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第二部
第六十五話――窓辺
しおりを挟む長く伸びる廊下でぎいぎいと、木造の悲鳴にも似た鳴き声が荒い呼吸と共に響いていた。しかしそれよりも重く、鈍い音の鳴る庭が、流れゆく窓から横目に見えていた。地に叩きつけられる天使達。その衝撃で四肢のひしゃげた者、胴の潰れた者、翼の捥げた者、また木々の枝に貫かれる者まで、一様に再起不能の重症を負っているように見える。しかし彼らは天使だ。その傷口から漏れ出す筈の血は全く見られず、それに代わる光の奔流がみるみると、毀れた体を構成していった。そうして立ち上がった天使達は無感情にまた翼を広げ、その手に神々しく輝く槍を出現させて飛び立つ。そんな、人界の神話にすら語られぬ天使達の奇跡を目にしてもなお、アリスの胸中を埋めるものは別にあった。
「はあ、はあ、ディラン、一体どこに行ってしまいましたの……!」
外で一つ目の鈍い音が響いたのは、アリスが支援院の本館を回って西棟に入った頃のことだ。それはペテロアとタルファが上級天使達との戦闘を開始した合図でもあった。戦う力を持たないアリスに与えられた使命はただ一つ、ディランを連れ戻すこと。というのも、オルケノアの襲撃が知らされた折、ペテロアはこう語った。
『さて、オルケノアや上級天使を倒す為にはディランの死神の力が必須です。大鎌を扱えるのは彼だけですし、魂の存在である神格や天使を殺せるのは大鎌だけですからね。アリス、頼みました!』
それについてはアリス自身も承知していたし、だからこそディランが窓を突き破って逃げ出した時はどうしたものかと思ったが、やはりこういうしわ寄せは自分に来るのだなと、これまでの経験も踏まえて自分の性分というものに納得をした。実際、ペテロアのように上級天使を数十も相手取りながらオルケノアを躱し続けるなんて文字通りの神業も、タルファのように光輪を振り回して戦うことさえも成し得ない自分では、結局ディランを探すことになるのだからやるせない。
さらに走り回っていて思い出したのはポロロッカのことだ。ポロロッカは厨房にいたはずだった。確認はできていないけど、そこはペテロアが本館を断裂させた際の被害を受けたはずの場所だ。確認に行かなければ、と西棟の窓から叩き落される天使達の奥に本館を見た時だった。
その窓辺に姿を現したのは、光輪が燦然と輝く、神格ペテロアの姿。権能を行使する彼女の瞳はあまりに鮮やかで、その言葉さえ疑うことをさせないほどだった。
「老人は無事です。あなたの使命を全うなさい」
そんな言葉を置き去って、本当に目にも留まらぬ速さでまた上空へと飛び立った。そうして直後、数体の天使達が嫌な音を響かせた。それの音にはっとしてアリスはまた走り出した。アリスはこの時ようやく、あのペテロアという少女が、本当に天界の神格ペテロアであるのだと認識を出来た。これまでは、本館を一瞬で破壊した猛威を忘れたわけではないが、それ以外だと本当に溌剌とした普通の少女に見えるものだったから。しかし今、アリスにとって心配事が一つ消えたのも確かだった。ペテロアの目は世界を見渡す。それが自分の懸念すら見通し、否定したのだから、ポロロッカはきっと無事なのだとアリスは信じた。そしてやはり、彼女の言う通りにディランを見つけ出さなければならないのだと、理解した。
しかし、しかしだ。ディランの気配がまるでしない。彼は、言ってしまうとうるさい。粗暴な態度や癇癪を起こす様はまさに子供のようで、時たま見せる憎たらしい顔は人間の成長過程における反抗期を彷彿とさせる。そんな子供が、これほど探して見つけられないことなんて、アリスの経験上一度も無かった。いたずらのようなかくれんぼをよく仕掛けてくるレリィナを見つけられなかったことも、悪さをした子供達の隠蔽を見破れなかったことも、院に訪れる中年の男性にお色気を披露しようとするカティを止められなかったことだって、アリス・ソラフには経験が無い。だからきっと今回のかくれんぼだって、相手はあの落ち着きの無いディランなのだから大丈夫だろうと高を括っていた。それがどうしたことか。西棟の隅々を探し回り、厩舎を覗いて、半ば崩壊したままの本館に戻ってなお、ディランの姿も気配も見つからない。
きっとペテロアにも天使達を抑え込んでおける限界はある。かつてペテロアが堕とされたのと同じか、それ以上に状況は悪いはずだから。そしてやはり、ここでも心懸かりなのはポロロッカのこと。ペテロアが無事と言ったが、これだけディランを探す間、一度も見られないポロロッカは果たしてどこに……。
心配事が増えるばかりだった。心配して、心配して、幾万を抱えながら歩いてきたアリス。
果て無き慈愛の最中辿り着いたこの場所で、ようやく見えた光に手を伸ばしてさえ零れ落ちようとするものたちを、ワタクシはどうして拾い尽くせぬのでしょうか――
「あぁカルラ、ワタクシは、またしても……」
天使の降る窓辺で、アリスは胸に手を組んで祈る。そうして目を瞑ろうとした時だ。その耳朶を打ったのは、とても耳馴染みのある声だった。
「――アリスさん」
背後からそんな声がした。
アリスはゆっくりと、まるで信じがたい真実を覗くかのように振り返る。その間、ある思考が頭の中を一色に染めていた。あるはずが無い。だってあるはずが無いのだ。その声がもう、この世界でするはずが無い。なぜなら、彼の死体が燃え盛る炎に焼かれ、灰になるのを見届けたから。だのに、なぜ――
振り返った先の彼は、いつもと変わらぬ穏やかな目で、穏やかな声で、こう言った。
「ごめんなさい」
直後、頭部を鈍重な痛みが襲った。
部屋の明かりがふっと消える様に、視界が闇に染まるのだった。
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