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前日譚

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ラウルはその日、怪我の処置を任され、何人か診察も行った。
ヴィクトルは聞かれた事には答え、時々、助言をする事もあったが、
指示を出したりはせず、ラウルのする事にも口を出す事はなかった。
ラウルの働きに満足している様子だった。

仕事終わりにヴィクトルに聞かれた。

「バギーは乗れるのか?」
「はい」
「自転車か車じゃないのか?」
「自転車も車も、必要があれば運転します」
「ふん、いいだろう、合格だ」

何が《合格》なのか?
ラウルは気に留めていなかったが、それこそが、ヴィクトルにとって大事な事だったのだ。

「ラウル、おまえに、俺の診療所を任せたい」

「は?」

ラウルは流石に声を漏らしていた。

「冗談を…」
「何故、おまえ相手に冗談を言わなきゃならん」

馬鹿馬鹿しい___

『話にならない』と、ラウルは頭を振った。

「残念ですが、僕には仕事があります、研究を辞めるつもりはありません」
「研究所には他にも人はいるだろう、だが、この町には、おまえしかいない」
「小さな町に医師が来ないという事情は分かりますが、それこそ僕で無くても良いでしょう、
僕は田舎には住めません」
「食わず嫌いだな、住んでみれば気に入るかもしれんぞ」
「僕は今の生活を気に入っているんです、それを投げ出す事は何があろうと、無い事です」
「気に入ってるだと?ならば聞くが、最近、いつ、笑った?」
「笑う必要があれば、笑います、必要が無いだけだ」

ラウルは口を結び、曲げた。
ラウルにも自覚はあった。
日々の生活の中で、笑う事など、一つも無く、自分が如何に味気なく生きているか…

「いいや、笑う事は生きる上で必要な事だ、自分を幸せにし、周囲も幸せにする。
しかも、体にも良い、長生きの秘訣だと論文を書いている者もいる。
ラウル、自分を見つめ返してみろ、おまえは幸せか?おまえの周囲は幸せか?
このままでは、おまえは俺の年まで生きられんぞ!」

「それでは、生きる上で笑いなど必要では無い、笑わずとも幸せだという論文を書きますよ。
そして、あなたの年まで生きてみせます」

売り言葉に買い言葉だ。
ラウルは、いつも冷静な自分らしくなくムキになっている事に気付いたが、
止められなかった。

「独りでか?」

「独りが楽ですから」

出来るだけ、波風の立たない場所にいたい。
子供時代の疎外感や居心地の悪さに、ラウルは安定や落ち着ける場所を求める傾向にある。
だが、ヴィクトルはそれを真っ向から否定した。

「いいや、そうじゃない、独りが楽だというのは錯覚だ。
人付き合いを避けていると、脳が働かなくなるぞ、十歳は老けて見える。
おまえは28歳だろう、勿体ない生き方をするな、もっと人生を楽しめ!」

人生を楽しめ___その続きが、ラウルには聞こえる気がした。
おまえは、ミシェルの命を奪い、生まれて来たのだから___と。

生きるべきは、母であり、自分では無かった。

胸に黒いものが渦巻き、ラウルは口を噤んだ。
その後は二人とも一言も言葉を交わさずに、馬車に乗りバーナード家へ帰った。
馬車から降りてから、ヴィクトルが一言だけ言った。

「時間はある、ゆっくり考えろ」

幾ら考えた所で、結果は変わらない。
そう言おうとしたが、それを察したのか、ヴィクトルはさっさと扉を開け、家に入ってしまった。
ラウルは嘆息し、ヴィクトルの後に続いた。


◇◇


『ラウル、おまえに、俺の診療所を任せたい』

ヴィクトルは本気なのか、ラウルに仕事を押し付ける様になった。
ラウルは求められる仕事はしたが、この町に残る気はサラサラ無かった。
ヴィクトルをどう諦めさせるかは難問だったが、休暇が終わり、町を出れば
追っては来ないだろうと考えた。
田舎が好きな若い医師を、誰かに紹介して貰うか…
だが、ラウルにそんな相手は思い当たらなかった。
皮肉にも、田舎住みのヴィクトルの方が余程人付き合いをしていた。
研究所に後輩の息子が居る位だ、「自分で探すだろう」とラウルは問題に蓋をした。

ラウルは往診や訪問診療を任される様になった。
老年のヴィクトルを外に行かせるのは負担が大きい。
ヴィクトルの移動手段は馬車なので、費用も掛かる。
その点、ラウルに与えられたのは、古い自転車だった。

ラウルは自転車に乗り、訪ねて周った。
外に出れば独りになれるので、診療所に居るよりは気が楽だった。





その夜、ラウルが寝支度をしていた時だ、窓の外に灯りが見え、目を止めた。
それは二人乗りの馬車、バギーの灯りだった。
バーナード家の敷地に入り、玄関に向かうのに気付き、ラウルは部屋を出た。

玄関が叩かれるのと同時に、ラウルはその扉を開けた。

「ああ、遅くにすみません、牧師館のレイモンです、ヴィクトル先生に来て頂きたくて…
娘が高熱を出し、いつもと様子が違うんです…」

「直ぐに用意します」

ラウルは短く答えると引き返し、ヴィクトルの部屋の扉を叩いた。

「牧師館の娘が高熱を出し、診て欲しいそうです、いつもと様子が違うと言っています」
「ラウル、おまえが行ってくれ、俺は足を悪くしている、足手纏いになる」

部屋に出て来たヴィクトルは、カメリアに支えられていた。

「本当なのよ、昼間はまだ動けますけどね、朝と夜はこわばりが酷くなるの」
「おまえで手が余るなら、俺を呼びに来させろ、動ける様にしておく」
「その必要はありません、僕も医師です、あなたは安静にしておいて下さい」
「すまないな、ラウル」

ヴィクトルは牧師館の娘の事を教えてくれた。

シャーリー=デュボア。
彼女は普通の子と変わりなく育ったが、二年程前から目立って体が弱くなり、
寒い日や雨に濡れると熱を出す様になった。その為、学校は休学している。
今年に入ってからは、熱を出すと長引く様になり、痩せて体力も落ち、
少し動いただけでも息が切れるという。

ラウルは聞いた事の無い症状に、困惑した。

「それは…大きな病院で、検査を受けた方が良いのでは無いですか?」
「ああ…兎に角、今は行ってやってくれ」
「はい、分かりました」

ラウルはヴィクトルの指示を受け、用意をすると、牧師に事情を話し、
牧師の乗って来たバギーに一緒に乗り込み、牧師館へ向かった。


牧師館に着くと、夫人が走り出て来た。

「あなた!先生は!?」
「こちらだ、ヴィクトル先生の孫のラウル先生だ!」
「ああ、先生!来て下さって感謝します、どうか娘をお助け下さい!」
「落ち着いて下さい、直ぐに診ましょう」

ラウルは夫人に付き、足早に玄関を通り、奥の部屋へと向かった。

部屋に入ると、小さなテーブルに置かれたランプの灯りが、
こじんまりとした部屋をほのかに浮かび上がらせていた。
荒い息遣いがし、ラウルはベッドに向かった。

「ごめんなさい…」
「たすけて…」
「たすけて…!」
「誰か!!」

悪夢を見ているのか、シャーリーは酷く怯え、魘されている。
細い腕が空に伸ばされたのを見て、ラウルはその手を握っていた。
熱い___

「お願い…わたしは…どうなってもいいの…」

少女の切な気な表情に、ラウルは思わず応えていた。

「大丈夫だ、僕が付いている、安心しなさい」

声が届いたとはとても思えなかったが、彼女の熱くか細い手は、
必死にラウルの手を握り返した。
驚く事に、その顔には、微笑が浮かんだ。

「お願い…妖精…」

妖精?
妖精の夢を見ているのか?
少女らしい、何とも想像力豊かな夢だ。
ラウルは小さく笑い、しっかりと手を握った後、脈を診てから、寝具の中に戻してやった。

悪夢は終わったらしい、呼吸は荒く、苦し気ではあるが、寝言は止んでいた。

「熱はいつからですか?」
「数日前からです、寒い日があって、それで体調を崩したんです…
今日の夕方から酷く熱が上がって、苦しみ出したので…」
「解熱剤を注射しましょう」

ラウルは診療鞄を開け、注射器を取り出すと、細く白い腕に注射した。

「暫く様子を見ましょう、熱が下がれば問題は無さそうですが…
ヴィクトル先生から症状を聞きましたが、
一度、大きな病院で検査をして貰ってはいかがですか?」

夫人の顔は強張った。

「必要ありません!ヴィクトル先生にも分からないんですから、
シャーリーは病気なんかじゃありません!変な事をおっしゃらないで!」

夫人は神経過敏になり、ヒステリックに言い放った。
それに、まるで悪魔を見る様な目で、ラウルを見ている。
ラウルは一旦折れる事にし、頷いた。

「それでは、このまま朝まで様子を診ましょう、泊めて頂いてもよろしいでしょうか?」





翌朝、牧師館から戻ったラウルを迎えたのはカメリアだった。

「ラウル、ご苦労でしたね、着替えをして、寝た方が良いかしら?
それとも、何か食べる?パンとスープ、コーヒー、目玉焼きも直ぐに作れますよ」

彼女の自然な様子から、ヴィクトルが呼び出された時には、
いつもこうして迎えているのだと分かった。

「有難うございます、朝食は後で頂きます、先にヴィクトルと話して来ます」

ラウルは答えるとヴィクトルの部屋へ向かった。

ラウルはシャーリーの病状や処置を話した。
ヴィクトルは頷きながら聞いていた。

「検査を勧めましたが、夫人に断られました」
「そうだろうな、皆、嫌がるものだ…」
「ですが、何の病気か分かれば、手の打ち様もあるのではないですか?」
「おまえはどう診た?」

聞かれたラウルは黙り込んだ。
ややあって、「分かりません」と頭を振った。

「少し痩せている位で、特に気になる症状は見えませんでした。
熱の方も高熱ではありましたが、解熱剤で下がりましたし、問題がある様には思えません。
ですが、虚弱体質というには違和感があります…」

「そうだ、俺もそう診た、検査をしても何も分からないのでは無いかと思う。
体質だと言われて終わるかもしれん」

「それでも、何か見つかるかもしれません!」

ラウルは『検査をするべき』と主張したが、ヴィクトルは頭を振った。

「ラウル、この町の者は、一部の裕福層を除き、病に金を掛けたりはしない。
それに、古い土地だ、先進的な治療を嫌う風潮がある。
シャーリーは牧師館の娘だ、神の教えでは贅沢は罪だとされる。
両親共々、これも神の試練だと受け入れるだろうよ。
俺たちは精々、少しでも良くする事を提案するだけだ。
食事をし、運動し、良く眠れとな」

ラウルは愕然とした。
そんな風に考えた事は無かった。
ラウルが相手にしてきたのは、いつも裕福層の者たちだったからだ。
人それぞれ事情があるなど、思いもしなかった。

「それで、良いのですか?」

ラウルは思わず言っていた。
ヴィクトルは頷く。

「価値観は人に寄って違う、自分の持つ知識や考えが、必ずしも正しいとは言えん。
本人の意思を尊重しなければならん。そうでなければ、お互いに軋轢が生まれるものだ。
有難迷惑な事は、おまえにも経験があるだろう?」

ヴィクトルがニヤリと笑い、ラウルは僅かに苦い顔をした。

「ラウル、必要なのは《説得》ではなく、《納得》だ、心からそう思わせなければ、人は動かんよ」

それが、ヴィクトルが患者相手に親しく言葉を交わしている理由だろうか?
ラウルの頭にその姿が浮かんだ。

「分かりました」と、ラウルは嘆息し、頷いた。

「やはり、僕には、ここの医師は向いていません」

これまで、人と関わる事を避けてきた。
人の事を考え、心に寄り添う事など、自分に出来るとは考え難い。
そんな事に労力を割く位なら、毎日徹夜で研究をしている方が楽だ。
だが…

「ですが、この状況は見過ごせない、一刻も早く、後継の医師を見つけて下さい。
それまでは、僕が引き受けます」

ヴィクトルの顔が明るさを見せた。

「そうか、ありがとう、ラウル!」
「あくまで、後継の医師が見つかるまでの間ですよ?」
「勿論だ、分かっている、研究室には俺が言ってやろう」
「幾つか条件があります」
「ああ、何でも言ってくれ!」

ヴィクトルがラウルの肩に手を回し、部屋の外へ促した。

「僕は診療所に住みます、二階の部屋が空いているでしょう?」
「ああ、だが、週末には家に帰って来い、家族で過ごすんだ」
「週末は論文を書きたいので遠慮します」
「だったら、晩飯だけでもいい、食いに来い」
「いいでしょう。僕は車を使います、その方が往診に便利なので」
「構わんが、この町で車を持っている家は、数える程だぞ?」
「気にしませんよ、それから、あなたも診療を続けて下さい」

ラウルが言うと、ヴィクトルは足を止めた。

「独りでは不安か?」

「この町の人は、あなたを尊敬し、信頼している。
診療所には、あなたを求めて来るんです。
ヴィクトル、あなたの存在は、一種の薬とも言えるでしょう」

「…成程な、良い事を言う、流石、論文を書く先生だ」

ヴィクトルが笑う。
ラウルも自然と口元が綻んだ。

「笑ったな?」
「いいえ、気の所為でしょう」
「まぁ、いい、ここに居れば、その内笑える様になるさ」
「必要ありません」
「いいや、必要だ」

言い合いながら食堂に入って来た二人を見て、
集まっていたカメリアとマチュー、ロラ、アレクシは目を丸くした。

「仲良くなったんだね!二人共」

アレクシの無邪気な声に、ヴィクトルとラウルはキョトンとし、顔を見合わせた。
二人の表情はそっくりで、バーナード家の食堂に笑いが広がった。


《完》
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