りんねに帰る

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第二部

第六十九話――愛してるって

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「なんだよ……なんだってんだよおおお!! アリスさんあんた、天使だったのかよ!!」

 目の前、大柄の青年、ユウ・トウミ。その足取りも、腕の振るい方も、ひそめた眉間も、全てが彼の怒りを体現していた。走り出す。振り上げた拳は、こちらに淀みなく向かう。

「ユウ、あなたは死んだ筈ではなかったのですか!」

 数日前、確かにユウ・トウミは死んだ筈だった。死体だって、この目で確認し、葬った。

 彼の拳は、こちらの言葉で緩むことなど無く、一直線に、その巨体を振るって打ち下ろされる。

 剥がれる地面。舞い上がる土塊。とても人間の為せる技には思えない。彼は空振った拳を地面から引き抜き、またこちらへその形相を向ける。

「やっぱ、翼は厄介だな」

「ユウ、ワタクシの話を……!」

「聞くものか。僕はこうして生きている。そして君らの敵。それだけが事実だ」

 ユウは耳を傾ける気が微塵も無かった。

 身を屈め、次の瞬間爆ぜたそこにユウの姿は無い。圧倒的な筋肉の為した跳躍だ。

 こちらとて身構えてはいた。彼の姿が見えなくなった瞬間、羽ばたいた。しかしその時、既に視界を覆うのは特大の拳。鈍い音の後、地面に横たわる自分を認識した。

「天使に拳は通用しない。でも当たる。十分だ。比翼隊に選ばれなかった程度なら、今の僕でも落とせる」

「うぐ……離してください!」

 ユウの重みが体を地面に押さえつける。いくら手足を振り回しても、地に伏せる状態で有効な打撃は与えられず、翼での殴打さえ彼には小蠅に等しいようだった。片手で翼を払った彼はこちらの頭を地面に押さえつけて言う。

「あんたも、もしかしたら知ってるのかな。カガラの居場所」

「カガラさん……なつかしい、名ですわね」

「早いとこ答えたら? 天使ってさ、死なないって言っても痛みと恐怖は感じるよね。ほら――」

「う、あ……」

 彼は頭を押さえつける手を顔の方へやった。咄嗟に瞑った瞼の上に置かれた指。それがまるで、水面でも撫でるように、皮膚一枚を隔てた眼球に沿って滑り出す。

「いくらでも潰せるよ」

 胸の鼓動が早まっていた。アリス・ソラフとしてユウ・トウミと過ごしてきた日々の中で、これほど無慈悲な彼を見たことが無かった。いや、天使として過ごした頃でさえ、彼は優しい天使だったのに。

 何がここまで、彼を変えてしまったのだろう。

 悔しかった。言われるがまま、示されるがまま、使命に従事してきた。その結果がこれだと言うのなら、あんまりだ。

 強く瞑った瞼の隙間から、涙がこぼれた。彼の指を濡らしているだろう。

 情けない。とても情けない。自分は大事な時に、またしても。

 助けて、なんて言葉を言いたく無かった。そんなことではどこまでも救いようの無い自分になってしまう気がしたから。しかし零れる言葉は、そんな想いの欠片であった。

「ルシア……」

 初めて出来た友人の名前。何度か喧嘩もしたけれど、何度も仲直りした親友だ。

「カルラぁ……!」

 初めて出来た人間の友人。いくつもの死線を乗り越えた戦友だ。

「はあ……、ほんっとうにみっともない天使だ」

 呆れた声色で彼はつまらなそうに言った。そうして宛がう指を少しずつ押し込む。
 焦燥。激烈な衝動が体を暴れまわっている。耳を塞ぎたくなる音が、自分の内で鳴っている。
 
「うぁ……また、あいたいよ……」

 やはりみっともない自分だ。本当に自分が嫌になった。だって結局、堪え切れずに言ってしまうのだから。その名前を。

「たすけて……タルファ――」

「早く質問の答えをさぁ……」

 再生のチカラが、顔を段々と覆い始めた。その時だ。

「がっ……!」

 大きな衝撃と共に、背中に掛かっていた重みが消失した。

 身を起こし、気配のする方を見た。

「そう何度も、同じ攻撃食らうかよおおお!」

 それは、地面が抉れる程の勢いを踏ん張って抑え込むユウ。そして、その胸元で翼をばさとはたき、更なる加速をする天使。

「……タルファ!」

 まるで呼び掛けに応えるようにして現れた彼は、勢いそのままに声を飛ばす。

「追撃だ!」

 その言葉に、アリスは瞬時に応えた。全力で羽ばたき、出来る限りの速度をもって、ユウの巨体へ飛び込む。

「ぐ、あああああああ!!」

 それにユウは雄たけびを上げて耐えるも、結局は束の間で、彼の体は地を離れ、支えを無くしてとんでもない速度で物置小屋に突っ込んだ。

 豪快な音と共に小屋は崩壊し、その下からユウが這い出て来る様子は無かった。

 息を上げ、崩れた小屋を見ていると、隣の気配を思い出し、振り向く。

「来てくれましたのね、タル……な、その、体は」

 その姿は、記憶の中のタルファとは違った。天使としての、ましてや人の形すら為していない。

「ああ、いや、これは、少しばかり、ミスを、だな……」

「タルファ!」

 言いながら崩れ落ちるタルファ。そりゃそうだ。

 捥がれた翼。半ば落とされた手足。背中から腹を掛けて貫く光の槍。

「そんな、どうして……何があったのですか」

 彼の体は、こうして会話出来ているのが不思議な程欠けていた。それなのに、震える腕で、ワタクシの頬に触れた。

「怪我は、無いか」

「ある訳がないでしょう。それより、あなた……」

「ああ、魂の損傷が激しい。もうダメみたいだ。予定が……狂ったな」

 消え入りそうな声だった。目の焦点が定まらないみたいに、どこかを見つめている。

「待って、待ってください。ワタクシ、やっとあなたに会えましたのよ。こんな、ここまで来てお終いだなんて、あんまりです」

「仕方の……無いことだ。君に後を託す。僕の代わりに見届けて欲しい。世界の行く末を」

 頬を撫でる手が滑り落ちようとした。彼が行ってしまう。やっと、再開を果たした彼が、消えてしまう。そうならないよう願って、その手を握った。横たわる体を抱き寄せた。

「だめ、だめですタルファ。ワタクシ、まだまだあなたの助けが必要で……!」

 目を見ても、彼の意識の所在は判然とせず、人形みたいなその口元が動き出すことを、胸を突く杭みたいな鼓動と共に待っていた。

 唇は静かに動き出す。

「……最後に、神格様に倣い、人間みたいなことを、言ってみようと思う」

「……なんですの?」

 聞き逃さまいと顔を寄せると、呼吸のひとつひとつさえか細く震える弱さだった。

「この……感情の正体について、長く考えていたことがある。ルルティア様やペテロア様でさえ……身を投げ打ったほど確かなチカラを持っている。しかし、それに触れれば触れるだけ、その正体は掴めず、曖昧で、不合理だ」

 彼の顔が少し、こちらへ向いたような気がした。

 彼の手が少し、こちらを握り返したような気がした。

「だから、その曖昧さをいいことに……この感情を、その名前で呼んでみたいと思うんだ……。ちゃんと、聞いてくれているか」

「聞いていますわ。聞き逃すことなんて、あるものですか」

 彼の頬を撫でた。それに安心したように、彼は和らいだ表情で言う。

「天使の学校で、君をバディに誘ったのは、僕だったな」

「はい。あなたのおかしなお誘いに、ワタクシ、ワクワクしましたの」

「人間の学問について君に教え込んだのは、僕だったな」

「ええ、忘れませんわ。人間の哲学者様の尊大な考えに胸を打たれましたもの」

「君が中級に覚醒した時、見届けたのは僕だったな」

「その通りです。ワタクシは、あなたがいてくれたからやり遂げましたもの」

「聞いてくれと、僕が発見を逐一伝えたのは、君だけだったな」

「そう……でしたのね。そのおかげで、苦労もありましたが、日々をとっても楽しめましたわ」

 彼が語るのは天界での日々だ。二人の日々だ。腕の中で身をよじろうともしない彼は今、あの日々にいるのだろうか。その掠れた双眸は今、あの日々を眺めているのだろうか。

「……」

「タルファ」

 手を強く握る。それにああ、と言って、寝ぼけていたかのような声を上げ、彼はまた唇を震わせる。

「隣に、いたいと思った。同じ気持ちでいたいと、思った。そうあれたことが、とても嬉しかった。あの日、光の門で君と分かたれた時、初めて孤独に押し潰されそうになった」

「ワタクシだって、そうでしたわ」

 今思えば懐かしい日の記憶だ。あれからもう、千年の月日が経つというのだから。

「だから、聞いてくれ」

「はい」

「ずっと、ずっとそうだった。きっと……いや、確かに――」

 その言葉の先を、予感は出来ていた。だからだろう。彼の体をより強く抱き締めた。

「僕は、君を愛してる。――パトラ」

「ワタクシも、愛していますわよ。タルファ」

 愛している、というのは、人間が大切な者に向けて使う言葉らしい。その解釈は多岐に渡る、という話も昔、彼から聞いたものだ。ただその話を聞いた時、こんな質問を返した覚えがある。

『“愛してる”って、具体的には何をするんですの?』

『わからない。しかし、その言葉と併用して用いられる人間の行動があってだな……』

『なんですの?』

『……しまった。忘れてしまったようだ』

『嘘おっしゃいよ……』

 結局、それがなんなのかを聞き出すことは叶わなかった。しかし、今ならわかる。“愛してる”と一緒に、どうすればいいのか。

 タルファの頬に手を添える。仄かに、笑んでくれているような気がした。

 まだ、見えているだろうか。

 まだ、感じてくれているだろうか。

 ――彼に口づけた。

 “愛してる”って、きっとこうやるんですわね、タルファ。

 緩む口元が、応えることは無かった。


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