を変えるだけで結婚出来るんだ、有難く思え!」

「コレットでは、貰い手が付かないでしょう!
不貞を働き、家族を捨てた踊り子の娘など、誰が結婚してくれるというの!
クリスティナは美人ですから、何とでもなりますけどね、あなたの相手を
探すのがどれだけ大変な事か…これ以上、父親を困らせるんじゃないわ!」

二人共、凄い剣幕だった。
わたしは恐ろしさに耳を塞ぎ、それ以上は何も言えなくなった。


翌朝早く、わたしは部屋から引き摺り出され、メイドたちによって磨き上げられた。
今までまともに手入れをして来なかった身だ、レディーズメイドは嘲笑した。

「奥様、これでは伯爵令嬢には見えませんわ!
町娘でも酷いものですもの!」

だが、今のカサンドラに、一緒に嘲笑する余裕は無かった。
「何とかするのよ!それが仕事でしょう!」と厳しく言い付けたので、
レディーズメイドは不機嫌になり、口は閉じたものの、わたしをぞんざいに扱い出した。

クリスティナのドレスでは、わたしには大き過ぎ、エリザベスのドレスを着る事になった。

「何故、自分のドレスを持って無いのよ!
このドレスならいいわ、去年のだし、もう着られないから___」

エリザベスが渋々出して来たのは、フリルとリボンの多いピンク色のドレスで、
自分には似合わない気がしたが、それでも、初めて着る豪華なドレスに、
わたしは息を飲んだ。

「ドレスだけでも過ぎたものよ、宝飾品は必要無いわ」というカサンドラの指示で、
ネックレス一つ、身に付ける物は無かった。
適当に白金色の髪を結い上げると、ピンで止め、帽子を被せ、見えなくした。


「必要な物はアラード卿に買って貰いなさい、それが夫の義務よ、
尤も、そんな甲斐性があればですけど!」

必要最低限、適当な衣類を詰めた鞄が馬車に詰まれる。
クリスティナとエリザベスの会話が耳に届いた。

「アラード卿は、お父様よりも六つも年上なのでしょう?」
「自分の父親よりも年上の男に嫁ぐだなんて!ぞっとするわね!」
「怖そうな人だったわ!私見たんだから!信じられない位、大男よ!」
「オグルの様な顔をしていたそうね!」
「粗暴な所なんか、正に、オグルよ!」
「それじゃ、コレットはオグルの妻って事?」
「まぁ!お似合いね!!」
「あんな人の妻だなんて!きっと酷い目に遭うわよ!」
「逆らったら、捻り上げられそう!」

相手がその様な恐ろしい人だと知らなかったわたしは、恐怖で身が竦んだ。
だが、「さっさと行くのよ!」とカサンドラに言われ、使用人に腕を掴まれ、
わたしは馬車まで引き摺られて行った。

わたしが結婚するアラード卿がどの様な人なのか…
本当に、その様に恐ろしい者なのか…

安心出来る言葉を求め、縋る様に父を見た。
その父親から掛けられた言葉は…

「いいか、おまえはクリスティナだ、良く覚えておけ!
おまえがコレットだと露見したら、私たちは破滅だ、
逃げ帰る様な真似をしてみろ!おまえを絞め殺してやる!
私たちの為に、しっかり、アラード卿に気に入られるんだぞ!」

わたしが茫然とし、何も返せずにいる中、
馬車はゆっくりと優雅に走り出し、デシャンの館を出て行った。

この先、どの様な恐ろしい事が待っているのか…





デシャンの館を出てから二日目の昼過ぎ、馬車はアラード卿の館に着いた。
騎士爵というが、デシャンの館に匹敵する程の、立派で美しい館だった。
豊かな緑に囲まれ、敷地も十分に広そうだ___

本当に、ここなのかしら…

不安に思いながら、わたしは馬車を降りた。
それを見越したかの様に、玄関から、頭の薄い、白髭の老執事が現れた。

「デシャン伯爵の娘、クリスティナです…」

わたしが名を告げると、「旦那様からお聞きしております、どうぞこちらに」と
すんなりと通された。
玄関ホールも、広く美しく立派だ。

玄関ホールからパーラーに通された。

「旦那様、クリスティナ様が御着きになられました」

執事の言葉に、ソファに座っていた黒髪の男が立ち上がった。
体格が良く、背も高い…クリスティナとエリザベスが言っていた通り、見た事も無い程の大男だ。
アラード卿は堂々とした歩みで、わたしの前まで来た。

この方が、アラード卿…
わたしの、夫となる方…?

実感は無かった。
ただ、実物は、クリスティナとエリザベスの言葉とは全く違っていると思った。

オグルなんて、とんでもない…

体格こそは良いが、身なりは整っていて、立派な紳士に見える。
尤も、その顔は、整ってはいるが厳めしく、とても花嫁を歓迎している様には見えなかった。
その事に困惑しつつも、
『私たちの為に、しっかり、アラード卿に気に入られるんだぞ!』という
父の声が頭に蘇り、わたしは彼に向け、昔習ったカテーシーをした。

「デシャン伯爵の娘、クリスティナです」

「止めろ、俺は固苦しいのは嫌いだ!
それに、機嫌を取ろうなど、見え透いた真似はするな!見苦しい!」

切って捨てる様に言われ、わたしは青くなった。
わたしは気に入られなかったのだ___!
震えているわたしを余所に、彼は顔を逸らし、吐き捨てた。

「全く、デシャン伯爵には呆れる!
自慢の娘を、こんな年の離れた男に差し出すとはな…」

自慢の娘…差し出す?

何かが変だ。
わたしは違和感を覚え、戸惑った。
彼はその逞しい腕を組み、忌々しげにそれを告げた。

「言っておくが、『結婚』はあくまで体裁だ、おまえは人質だ」

人質?

「おまえの父親が俺から騙し盗った金と短剣を返すまでは、この館に居て貰うぞ!
帰して欲しければ、毎日、父親に『助けてくれ』と手紙を書くんだな!」

わたしは、妻ではなく、人質?
これは、結婚では無かったの?
父が、この方のお金と短剣を盗ったというの?

初めて知る話に、わたしは頭が追い付かなかった。
そんなわたしを余所に、アラード卿は執事を呼ぶと、言い付けた。

「この娘…いや、今日から我が妻だったな、妻を北の塔へ入れろ!
私が許すまで、そこから一歩も出すんじゃないぞ!
ああ、手紙は受け取ってやれ___」


わたしは執事に従い、北の塔へと向かった。
本館からの出入り口は一階にしか無く、そこは完全に孤立していた。

一階は、調理場兼食堂、風呂場、トイレ。
二階は、寝室が一つ。
その先の階段は、鍵の掛かった扉で封鎖されていた。

「一階と二階は、自由にお使い下さい。
旦那様の言い付けですので、入り口には鍵を掛けさせて頂きます。
何かございましたら、戸口の紐を引き、ベルを鳴らして下さい。
食事は朝、昼、晩と、メイドがお届けに参ります。
何かあればその時にお申しつけ下さい___」

執事は言うだけ言うと、部屋を出て行き、出入り口に鍵を掛けた。
わたしは口を挟む間も無かった。
尤も、それがあったとしても、何も言えなかっただろう。
未だに頭は整理出来ていないのだから___

鍵まで掛けられて…

「わたし、妻ではなく、人質だったのね…」

今まで緊張し気を張っていた分、一気に気が抜けてしまった。
尤も、父とカサンドラに、クリスティナと偽る様にと言われた時から、
何かあると察してはいた。
だが、わたしはそれに、故意に目を閉じた。

結婚出来ると思ったからだ___

「わたしったら、馬鹿ね…」

甘い夢を見てしまった。
夢が現実になる事など、今まで無かったというのに…

「でも、ここの方が、まだ自由かも…」

ここは、窓から入る陽で明るく、そして簡素ではあるが、整っている。
十分な広さもある。
あの、じめじめとし、薄暗く狭い自分の部屋の方が、余程牢屋らしかった。
その皮肉に自嘲しながらも、わたしは重い溜息を吐いた。

ここにも、家にも、わたしの居場所が無いのは同じ___


わたしは二階の寝室へと向かった。
わたしの唯一の荷物である、くたびれた鞄は、寝室に置かれていた。
簡素だが、広い部屋だ。

窓が一つあり、明るい陽が入っている。
簡素なベッド、鏡台とスツール、小さな机と椅子、チェスト。
鏡台の引き出しも、机の引き出しも、チェストも空だった。

わたしは鞄を開け、少ない下着や簡素なワンピースを取り出し、チェストに入れた。
鞄の底に一つだけあった櫛は、鏡台の引き出しに入れた。

帽子を脱ぎ、髪を留めていたピンを抜く。
ピンクのドレスを脱ぐと、帽子と一緒に鞄に詰め、ベッドの下に押しやった。
替わりに、飾り気の無いワンピースを着る。

わたしは倒れる様にベッドにうつ伏せた。
それは、自分の家のベッドよりも余程柔らかく、スプリングもあり、そして温かだった。
その事に傷付くなど、誰が考えるだろう___
体が酷く重く感じられ、わたしは瞼を閉じた。


階下で物音がし、わたしの意識は浮上した。
どれ位寝ていたのだろう?空はオレンジ色に変っていた。

わたしは音に釣られ、部屋を出て階段を下りた。
メイドがワゴンで食事を運んで来ていた。

「食べ終わったら、そのままにしておいて下さい、朝食を運ぶ時に下げますので。
洗濯物はそちらの籠に入れておいて下さい…」

メイドはわたしを見て変な顔をしたが、義務的に説明した。

「何かございますか?無ければ、下がらせて頂きます…奥様」

明らかに、『奥様』に違和感を持っているらしい。
わたしが人質だという事情を知らないのだろう。
わたしは小声で礼を言った。

「はい…ありがとうございます…」

メイドは部屋を出ると、鍵を掛けた。
扉の向こうで、メイドが誰かと話す声が聞こえてきた。

「奥様は伯爵令嬢だと聞いてたけど、あれは嘘だね!
伯爵令嬢なんかより、町娘の方が余程綺麗にしているよ!
みっともない恰好でさー、メイド服の方が立派に見えるってもんだ!」

「それじゃ、明日はあたしに行かせてよ!どんな娘か見てやりたいわ!」

「それにしても、旦那様も変ってるわよね、前妻が身投げした場所に、
新しい妻を入れるなんてさ!」

前妻?身投げ!?
その馴染みの無い言葉のお陰で、わたしは一気に頭が覚めた気がした。

「旦那様には、何か変な趣味があるんじゃないの?」
「女には不自由していないってのに、よりにもよって、あんな小娘と結婚しちまうんだからね!」
「縛ったり、ぶったりするのかしら?」
「そうかもしれないよ!何せ、鍵を掛けて閉じ込めちまうんだから!」
「夜、覗きに来てみようかしら?」
「止めなさいよ、知ってるでしょ、ここは幽霊が出るんだから___」

メイドたちは笑いながら行ってしまった。
わたしは茫然としていた。
彼女たちの噂話が、何処まで真実なのか…

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