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第二部
第六十六話――蒼天
しおりを挟むエデンに向けた想いを、ディランに受け取れるはずがない。そんなこと分かっていた。だけど、ようやく、ようやく会えたんだ。ペテロアにはそれが嬉しくて堪らない。本当はどうすればよかったのだろう。どうやったら、もっと幸せだったろう。この再開を、誰の気持ちも傷付けないで出来ただろう。それは無理だ。だってペテロアだ。天界の神格ペテロアで、エデンの母親ペテロアなのだから、その溢れんばかりの想いを、この運命を捻じ曲げることなんて出来なかった。視続けたそれを、視届けたこれまでを、まっすぐまっすぐ届けることしか出来なかった。取り戻した記憶はずっと、そんな想いが満ちていた。絶望を押し退ける淡い光がそれだった。エデンがディランであったとしても、ディランはエデンなんだから。ペテロアの目には瞳には、そんな真実しか、映るはずが無かったのだから。
襲い来る彼らは、大きな鳥のように悠然と飛んでいる。本当はそんなこと無いのだろうけど、光と違わぬペテロアでは、それほどに緩慢な世界だった。その手に握る槍がこちらへ向けて突き出される。それに光輪を引っ掛けて遊んでやれる程退屈な速度で、退屈な動きで、彼らはその肉体と光の力を全身全霊に振るっていた。上級と言えど原初と言えど、所詮は天使。神格と天使の差が埋まるなんてある筈も無かった。エデンを逃そうとしたあの日は本当にタイミングが悪かったのだ。神アステオの元まで行く為、神格に等しい存在を生み出した。その代償に力の弱ったあの時だったから、堕とされた。完全の今なら、こんなにも退屈な彼らだった。ペテロアにはこの戦場の全てが止まって見えた。
みなさん、のんびりやさんですね。
それはペテロアの口から零れた退屈の感慨であったが、それが音になることは無かった。音さえも置き去りの彼女では、言葉が音になり得ない。
数十の天使がタルファを囲んでいた。タルファに動く気はあるのかと思うほど、緩慢な天使の矛先がタルファの体を、魂を捉えようとしていた。それを叩いたり蹴ったりしながら、彼女がディランを連れ戻すのを待つ。ああ、退屈だ。退屈だ。この色すら褪せた世界が見るに堪えない。だけどあの闇の中ほどじゃない。あの闇は虚無一色で、色濃い絶望だけの生まれる世界だったから。そんな空虚で膨れ上がったこの気持ちがペテロアの全てだった。
ああ、早く早く、エデンに会いたいな。エデンとしての記憶を持ったあの子に。エデンとしての自我を持ったあの子に。あの日、守り切れなかった彼に――
ペテロアは全てを視ている。背後から迫り来る天使の槍も、側面から薙がれる黒の大鎌も、それを握り締める弟の表情に差し込む色も、理知的な少年の肌を転がる汗の煌めきも、気を失った彼女を抱える大柄の青年の面持ちも、危険な棍棒に全幅の信頼を寄せる狂人も、暗がりで蹲る少年の頼り無げな眉尻も、深い森で熊を食らう旅人とそれに苦笑いをする男女も、長髪な少年の手を握り立ち尽くす少女の眼鏡に反射するのどかな風景も、全なる父の後を追う輪廻の使いらも、見降ろす太陽と追い縋る月さえも、全てが在ると知っている。知っていたはずだった。
――おや。
その存在は、全てを内包する視界の中心でふいに現れた。
天使のいたずらを、弟のじゃれつきを、何でも無く翻った先の、本当に何でもない宙空。そのあぶなっかしい足元で、膝も震わす臆病で、それでも深く心配げな瞳で、その二人は立っていた。ペテロアを見て、親愛の込められた呼び名を口にした。
「――ペロちゃん?」
漏れ出た“言葉”が“音”になる。
「あ、ポルマ」
それがたった一つのミス足り得た。
「はイ。おわりだヨ」
「ぅえ?」
音に追い越されたペテロア。それは天使に、弟に、槍に、大鎌に追い越された証明だった。
背中から胸を貫いた光の槍。腹を裂いた影の鎌。そんな私を行儀悪く蹴飛ばす弟の足。
緩慢で色褪せた世界が、絵の具の洗い桶をひっくり返したみたくあざやかに染まった。
それでもなお、その思考を彩るは淡い水色髪の天使。深い群青の巨翼。
無限に思えた絶望揺蕩う闇の底で、引き剥がした数々の記憶の扉で、しかし一度として目を向けられなかった扉がふいに開いた。
どうして忘れていたのだろう。どうして思い出せずにいたのだろう。世界を見渡し、魂を辿るこの権能でさえ、どうしてこの二人は、かの存在は、私を欺くことが――。
仰ぐ蒼天に、揺蕩う意識が遠のいた。
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