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第二部
第七十九話――愛おしさ
しおりを挟む勝負は互角だった。
翼を羽ばたき、空を駆けるエデン。それに追い縋るオルケノアは翼も無いまま浮遊し、大鎌を振るう。終界で初めて目を覚ました時とは印象が違う。それの理由は明白で、こざっぱりとした髪型だ。地面を引きずる程に長く伸びたうねるような薄紫の髪の毛。それが今は、ただの人間の子供みたいな髪型に整えられている。
そういえば彼は、何の気まぐれか一年と少しをこの施設で人間として暮らしていたという。神格様の考えることはやっぱり理解が及ばない。そもそも、ルルティア様の封印していた上級天使の軍勢を無理矢理支配して奪い取り、それに気付いた姉であり、俺のお母さんを殺そうだなんて考える奴は、例え人も天使も死神も、理解出来ることなんて無い。やはりこいつは、殺さなくてはならない。そうすれば、放任野郎のアステオにわざわざ告げ口に行く手間も省けるってもんだ。
「そうだよなァ、オルケノア!」
「何言ってるのかわからないヨ、ディラン」
心の中で湧き上がるのは積み重ねた憎しみだ。支配から抜け出し、ようやく復讐を遂げる日が来たのだ。
エデンはオルケノアの変則的な身のこなしを槍で捉え切れず、またオルケノアもエデンの槍と翼を用いた器用な立ち回りに決定打を得られずにいた。それでも、それはまさしく神々に連なる者達の戦いで、その余波は凄まじい。既に彼らの直下にあったはずの西館は原型を留めておらず、周囲に広がる草原や森さえ、草地は穿たれ根は絶たれ、平らな土地に変わり始めていた。
「勝手につけられた名前なんざ反吐がでらぁ! 今までどーどー名乗ってたのが信じらんねー! 俺の名はエデン! お母さんに貰った、さいっこーの名前だ!」
「……へェ」
手元で槍を回して見せて、構えを取るエデン。隙の無いそれに見上げるオルケノアは距離を詰められずにいる。次の攻撃を算段を整えるエデンだったが、オルケノアは一つ溜息を吐いて、鎌を投げ飛ばした。
「なんのマネだこの野郎」
一直線に飛ぶ大鎌を弾くことは容易だった。がきん、と甲高い音を立てて大鎌は森のどこぞへ沈んだ。見降ろす先の少年は、未だ無表情でエデンを見ていた。不気味な奴だ。そんな印象だけがエデンの胸中に焼け付く。
夕焼けが二人を照らし始めた。エデンの影が少年に掛かる。
少年の背後で眩い太陽と、少年の背後から迫る夜が、まるで二人の対立そのものだった。
「何、黙りこくってやがる」
こんな時、何かが起こる。そんな予感がした。
「いやサ、希望って奴は無いもんだナ、って思っただケ――」
「は――」
はあ? 訳がわかんねえ。
言葉にする暇さえ無く、エデンは地上で四肢を投げだしていた。
「は……ァア?」
何が起きた? 叩きつけられた?
理解が追いつかず、咄嗟に開いた目を空へ向けた。夜と夕の境目に暗い少年は浮いている。彼の右手は先端が光に包まれていた。あれだ。あれで単純に叩きつけたんだ。訳が分からないくらいの速度で叩かれた。
エデンを中心に出来た小さなクレーターと、ぶら下がるみたいに破壊されたエデンの顎が、その威力を物語っている。
顎が光に包まれ修復が終わると同時、オルケノアの手にはまた、大鎌が握られていた。
「まだ本気出してねぇってか……本当にくそ野郎だな」
「終わらせよウ。もう、駄目そうダ」
おそらく、次が最後の一撃になる。そんな予感がまた、エデンの胸中を満たしている。
「すぅ……」
息を吸い込み、深く腰を落としたエデン。目を凝らして、オルケノアを見据える。差し向けた槍が決してぶれぬよう、意識を研ぎ澄ませる。それを退屈そうに待つオルケノア。
「もういい?」
「――」
沈黙を肯定と受け取ったオルケノアも、いよいよ、修復の終わった右手で鎌を掲げる。そして、エデンに向けて体重が傾いた瞬間。――エデンは全速力で翼をはためかせ、爆発的に飛んだ。だというのに。
「君はまだ遅いんだネ」
耳元で鳴る声。目指す先にもう少年の姿は無い。
「うううううあああああああ!」
中空。
気合で急停止。
振り返り様、振り抜く槍。
躱される。
紙一重。
見上げる。
掲げた大鎌。
「じゃあネ」
終幕の声音――。
「――は?」
突如、弾かれるように飛んだその少年。それに組み付くのは、翼を生やした天使。
「アリス!?」
正面を横切った影は、少年を攫って森の方へと落ちていった。一秒、唖然としていると、エデン! と呼ぶ声に地上を見る。クィルナ・ミティナ。
「早くこっち!」
おーい、といった様子で手を振る彼女を発見し、即座に降り立つ。
「何やってんだお前ら! 殺されちまうぞあれ!」
「そうなんないように早くペテロアのとこ行ったげなさいよ! あんたが行かなきゃ意味が無いってアリスさんが言ってたの!」
「ああ……くそ!」
もう少しで、あいつを殺せたというのに。
本当は足元にも及んでいなかったことを知りつつ心に吐いてしまう悪態だった。
「きゃあ!」
「急ぐから捕まってろ!」
クィルナを肩に担いだエデンは、ふわりと跳んで本館二階へ飛び込む。そこは西館の病室から見えた廊下。確かにその姿を見た場所。
「――お母さん!」
いた。見つけた。やっと見つけた。
「目ぇ覚ませよ、なあ!」
横たわる“それ”に駆け寄ったエデン。抱え上げ、訴えかける。
そんな様子を見るクィルナは、どうしていいかわからなかった。でも何かしなくちゃ、と思った。だから声を掛けた。
「ねえ、エデン……」
「ああ!? 今かまってらんねえんだよ!」
「そうじゃなくて。そうじゃ、ないでしょうが」
「お母さん、なあ、こっち向けよ」
「だってあんた、それ……その人――お腹の下、無いじゃん!」
「うるっせえんだよ馬鹿野郎! 神格だぞ!? こんな程度がなんだってんだよああ!?」
「光んないじゃん! その人光んないじゃん!」
「うる、うるせっええええええええ!!」
こんなことやってる場合じゃないとは分かっているけど、こんなことしか出来ない私達だった。エデンの持ち上げたのはペテロアの上半身で、壁際に横たえているのが下半身だ。それを理解しようとしないエデンだから、言い合いになるしか無かった。実際、それ以外に出来ることなんて無かったように思う。だってここからどこに行ったって、世界のどこにも希望は在り得なかったから。
やがて時が来ることはもちろんわかっていた。本館の二階を端から端まで伸びるこの廊下。私達と少し離れた向こうの方に、窓を突き破ってリンディーが飛び込んできた。その手には光に包まれるも意識の無いアリスさん。こっちを見ると彼は、アリスさんをごろんと廊下に寝かせて、こちらへ歩き出した。
「もう何も無イ? 希望は無イ? 終わりでいイ?」
ぎしぎしと鳴る音が、いつもより鮮明に聞こえた。
「なんで、こんなことになっちまう」
ペテロアを抱えるエデンは槍を投げた。廊下を直線に飛ぶそれはオルケノアを致命的に破壊し得る速度だった。それも、大鎌で容易に弾かれ、歩みになんら影響を与えない。
「クィルナ、お母さん任せた」
「……え」
エデンは立ち上がると、背後のクィルナにペテロアの体躯を預けた。訳も分からず受け取るクィルナは、あんたはどうするの、と尋ねる。
「人間って、死んだら祈るんだろ。輪廻の向こうでいい場所に行けるようにって」
答えになっちゃいなかった。槍を構築して、強く握りしめていた。
「もし生き残れたらさ、お母さんを頼むよクィルナ。世界中見渡せるようなとこに」
「勝手なこと、言わないでよ」
逃げろ、なんてことさえ言わなかったのは、世界のどこに逃げたってしょうがないことを二人ともわかっていたからだった。
背中を向けるエデンの表情が窺えない。手を伸ばしても、もう振り返ってはくれないのだろう。ようやく遂げられた約束の先が、こんな結末だというのか。
オルケノアが大鎌を頭上に持ち上げた。
エデンが深く腰を落とした。
「うああああああああ!!」
エデンが声を張り上げた。
ぎし、ぎし、ぎし。
オルケノアが尚も歩いている。
――エデンが翼を強くはためかせた。――その瞬間。
「――」
――辺りを包み込んだのは、やわらかな鼻歌だった。
「これハ……」
オルケノアの呟きが零れた。途端、彼は大鎌をエデンに投げつけた。それをエデンは難なく弾き飛ばす。
「う、アアアアアアア!」
オルケノアが声を張り上げ、走り出した。
殺したと思ったのに。ちゃんと胴体を切って、魂を破壊したはずなのに、どうしてまだ、声が聞こえる?
――ぎっぎっぎっ。
殺さなきゃ。急いで殺さなきゃ。
――ぎっぎっぎっぎっ。
すぐにでも殺さなきゃ。あの命を奪わなきゃ。
――ぎっぎっぎっぎっぎっぎっぎっ――すっ。
あれ?
オルケノアの感じた浮遊感。床の消失。いや、無抵抗に等しい力で抜けたのだ。誰かの張った、巧妙な罠によって。
あと一歩。
あと一歩踏み込めば、オルケノアは床を蹴り、エデンの背後へ一息に飛び込むという発想が浮かんだはずだった。
「ペテロ――」
足元が沈むオルケノアの視界。深く構えるエデン。その背後で立ち尽くすクィルナ。彼女に抱えられるペテロア。その目が、確かに自身を見据えた。目が合った。
――激しい暴虐だった。オルケノアは消失した。誰もが瞬くことすら叶わない刹那、千々に引き裂かれた体躯が世界に散らばった。それを行った少女も、たった少しの時間稼ぎにしかならないことはわかっていた。それでも、そのたった少しの為に、最後のチカラを振り絞った。
少女が立っていた。傷だらけで、やわらかな笑みを湛え、収斂する灰の瞳にエデンを映す少女。眩い光輪と六翼が、その存在をことさら際立たせる。
「――エデン!」
「――」
ペテロアはエデンを強く抱き締めた。己の半身である存在を、ようやく取り戻す抱擁だ。だが、エデンにとってそれはまだ実感の得られぬ真実で、所在無さげな手のひらがそれを抱き留めてよいものかと迷う。
「おかあ、さん……」
この人を。
自分の母親を、どうやって抱き締めていいのかわからなかった。実際、かつてペテロアと過ごした記憶は未だに実感の得られない記憶だった。“お母さん”と言う呼び方も、未だ他人である過去のエデンを真似しているだけで、今の自分がどう彼女と向き合えばいいのかわからない。無遠慮に、無限大に、眼前の少女から溢れる愛というものを受け取ることしか出来ないでいた。どうすれば、これほどまで他人を強く、優しく抱き締めることが出来るのか。
愛おしさって何なのか。
「おれ、は……」
己の中で広がる煩悶に短な抱擁が過ぎて行く。愛の受け取り方を知らない自分が悔しくて涙が流れてしまう。そんな彼の背中を見つめるクィルナもまた、それに長い時間は無いことを感じていた。こちらを見つめるペテロアの表情が、あまりに生者の色とかけ離れていたから。
灰の瞳は収斂を繰り返し、吸い込まれそうなほど綺麗だった。睫毛をひとつしばたたかせると、よりエデンの首筋に頬を寄せ、唇を薄く開く。
「んもう、エデンは仕方の無い子です。ずるっこですけど、時間もありませんからね」
ペテロアはエデンの頬に手を添え、その瞳を覗き込んだ。
「――」
収斂する瞳に吸い込まれる意識だった。
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