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しおりを挟む「君に頼みたい事がある、後で寝室に来て貰えるかい?」
いつもと変わらず、晩食を終え、パーラーでお茶をした。
いつもと違っていたのは、互いの部屋へ別れる時だった。
レオナールにそんな風に声を掛けられ、ドキリとしない者は居ないだろう。
わたしは内心の緊張や期待を隠し、頷いた。
「はい、それでは、後で伺います…」
わたしは寝支度をし、薄い夜着の上にガウンを羽織る。
いつもはシニヨンに結っている白金色の髪も、今は降ろし、流していた。
「ふう…」
心を落ち着かせる為に、深呼吸を繰り返した。
勿論、そんな事で鎮まる筈も無かった。
緊張しつつ、寝室の扉を叩いた。
「セリアです」
「入ってくれ」
返事があり、わたしは「失礼します」と扉を開けた。
寝室は広く、大きなベッドが置かれていて、レオナールはそこに座り、本を読んでいた。
本を置くと立ち上がり、「こっちへ」とわたしを促した。
だが、そこはベッドではなく、壁際に置かれた、家庭用のスリムなピアノの前だった。
「寝室にピアノを置かれていたのですね…」
「いや、実は今日、運んで貰ったんだよ」
「まぁ!気付きませんでした」
幾ら家庭用のスリムなピアノだとしても、それなりの大きさもある、
作業や調律師が来れば気付くものだが、全く気付かなかった。
「来て貰ったのはね、君にピアノを弾いて貰いたかったからなんだ…」
「ピアノを?」
わたしは自分の勘違いに気付き、恥ずかしくなった。
こんな格好で来てしまって、レオナールは何と思っただろう?
チラリと盗み見たが、その表情はいつもと同じで、わたしは安堵した。
「パーラーで君のピアノを聴いた時、眠りに誘われてね…
ベッドに入っている時であれば、もっと深く眠れる気がするんだ、
手伝って貰えないだろうか?」
「勿論、喜んでお手伝い致しますわ!」
必要以上に声を張ってしまい、わたしは誤魔化す様に、
さっさとピアノの椅子に座った。
眠れないレオナールの為にと、色々してきたし、自分に出来る事は何でも協力したかった。
だが、今は少しだけ、憎らしく思えた。
それなら、そうと、先に言って下されば良かったのに…
それとも、わたしはそんな事など考えもしない小娘だと思われているのだろうか?
あなたを想い、胸を焦がしているというのに…
だが、そんな事は言えない。
悟られてもいけない。
レオナールが望むのは、愛など抱かない、《形だけの妻》なのだから…
「弾き終わって、もし私が眠っていたら、そのまま部屋を出て貰って構わないよ」
「はい、承知致しました、どうぞ、ベッドにお入り下さい」
レオナールがベッドに入るのを見てから、わたしは真新しい鍵盤に指を置いた。
今の気分は、切ない愛の苦しみの曲に近いが、レオナールが望むのは、
晴れやかな曲だ。
レオナールが安心して、深く眠れますように…
わたしは想いを込めて、ピアノを弾いた。
一曲弾き終わった時、振り返って見ると、レオナールの動きは無かった。
眠れている様だ。
わたしは小さく息を吐くと、椅子から降りた。
起こしてはいけないが、そっとベッドに近付き、レオナールの顔を覗き込んだ。
瞼は閉じられ、その魅力的な唇は薄く開いていた。
キスがしたい___
そんな衝動に駆られたが、わたしは『いけないわ!』と自分を諫めた。
もし、万が一、レオナールが気付いてしまったら…
わたしは追い出されてしまうかもしれない。
それだけは、絶対に避けなくてはいけない。
わたしはどんな形であれ、レオナールの傍に居たい。
この生活を出来るだけ長く続けたい___
「おやすみなさい、良い夢を…」
わたしは、母親がする様に、彼の額にそっとキスを落とした。
わたしに許されるのは、ここまでだ。
そっと、彼の寝室を出て、自分の寝室に戻った。
冷たいベッドに潜り込み、わたしは枕を抱えた。
多くを望んではいけない…
「だけど、恋しいの…」
◇◇
ピアノの効果は十分にあった様で、レオナールは喜んでいた。
「驚く程良く眠れたよ、それで、君さえ良ければ、毎晩弾いて貰いたいんだが…
勿論、疲れている時はいいよ、君の負担になってはいけないからね」
「ピアノを弾く事は好きですし、それであなたが眠れるのでしたら、
良い事しかありません、喜んでお弾きしますわ!
それに、夫婦で寝室を使っていると思わせるには、丁度良いと思います」
わたしはそっと付け加えた。
レオナールは「ふっ」と笑った。
「そうだね、君の想像の材料になる」
「わたしだけではありませんわ、これは《仲の良い夫婦》に必要な事ですもの」
「その通りだ、私も協力するよ、次はどんな話にする?」
協力するというなら、わたしを抱けば良いのだ。
だが、契約もある、それは絶対に無い事だろう。
「あなたは毎晩、わたしをお求めになります」
「ああ、君が居ないと眠れないよ、セリア」
もっともらしく、熱い目で見つめられ、わたしはドキリとした。
取り繕う様に、わたしは素っ気なく続けた。
「ですが、あなたは用が済めば、わたしをベッドから追い払います」
「そんな事はしないよ、私の眠りの邪魔になってはいけないと、
君が気遣って部屋を出て行くんだ」
「わたしは良妻ですね」
「ああ、君は理想的な妻だよ」
レオナールが微笑み、わたしの頬を撫でた。
反射的にビクリとすると、その手は直ぐに離れていった。
「不意打ちに弱いね」
からかう様に言われ、わたしは赤くなり唇を噛んだ。
子供だと思っているのね!
「あなたはお強いのですか?」
「いや、それ程でもないよ、だから、変な事は考えないでくれ」
先手を打たれ、釘を刺された。
「狡いわ!」
わたしは衝動で、レオナールの胸に飛び込んだ。
わたしなりの反撃だったが、後の事は考えていなかった。
「!!」
その温もりと匂いに息を飲んだ。
レオナールがわたしの肩を掴み、やんわりと離させた。
「夜にはまだ早いよ」
その余裕が憎たらしく思える。
レオナールはわたしが裸で訪ねても、『風邪をひくよ』と言う位で、驚いたりはしないだろう。
わたしは精一杯、大人な振りをし、ツンと顎を上げた。
「はい、それでは夜に」
貴婦人然として立ち去ろうとしたが、レオナールが思い出した様に引き止めた。
「ああ、セリア、来週だが、一緒にパーティに出席してくれるかい?
フレミー卿の寄付集めのパーティだ」
公の場に誘われるのは初めてだった。
「フレミー卿という方は存じませんが…」
「資産家でね、良い人だよ、君を妻として紹介したい。
結婚してから、まだお披露目をしていないしね」
「はい、それでは、準備しておきます」
「ああ、頼むよ」
わたしは部屋に戻り、念入りに身支度をし、髪を丁寧に梳かした。
レオナールは気にもしないかもしれないが…
少しでも魅力的に見えるといい…
「それに、妻としては当然の事だわ」
他の者たちにとっては、《偽装夫婦》ではなく、《愛し合う夫婦》なのだから。
わたしは自分を納得させ、薄い夜着にガウンを羽織った。
メイドに温めたミルクを持って来て貰い、それを手にレオナールの寝室を訪ねた。
「ホットミルクはいかがですか?寝る前に飲むと良いそうです」
「ありがとう、貰うよ」
わたしはカップを渡し、ピアノに向かった。
「睡眠薬はまだ飲まれているのですか?」
ふと、それを思い出して訊いた。
レオナールはカップを口から離した。
「君がピアノを弾いてくれる時は飲んでいないよ」
それでは、わたしが居ないと困りますね___
わたしは内心で喜びを噛みしめた。
「それは、良かったですわ」
「ああ、君のお陰だよ、セリア。
私の為に色々と考えてくれてありがとう。
ミルクなんて、二十年は飲んでいなかったが…良いものだね」
レオナールがうれしそうに笑う。
二十年…母親の事があってからだろうか?
彼は、9歳で、母親の愛を受けられなくなったのだ___
「ええ、あなたは、もっと飲むべきです」
わたしが毎晩、お運びします。
わたしは鍵盤に指を置く。
優しい調べに想いを馳せる。
レオナールを愛で包んであげたい…
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