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しおりを挟む次の日の昼過ぎ、早速仕立て屋の店員が館を訪れ、わたしの寸法を測った。
伯爵夫人として相応しい装いを揃える為だ。
だが、ドレスが出来るまでには、二週間程度掛かる。
早く欲しかったので、普段着用のドレスは、サイズを直すだけで済むものを頼む事にした。
これならば、数日で手に入る。
靴と帽子はどの様な場にも合う様な、無難な物にした。
偽装の妻の身としては、散財は出来ない。
特に必要では無い物や贅沢と思う物には、一切手を付けずにおいた。
化粧品もなるべく厳選して頼んだ。
レオナールは晩餐の後で部屋に寄ってくれ、様子を聞いてくれた。
「手の調子はどう?」
「はい、お陰様で、腫れも引きましたし、痛みもありません」
「そう、でも、言われた通り、まだ安静にしておくんだよ」
「はい」
「仕立て屋を呼んだが、順調かな?」
「はい、お陰様で、二日の内には普段着用のドレスを届けて下さいます」
「随分早いね」
「はい、サイズを直して頂くだけですので…
勿論、フォーマルなドレスは新着致しますので、ご安心下さい」
慌てて付け加えると、レオナールが小さく笑った。
「心配はしていないよ、君の好みは知っているからね」
レオナールが手を上げて見せる。
結婚指輪の事だ。
わたしも小さく笑い、自分の手をそっと撫でた。
「地味になり過ぎた時には、またおっしゃって下さい」
「いや、君に言い負かされるだけだから、止めておくよ」
彼と冗談を言い合うなんて、夢にも思わなかった。
だが、こうして向かい合っていると、それは自然に思え、わたしはうれしさが止められなかった。
声を上げて笑うわたしに、レオナールは微笑み、頷いた。
だが、それは正に、主治医の様だった。
「それでいい、笑っていると元気になるよ」
◇
二日が経ち、わたしの手の包帯は外された。
傷は完全に塞がり、今度は手荒れの薬を使う事になったが、
数日、使っていなかった為か、手荒れの方も少し治ってきていた。
普段着用のドレスも届き、その日初めて、わたしは寝室を出たのだった。
リリーに館内や庭を案内して貰った。
使用人に出会うと、その都度リリーが紹介してくれ、わたしは挨拶を交わした。
使用人たちは皆、《新しい奥様》に対し好意的に見え、わたしは安堵した。
これが、ずっと変わらなければ良いけど…
晩餐に出るのも初めてだった。
食堂に入ると、レオナールが席に着き、待っていた。
「遅れてしまって、申し訳ありません、レオナール」
「いや、気にしなくていいよ、服が届いた様だね」
「はい、お陰様で、伯爵夫人として相応しいでしょうか?
私は男爵家の出ですし、伯爵家がどういうものは良く分かりませんので…
前の奥様はどういった装いだったのですか?」
わたしは思い切って聞いてみた。
僅かにレオナールの表情が冷たくなった。
「ディアナの事は気にしなくていい、君の装いは上品でいいと思うよ。
それに、伯爵家といっても、ここでは私たちだけだ、誰も何も言わないよ。
気負わずに自由にして欲しい」
「はい」
豆のスープが運ばれて来た。
濃厚で美味しいスープに舌鼓を打つ。
「とても美味しい…」
「君は何でも美味しいと言ってくれると、料理長が喜んでいたよ」
「この館で出される料理は、どれも素晴らしいですわ…」
トラバース卿の館では酷い物しか食べられなかった。
その記憶がまだ薄れておらず、何を食べても格別に美味しく感じられた。
「トラバース卿の館では、満足に食べさせて貰えなかった?」
不意に訊かれ、わたしはビクリとし、思わず周囲を見た。
誰も居なかったが、わたしは気が気では無かった。
声を顰めて訊いた。
「レオナール、わたしが下女だった事を、使用人たちは知っているのですか?」
「いや、話す必要は無いからね、尤も、何れは耳に入るだろう」
わたしは気が重くなった。
だが、レオナールは微笑み、簡単に言った。
「不安がる事は無いよ、君の恋物語は完璧だ。
それに、君を悪く言う者は、この館にはいないよ」
そうだといいけど…
不安な気持ちは隠せず、レオナールにそれと気付かれた。
「トラバース卿の館では、相当酷い目を見た様だね」
「…」
「安心していい、私が君を守るよ、君は私の妻だからね」
その言葉は一瞬で、わたしの内に蔓延っていた不安を、甘いときめきに変えてしまった。
ああ、偽装夫婦だと、忘れてしまいそうで怖い…
「ありがとうございます…」
髪を結い上げている為、赤くなる頬を隠す事は出来ず、
わたしは俯き加減にそっと感謝を述べた。
「手の方はどう?包帯は取れたんだね」
「はい、すっかり良くなりました」
「それは良かった、すまなかったね、私の所為で」
「いえ、わたしも考え無しでした…手荒れの薬がうれしくて…」
レオナールが「ふふ」と笑う。
「君は可愛いね、純粋だ、自分が少年に戻った様に思えるよ…」
それは、わたしが子供っぽいという事だ。
わたしは残念に思ったが、一方で、
これなら自分の気持ちには気付かれないだろうという、安心感もあった。
「使用人たちにも夫婦らしい姿を見せておきたいから、昼食と晩餐は一緒にしよう。
尤も、私は仕事で、明日から二週間程度、館を空ける事になるんだが…」
「二週間も!?」
思わず声にしてしまい、わたしは慌てて手で口を覆った。
「ああ、不安にさせてすまないね。
親戚もまだ結婚を知らないし、訪ねて来る者もいないだろう。
君は好きに過ごしてくれていいよ、私が居ない方が羽を伸ばせるだろう」
レオナールがニヤリと笑う。
羽を伸ばせるだなんて…寂しいだけです。
わたしは返答に困り、「承知致しました」と頷いた。
「レオナール、妹に手紙を書いても構わないでしょうか?
妹はわたしがトラバース卿の館に居ると思っていますので、連絡先を知らせておきたくて…
結婚の事は書きません」
ただ、連絡先だけは教えておきたかった。
アンリエットが連絡を取りたいと思うかもしれない。
「妹はルグラン卿の妾になったと聞いたが…」
「はい、ルグラン卿が妹を見初めて…」
わたしは震え、ナイフとフォークを置き、手を膝の上に隠した。
「心配だね、手紙で様子を聞いてみなさい、私が助けになろう」
「ですが、これ以上、ご迷惑を掛けては…」
「構わないよ、君も気掛かりだろう、それに幸い、私にはその力がある」
「ああ、ありがとうございます!感謝します!」
思わず声を上げてしまったが、気にならなかった。
アンリエットを救い出せるのだ!
気が急いたが、レオナールがやんわりと止めた。
「そう慌てるものじゃないよ、まずは食事を楽しみなさい」
◇◇
「妹への手紙です、よろしくお願いします」
翌朝、わたしは、館を立つレオナールに、妹への手紙を託した。
宛先は詳しくは分からなかった為、ルグラン卿の館にしている。
その為、ルグラン卿に読まれても良い様に、わたしの居場所を教え、
現在の状況と、手紙の宛先を訊いただけに止まった。
「ああ、預かるよ。
昨日言った通り、私は暫く留守にするが、
困った事があれば、執事もメイド長も居るからね、気負わずにやりなさい」
レオナールは優しく微笑み、館を出て行った。
彼は優しく、思い遣りがある。
だけど、キスもせずに行ってしまったわ…
レオナールは覚えているのだろうか?自分が再婚したばかりの《夫》だという事を___
わたしは彼の馬車が見えなくなるまで見送り、小さく嘆息すると、館に戻った。
翌日、昼前だった。
突然、大きな荷馬車がやって来た。
何事かと行ってみると、数名の男たちが、何やら布に包まれた物を館に運び入れている。
執事のセバスは承知していた様で、その場を取り仕切り、指示を出していた。
「セバス、この方々は?」
「はい、旦那様が計画されていた事です、奥様はお呼びするまでお部屋でお待ち下さい」
「皆さんに、お茶とお菓子を用意させましょうか」
「私がメイド長に伝えておきましょう」
「お願いします」
わたしは言われるままに部屋に戻り、刺繍を始めた。
伯爵夫人としての仕事は聞いておらず、わたしには刺繍位しか思いつかなかったのだ。
下女として働いていたので、床磨きや食器洗い、洗濯、料理の下拵え、繕い物…等々、
出来る事はあったが、どれも伯爵夫人としては相応しく無いものだ。
暫くして、リリーが呼びに来た。
「奥様、パーラーへ来て頂けますか?」
リリーは何処かうれしそうだ。
わたしは「はい」と、刺繍を止めた。
「何かしら?」
「ふふ、直ぐに分かります!」
秘密にして、驚かせたい様だ。
わたしは深くは聞かない事にして、リリーを従え、パーラーへ向かった。
パーラーの前ではセバスが待ち受けていた。
「奥様、どうぞ」
促され、パーラーへ入ったわたしは、直ぐにそれに気付いた。
「まぁ!」
部屋の改装でも始めるのかと思っていたが、違っていた。
パーラーに置かれていたのは、白く大きなピアノだった。
思わず目を見張り、感嘆の声を上げるのも無理は無いだろう。
「ピアノだわ!」
「旦那様から奥様への贈り物です」
セバスににこやかに言われ、わたしは息を飲んだ。
「なんて素敵な贈り物なの!」
感激したのだが、その一瞬後に、『それはあり得ない』と打ち消した。
わたしは三年間だけの妻だ。
それも、契約上の形だけの妻。
そんな者に、贈り物などする筈が無い。
レオナールは、ただ、ピアノを置きたかっただけだろう。
きっと、レオナールはそれっぽく思わせる為に《贈り物》と言ったのだ。
「奥様、楽譜も届いております。
旦那様は奥様に『自由に弾いて欲しい』と言われておりました」
セバスから楽譜の束を渡された。
レオナールがわたしにピアノを弾かせたがっているのは、本当なのだろう。
何故、レオナールは、わたしがピアノを弾く事を知っているのだろう?
その時、ふっと、トラバース卿の夜会を思い出した。
わたしがルイーズに無理矢理ピアノを弾かされた時、
あの場にはレオナールも居た。
体調が悪い様だったけど…
あの後、彼は、わたしをじっと見つめていたわ…
「わたしのピアノを、気に入って下さったのかしら…」
胸に温かいものが溢れた。
ああ、そうだといい…
他に誇れるものなど、わたしには無いのだから。
「奥様のピアノを聴かせて貰ってよろしいですか?」
リリーが遠慮がちに言い、わたしは我に返った。
「ええ、好きに聴いていって、リリーはどんな曲が好きなの?」
「曲なんて!あたしは全然知らないから…」
リリーはピアノに触った事が無いのだろう。
わたしはピアノに向かい、ピカピカと美しい鍵盤の蓋を開いた。
そして、椅子に座る。
「それなら、この曲はどうかしら?
恋人たちの曲よ、春のワルツなの…」
指を鍵盤に乗せると、わたしは全てを忘れ、曲の中に入り込んでいた。
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