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しおりを挟む無情にも朝はやって来る…
その朝、目が覚めてから、わたしはずっと感情を押し殺していた。
自分が持つ中で、一番高価なドレスに着替え、着飾った。
そして、頭の上から薄い布を被る。
泣き腫らした顔を、家族に見られない為だ。
「まぁ!お姉様、素敵ですわ!きっと、伯爵様に気に入られますわ!」
ルイーズが殊更に明るい声を上げた。
だが、今のわたしには、その後にナイフが見えた。
「アリス、おまえなら大丈夫だ、伯爵に気に入られるんだぞ!」
「アリス、良かったわね!どうなるかと心配したのよ…」
「ああ、良かった!伯爵夫人はアリスの方が似合っておる!」
「あら!私に失礼よ!私なら伯爵といわず、公爵夫人にもなれますわ!」
「ルイーズの相手はフィリップだぞ」
「ええ、でも、家にばかりはいられないわ!私、レディーズメイドになるのは諦めてないの!」
楽しそうな家族の会話に、わたしは耳を塞ぎ、迎えに来た馬車に向かった。
伯爵が手配した馬車は、大きく立派で…周囲の家の者が覗きに来る程だった。
それを見て、両親はまた幸せを噛みしめた。
「ああ、良かった!アリスは幸せ者だ!」
「ええ、本当に、あなたは恵まれているわ!」
「本当ね!私が代わりたい位だわ!」
わたしはその声を無視し、馬車に乗った。
馬車が走り出し、館の門を出て、わたしは詰めていた息を吐いた。
感情が蘇り、もう、残っていないと思っていた涙が零れた。
馬車は町を出て、山道を走り、幾つか町を通り抜けた。
そして、湖の側を走り…辿り着いた。
大きな門を潜り、美しい前庭をゆっくりと走り、荘厳に聳える館の前で、馬車は停まった。
馬車から降りると、老執事が迎えてくれた。
「アリス=フォーレ男爵令嬢様、どうぞ、旦那様がお待ちです」
わたし自身、失礼な態度を取っていると分かっていたが、無言で、薄い布を被ったまま、館に入った。
通されたパーラーへ足を踏み入れる。
実家の館とは規模が違い、広く豪華で美しい…だが、そのどれにも、心は動かない。
グエナエル=ミュラー伯爵は、ソファに座っていたが、立ち上がった。
この時になり、わたしの感覚は戻ってきた。
目の前の、この男が、わたしの夫になるのだと___!
わたしは急に緊張と恐れに襲われ、息を飲んだ。
だが、無情にも、彼は命令した。
「グエナエルだ、布を取りなさい」
わたしが布を掴み、震えていると、彼はわたしの方へ近付き、
布に手を掛け、わたしからそれを剥ぎ取った。
「!!」
彼は立派な大人だった。
厳しい表情、引き結んだ口元が、厳格な学園の教師を彷彿とさせる。
だが、その灰色の目は、わたしを見て驚きの色を浮かべた。
わたしが泣き腫らした顔をしていたからだろうか?
あまりの醜さに、結婚を申し込んだ事を後悔したのだろうか?
そんな事を考え、わたしは笑い出したくなった。
いや、実際、わたしは笑ってしまっていた___
「あは、は…あははは…!」
そして、泣いた。
「う…う、うぇ……」
「可哀想に…」
彼はわたしを優しく抱擁した。
父親の様に…
温かく、広い、安心感に包まれ、わたしは声を上げ泣いていた。
「飲みなさい」
紅茶を出され、わたしはソファに座り、美しく繊細なティーカップに口を付けた。
紅茶は温かく、体に染み込んでいく。
わたしは「ほう…」と息を吐いた。
彼はわたしの向かいに座り、白い猫を膝に乗せ、撫でながら言葉を継いだ。
「好きなだけ、悲しむといい、君にはそれだけの時間がある」
不思議な事を言う。
わたしは漸く回り出した頭で、訝しげに思い、彼を覗き見た。
整えられた黒髪に、灰色の瞳、端正な顔立ちで、
思っていたよりも老けてはいなかったが…教師の様な難しい表情をしている。
それ程怖い人でも無いのに、どうして、こんな顔をしているのだろう?
笑ったりしないのだろうか?
好きなだけ悲しめだなんて…皮肉かしら?一瞬そんな風に思ってしまったが、
先程の抱擁から受けた印象では、そんな意地の悪い人には思えなかった。
わたしはそれを飲み込み、聞いた。
「…時間があるというのは、どういう意味でしょうか、伯爵」
「今から教会へ行き、結婚の契約を結ぶが、これは【白い結婚】だ」
突然の事に、頭が追い付かない。
今から教会に行き、結婚する!?そんな、急に!?
だけど、それは、【白い結婚】…?
【白い結婚】は、性交渉をしない、紙面上、契約だけの結婚という事だ。
手続きを踏めば、結婚自体を無効にする事が出来る。
だが、それを前もって伝えてくるなんて…
「それなら…あなたは、何故、結婚を申し込まれたのですか?
わたしがルイーズでは無いからですか?
ルイーズとは違い、魅力に乏しく、醜い女だったから…
わたしでは愛せないと…?」
再び涙が浮かび、零れた。
ルイーズに言われた事や、フィリップの言葉を思い出してしまった。
胸が締めつけられ、涙が止まらない。
「わたしは、愛する価値もない女だと…!」
「違う、聞きなさい、アリス___」
彼の厳とした声は教師のそれで、
反射的にわたしはビクリとし、涙は止まっていた。
「アリス、君は愛される価値のある女性だ。
君は僕の亡き妻、フェリシアによく似ている…」
猫を撫でる手が一瞬、ぎこちなく止まる。
猫が催促する様に「ニャー」と可愛い声を上げ、彼は再び優しい手付きで撫でた。
「君に傍にいて欲しいが、
結婚もしていない若い女性を側に置く訳にはいかない」
それで、結婚を?
わたしは茫然となった。
「そんな事で結婚を!?
その為に、あなたは、わたしの結婚を台無しにしたというの!?」
わたしの輝いていた未来を奪ったものが、ただの、金持ちの道楽だったなんて!
「酷いわ!返してよ!わたしの…全てを元に戻して!返して!!」
わたしが泣き喚くのを、彼は止めなかった。
わたしは散々に泣き喚き、とうとう、そんな気力も無くなった。
気付くと、ベッドに運ばれていた。
翌日、メイドに白い衣装に着替えさせられ、教会に連れて行かれた。
伯爵だというのに、小さな教会で、司教と修道女以外に人はおらず、
形式だけの式と、署名を済ませた。
なんて、素っ気無い結婚式だろう…
だが、これが白い結婚なら、相応しいといえる。
誰にも愛されず、わたしはこのまま、この男の側で老いるのだ…
わたしは帰りの馬車で、自分の惨めさを憐れみ、涙を零した。
わたしは彼への反抗から、自室に籠った。
『亡き妻に似ている自分に側にいて欲しい』という彼の望みに反抗したのだ。
彼と顔を合わせ無い様、食事は全て部屋に運ばせ、一日中部屋で塞ぎ込んでいた。
だが、彼も使用人たちも、何も言って来なかった。
嫌な顔一つせずに、わたしの好きにさせた。
そして、お茶の時間には、いつもケーキを出してくれた。
それはどれも華やかで可愛らしく、そして柔らかく甘く…夢の様なケーキだった。
引き籠っている自分が、これ程豪華なケーキを食べている、
その事に変な違和感があり、居た堪れない気持ちになり…
結果、わたしの方が三日で根を上げてしまった。
「伯爵は、お忙しいでしょうか…」
使用人に聞き、わたしは彼に会わせて貰う事にした。
この数日の非礼を謝る為だ。
「旦那様、アリス様がお見えです」
彼は書斎で机に向かっていた。
わたしが部屋に入ると手を止め、顔を上げた。
「どうした、何かあったか?」
怪訝な顔に、鋭い目で見られ、わたしは唖然とした。
これではまるで、塞いでいる方が当然だといっているみたいだ。
わたしは内心の驚きと戸惑いを抑え、非礼を詫びた。
「伯爵、これまで失礼な態度を取ってしまい、申し訳ありませんでした…」
「気にする事はない、君の立場では当然だろう」
「ですが、わたしは、あなたに酷い事を言ってしまいました…」
あれは、八つ当たりだった。
彼がルイーズに結婚を申し込むよりも前から、
フィリップとルイーズはわたしを裏切っていたのだから。
もし、あのままフィリップと結婚していたら…
フィリップはわたしに隠れ、ルイーズとの関係を続けただろうか?
そして、わたしは今の様に捨てられたのだろうか…
それとも、結婚式の直前で、
彼は『こんな事は出来無い、誠実ではない!』と目を覚ましたのだろうか?
考えると、今はその方が怖かった。
だが、伯爵はわたしを責めたりはしなかった。
それ処か、全ての非は自分にあると___
「そんな事は無い、僕が自分の望みの為に、君の人生を壊してしまった事は確かだ。
君は若く美しく、愛されるべき女性だ、アリス。
君の悲しみが癒えた時、僕が君に相応しい相手をみつけると、約束しよう___」
彼はまた奇妙な事を言う。
最初からわたしを手放す気でいて、その為の【白い結婚】だというのか?
わたしは顔を顰めずにはいられなかった。
「それでは…あなたは、一体何の為に、結婚をされたのですか?」
亡き妻の代わりに、わたしを側に置く為では無かったの?
これでは、わたしを気に入らなかったとしか思えないわ…
惨めな気持ちでいると、彼は頭を振った。
「君に傍にいて欲しい、だが、ずっと、という訳にはいかない。
君は若い、君には幸せになって貰いたい…
恐らく僕は、妻に似ている君を、幸せにしたいのだろう…」
彼の言う事は、酷くあやふやだ。
彼はもしかしたら、自分が何をしたいのか、分かっていないのかもしれない。
それ程、妻を亡くした悲しみが大きいのだろうか?
その時初めて、わたしの胸に、彼への温かい気持ちが芽生えた。
「伯爵は、奥様を深く愛しておいでなのですね…」
亡くなった今も…
それで、彼女に似ているわたしを見過ごせないのだ。
「ああ、彼女は僕の全てだった…フェリシア…」
苦し気に絞り出される声に、わたしは『それ』を思い出した。
「一月程前でしょうか…町で、知らぬ名で呼び止められました…」
フェリシア___
「あれは、伯爵、あなたではありませんか?」
彼は息を吐き、「そうだ」と頷いた。
それでは、もしや…
わたしの中にある仮説が生まれた。
伯爵はあの後、亡き妻に似ているわたしの事が気になり、調べたのでは?
婚約者が不貞を働いていると知り、相手であるルイーズに結婚を申し込み、
二人を引き離そうとした…
そうよ!亡き妻を愛している伯爵が、ルイーズに結婚を申し込む理由なんて、
他には考えられないわ!
だが、二人は本気で愛し合っていた為、結果的に、わたしの方が捨てられてしまった…
亡き妻に似ているわたしが不幸になるのを見過ごせず、引き取り、
わたしに悪評が付かない様に、結婚を急ぎ、
時期をみて、見合った相手を紹介しようと…
その為の、【白い結婚】___?
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