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第二部
第六十二話――食卓
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そこは楽しげな食卓だった。
大皿に乗せられたパイは、程よく火に通された証の黄金色の輝きを放っている。それから漂う薫りも然る事乍ら、そこに芳醇な味わいを感じさせる果物の風味が乗り、至高のハーモニーを奏でていた。一方向からなだらかに流れ込み吹き溜まる風が、その薫りを半開放的な空間の中で掻き混ぜ、その場に満遍なく行き渡らせる。
響くのは金属類のかち合う音と、少女の小気味良いはなうただ。それに乗せられた機嫌はすこぶるいいようで、両の手に握ったナイフとフォークをはなうたのリズム隊として踊らせている。
長机には五名の人物。少女は、長机の短辺にあたる一人分の席に座っていた。
少女は目の前のパイに夢中だ。仄かな桃色の唇を押し除けるようにして出させた舌を、口の端から端まで走らせた。いよいよその期待感は全身を満たしてしまったようで、少女の足までもがはなうたの踊り子に加わった。それを支える椅子さえも、ぎぃぎぃと音を立て、可笑しなパーカッションへと成り代わる。
いよいよ、その時がやって来た。少なくとも少女にとってはそんな想いに満ち溢れていたはずだ。少女はフォークをパイに差し込んだ。その感触は肉厚で、切先から伝わるのはその果実の、焼かれて尚保とうとする無数の結合を切り裂き分断する心地よい抵抗。その感覚の先は、未知であった。さくと、究極に薄く脆い氷の積層にその手を差し込み破壊するが如き快感。少女にとってその感覚は、永きを過ごしてさえ一度として感じ得なかったものだ。未知との遭遇という感慨は少女のはなうたに如実に現れた。これまでの旋律を外れ駆け上がる様はまさに有頂天で、揺らされていた足すらピンと伸びたほど。
遂にフォークはその先端を進め切った。カチという音が小さく鳴った。すると少女は周囲を見渡した。その場にいる者を一人、また一人と、パイと交互に見やる。全員分のそれをやり終えると、フォークとは別の手に握ったナイフを握りしめ、パイの中心地へと向かわせた。
ナイフはフォークに比べ、驚くほど何の抵抗も無く底に辿り着き、カチりと音を立てて報せた。報せを受けるのはもちろん操舵手の少女。そこからさらに少女の飛ばした指示に従い、ナイフはその大地を裂いて走った。その裂け目から立ち上る蒸気はこれまた至高の薫りを乗せている。ナイフは進む。緩やかに生み出される曲線は少女の絶技か神の悪戯か。そんなことを気に掛ける様子も無く、少女がナイフへ飛ばす指令は『進め』の二文字。
ナイフはやがて大地の果てへ辿り着く。ナイフとフォークの協力は成功を遂げた。しかしその喜びも束の間、少女は再度の出発を御所望だ。そうして彼らは少女の意のまま気の向くまま、パイを切り裂くことに従事した。
その間、ナイフの滑る音だけが鳴っていた。さすがの少女も生まれて初めての大仕事。はなうたと共に臨むことは無く、これまでに無いほどの真剣な面持ちで挑んだ。それは少女の権能すらも使うほど。しかしその役目も無事終えた。再開されたはなうたと一緒に、少女は立ち上がる。やり遂げたといった表情で、その足取りもはなうたに乗って軽やかだ。
少女は切り分けたパイを、六つの小皿に一つ一つと乗せて行く。それらにはどれも同じ大きさのものはなく、ひどく不揃いだ。パイは七つに切り分けられていた。少女は再び彼らを見渡した。
二番目に大きなパイを、自分の前に置いた。
三番目に大きなパイを、自分と同じ位の少女の前に置いた。
四番目に大きなパイを、一番物静かな少女の前に置いた。
五番目に大きなパイを、理知的な少年の前に置いた。
六番目に大きなパイを、理知的な少年の隣の空席に置いた。
七番目に大きなパイを、自分と同じ位の少女の隣の空席に置いた。
最後に少女は、一番大きなパイが乗ったままの大皿をそのまま持ち上げた。そして行儀悪く座る黒いローブの少年の前に置いた。少女は少年の背けた顔を覗き込んでニコリと微笑むと、また席に戻る。
そこでようやくはなうたを切り上げた少女は、胸の前で手を握り合わせ、俯いて目を瞑った。
そして、口を開く。
「――我ら咎に生きる使徒。開闢より贖いを道とし、後悔を草鞋とし、罪の轍を歩む使徒。今一度、この身を罪で満たしますことを、尊大なる御心でお咎め下さい……合ってますかね?」
今や片側しかない壁の窓が、かたと風に揺られ音を立てた。少女の上げた表情は優しい愛の笑み。
「さあ、戴きましょう! 食べてみたかったのですよ、林檎のパイ!」
楽しげな食卓だった。
少女にとって、これほど楽しい食卓も無かっただろう。
少女にとって、これほど幸せな食卓も無かっただろう。
しかし彼らは笑わない。
しかし彼らは喋らない。
彼らは少女の気持ちを何一つ理解できない。
彼らはこの食卓に楽しさも幸福も感じられない。
それでもそこは、楽しげな食卓だった。
楽しげな食卓で、少女一人が笑っていた。
誰の理解もいらない底で浮かべる笑みだった。
少女は天界の神格ペテロア。
誰の理解も届かない、孤独な少女だった。
孤独の食卓で、孤独の愛で、少女はただただ、――笑っていた。
* * *
クィルナは腹這いになりながらもそれを見ていた。
半分が崩壊した支援院の本館。その爆ぜ方は中からの圧倒的な力の爆発に思えた。クィルナは中で何かが起こっていると瞬時に確信した。そこに駆け付けようと身を捩るも、背にのし掛かるオルミの重圧を退けられない。
「どけオルミ! 何のつもりか知らないけど、これでアリスさんに何かあったらあんたを殺す! 絶対殺す!!」
クィルナがそう叫んで間も無く、暴風は止んだ。それと同時にオルミはクィルナへ問いを投げた。
「アリスってのは……お前の大切な人か?」
「たりまえでしょうが! 退け! 馬鹿!」
「そうか」と言ったオルミはクィルナの拘束を簡単に解いた。そしてすぐさま、木に寄り掛かるレリィナの元へ飛び寄り、クィルナに対して壁になるようにしている。
「……はあ? あんたほんと……ふざけないで!」
そんな行動にクィルナの怒りは止まらず。しかしオルミは言った。
「アリスを守るんだろ。急げ。あいつは何をするかわからない」
そう言われ、クィルナは怒りを飲み込むようにして叫んだ。叫びきった後、オルミの後ろで怯えるレリィナを一瞥して崩壊の現場へ走った。走る途中、一瞬、体のどこかに痛みが走ったように思った。それと同時に視界は暗闇に染まり、次に意識が戻った時、クィルナは椅子に座っていた。
状況が飲み込めなかった。
林檎のパイを前にして、はなうたを奏でる白金色の髪の毛の少女。
少女はその髪の毛を揺らし、林檎のパイを切り分けた。その手際は酷く下手くそだった。ナイフは全く真っ直ぐに走らず、均等な切り方というものを知らないみたい。それでも自信満々且つ楽しげに切り分ける。やがて切り終わった不揃いな七つのパイの内六つを、一つずつ小さな皿に乗せ、この場にいる面々に配った。この場にいるのは五人だった。しかし配られたのは七つ。残った二つの配られた席は空席だった。
少女はお誕生日席に座った。そして口にしたのは食前の祈り。
何も言えなかった。どうして何も言えなかったのかわからない。ただ、この場で自分が干渉することを許されていないように思えた。それはもしかしたら、目の前の三人も同じだったかもしれない。
すると少女は、自分の異様さに気付いてもいない様子だが、そんな禁忌など無いと言うように声を上げた。
「んぅう~~~! 絶品! これは史上類を見ない味わいですよ! ああ、ほっぺたが落ちるとはこのことですかぁぁあ!!」
体をよじらせ椅子を軋ませる少女は、言葉の通り本当にそう思い、感じているようだった。何度も満遍なくそれを味わおうと咀嚼を繰り返す。そして飲み込んだ後も少女はしばらく余韻に浸っていた。そして、また口を開く。
「……あれ、どうしました? みなさん食べないんですか?」
少女はこの場にいる者達を見ながら言った。
「アリス? もしかして私が食前の祈りを言ってしまったことにお怒りですか? 言いたかったのでしょうか?」
アリス・ソラフは口元に手を当て、正面のパイをただ見下ろしている。震わす瞳に堪える感情が、怒りなんて熱のある情でないことは誰が見てもわかることだった。
少女はそんなことに気付く素振りも無く、首を傾げて視線の先を変えた。
「タルファ? あなたもこういうものは初めてだと思いますが……食べず嫌いはいけませんよ?」
タルファもアリス同様、パイを見下ろしていた。しかしその感情は別なようで、腕を組む彼はその身の置かれる状況を酷く理性的な瞳で静かに見つめていた。
しかしいくら理性的であろうと、少女に対して返す言葉を彼は持っていなかった。少女はそんな様子を見て彼と同じように腕を組み「反応無しですか……」と退屈気にこぼした。視線の先をまた変える。
「ディランもパイは初めてでしたね。挑戦です! 男児たるもの怖じけていては女の子に振り向いてもらえませんよ!」
ディランは椅子の上にありながら胡座をかいて座っていた。長机の縁に肘を乗せ、またその上に顎を乗せる。そうして彼はパイを退屈げに睨め付けていた。声を掛ける少女に一瞥するが、それも即座にパイへ戻される。
そんな素っ気ない態度に少女はにこりと笑いかけた。そこに一切の不満は無く、タルファに向けたものとは全く違うようだった。そしてようやく、少女は自分と同じくらいの歳に見える少女に視線を差し向けた。そしてその眉を寄せた。
「ん~? おかしいですねえ。クィルナ。あなたは林檎のパイ、好きでしたよね?」
クィルナ・ミティナは呆然としていた。少女の言葉に気付いてすらいない。そんなクィルナに少女は「それとも」と続けた。
「やっぱり、まだ気になります? ――レリィナのことが」
それが耳朶を打った瞬間、クィルナは目を見開いた。混濁した思考が全て吹き飛んだ。その名によって。
「あんた、レリィナの何を知ってるの」
「おお、そうですかそうですか! レリィナのことが気になっていたのですね! それでは話しながら食べることにいたしましょう。心配なさらずとも、全部話して差し上げますとも。元はといえば私、それをしに来たのですからね!」
クィルナの反応に対して、少女は数倍の嬉しさを返した。それにクィルナは長机を叩きつけて立ち上がり言った。
「ふざけてんじゃないわよ! 何がどうなってんのかわかんないってのに、誰も彼も分かったふうなこと言って! この世界はほんっとうに……!」
「いやはや、かつては私も世界に振り回される哀れな存在でした……。しかしそれは勘違いに過ぎぬのです。世界はあるがまま、ですよクィルナ」
「何処まで馬鹿にすればあんたって奴は」
クィルナは少女に向けて踏み出しながら拳を上げた。それを前にして尚、少女の笑顔は一つの変化も生じなかった。そしてようやく、もう一人がそこに加わる。
「レリィナに何をして――「クィルナ、黙りなさい。彼女の……天輪丸の話を聞いていて」
「……アリスさん? なんで」
おそらく初めてだった。アリスが人に対して声を荒げたのは。いや、荒げると言うほど大きな声を出した訳ではなかった。しかしその語気に含まれる感情の荒ぶりは、血の上ったクィルナさえ言葉に従わせるだけの力があった。その語気のままアリスは続けた。またもクィルナの言葉を遮って。
「ほら、お食事中は座りなさい。行儀が悪いですわ」
この場にあって突き放すような言葉を放つアリスに、クィルナは何を返していいのかわからず、腰を下ろした。するとそれを見ていた少女はアリスの方へ向いて言葉を放つ。
「まあまあアリス、落ち着いてくださいよ。クィルナにとってレリィナは姉妹同然……。それを攫われた挙句にあのような状態で返しては怒るというのも当然の話ですからね」
自分達のこれまでをさも見てきたかのように語る少女が、クィルナには一切理解できなかった。それを庇い立てするように自分を叱るアリスのこともわからない。素知らぬ顔でパイを見つめるタルファも、気怠げに視線を動かすディランも。
少女は続けた。
「ふーむ。とは言っても、特別何かした訳ではないのですが、強いて言うならこれからすることを先にしたってだけですね。彼女に本当のことを教えてあげただけです。その後どうするかは彼女次第ですからね……」
本当のこと、というのが何を指しているのか。クィルナにはわかりもしなかった。そもそも、この少女が天輪丸だということさえ、先のアリスの叱責によって知ったのだ。しかしそれを指摘することすら、クィルナには考えつくこともできなかった。そんな思考が追い付く隙も与えず、待ちきれないように少女が話し始めるものだから。
「それよりです! パイを食べながら、ゆっくり、ゆっくり、ゆうっくりと……話をしましょう。まだまだ、時間はありますからね」
少女はパイをまた一口啄み、語り出した。
「――むかしむかし……そうですね、ここでいうと数百か数千年程も前の話になりますか。ふふ……ただの、兄弟喧嘩のお話なのですが」
懐かしむように。
愛おしむように。
大皿に乗せられたパイは、程よく火に通された証の黄金色の輝きを放っている。それから漂う薫りも然る事乍ら、そこに芳醇な味わいを感じさせる果物の風味が乗り、至高のハーモニーを奏でていた。一方向からなだらかに流れ込み吹き溜まる風が、その薫りを半開放的な空間の中で掻き混ぜ、その場に満遍なく行き渡らせる。
響くのは金属類のかち合う音と、少女の小気味良いはなうただ。それに乗せられた機嫌はすこぶるいいようで、両の手に握ったナイフとフォークをはなうたのリズム隊として踊らせている。
長机には五名の人物。少女は、長机の短辺にあたる一人分の席に座っていた。
少女は目の前のパイに夢中だ。仄かな桃色の唇を押し除けるようにして出させた舌を、口の端から端まで走らせた。いよいよその期待感は全身を満たしてしまったようで、少女の足までもがはなうたの踊り子に加わった。それを支える椅子さえも、ぎぃぎぃと音を立て、可笑しなパーカッションへと成り代わる。
いよいよ、その時がやって来た。少なくとも少女にとってはそんな想いに満ち溢れていたはずだ。少女はフォークをパイに差し込んだ。その感触は肉厚で、切先から伝わるのはその果実の、焼かれて尚保とうとする無数の結合を切り裂き分断する心地よい抵抗。その感覚の先は、未知であった。さくと、究極に薄く脆い氷の積層にその手を差し込み破壊するが如き快感。少女にとってその感覚は、永きを過ごしてさえ一度として感じ得なかったものだ。未知との遭遇という感慨は少女のはなうたに如実に現れた。これまでの旋律を外れ駆け上がる様はまさに有頂天で、揺らされていた足すらピンと伸びたほど。
遂にフォークはその先端を進め切った。カチという音が小さく鳴った。すると少女は周囲を見渡した。その場にいる者を一人、また一人と、パイと交互に見やる。全員分のそれをやり終えると、フォークとは別の手に握ったナイフを握りしめ、パイの中心地へと向かわせた。
ナイフはフォークに比べ、驚くほど何の抵抗も無く底に辿り着き、カチりと音を立てて報せた。報せを受けるのはもちろん操舵手の少女。そこからさらに少女の飛ばした指示に従い、ナイフはその大地を裂いて走った。その裂け目から立ち上る蒸気はこれまた至高の薫りを乗せている。ナイフは進む。緩やかに生み出される曲線は少女の絶技か神の悪戯か。そんなことを気に掛ける様子も無く、少女がナイフへ飛ばす指令は『進め』の二文字。
ナイフはやがて大地の果てへ辿り着く。ナイフとフォークの協力は成功を遂げた。しかしその喜びも束の間、少女は再度の出発を御所望だ。そうして彼らは少女の意のまま気の向くまま、パイを切り裂くことに従事した。
その間、ナイフの滑る音だけが鳴っていた。さすがの少女も生まれて初めての大仕事。はなうたと共に臨むことは無く、これまでに無いほどの真剣な面持ちで挑んだ。それは少女の権能すらも使うほど。しかしその役目も無事終えた。再開されたはなうたと一緒に、少女は立ち上がる。やり遂げたといった表情で、その足取りもはなうたに乗って軽やかだ。
少女は切り分けたパイを、六つの小皿に一つ一つと乗せて行く。それらにはどれも同じ大きさのものはなく、ひどく不揃いだ。パイは七つに切り分けられていた。少女は再び彼らを見渡した。
二番目に大きなパイを、自分の前に置いた。
三番目に大きなパイを、自分と同じ位の少女の前に置いた。
四番目に大きなパイを、一番物静かな少女の前に置いた。
五番目に大きなパイを、理知的な少年の前に置いた。
六番目に大きなパイを、理知的な少年の隣の空席に置いた。
七番目に大きなパイを、自分と同じ位の少女の隣の空席に置いた。
最後に少女は、一番大きなパイが乗ったままの大皿をそのまま持ち上げた。そして行儀悪く座る黒いローブの少年の前に置いた。少女は少年の背けた顔を覗き込んでニコリと微笑むと、また席に戻る。
そこでようやくはなうたを切り上げた少女は、胸の前で手を握り合わせ、俯いて目を瞑った。
そして、口を開く。
「――我ら咎に生きる使徒。開闢より贖いを道とし、後悔を草鞋とし、罪の轍を歩む使徒。今一度、この身を罪で満たしますことを、尊大なる御心でお咎め下さい……合ってますかね?」
今や片側しかない壁の窓が、かたと風に揺られ音を立てた。少女の上げた表情は優しい愛の笑み。
「さあ、戴きましょう! 食べてみたかったのですよ、林檎のパイ!」
楽しげな食卓だった。
少女にとって、これほど楽しい食卓も無かっただろう。
少女にとって、これほど幸せな食卓も無かっただろう。
しかし彼らは笑わない。
しかし彼らは喋らない。
彼らは少女の気持ちを何一つ理解できない。
彼らはこの食卓に楽しさも幸福も感じられない。
それでもそこは、楽しげな食卓だった。
楽しげな食卓で、少女一人が笑っていた。
誰の理解もいらない底で浮かべる笑みだった。
少女は天界の神格ペテロア。
誰の理解も届かない、孤独な少女だった。
孤独の食卓で、孤独の愛で、少女はただただ、――笑っていた。
* * *
クィルナは腹這いになりながらもそれを見ていた。
半分が崩壊した支援院の本館。その爆ぜ方は中からの圧倒的な力の爆発に思えた。クィルナは中で何かが起こっていると瞬時に確信した。そこに駆け付けようと身を捩るも、背にのし掛かるオルミの重圧を退けられない。
「どけオルミ! 何のつもりか知らないけど、これでアリスさんに何かあったらあんたを殺す! 絶対殺す!!」
クィルナがそう叫んで間も無く、暴風は止んだ。それと同時にオルミはクィルナへ問いを投げた。
「アリスってのは……お前の大切な人か?」
「たりまえでしょうが! 退け! 馬鹿!」
「そうか」と言ったオルミはクィルナの拘束を簡単に解いた。そしてすぐさま、木に寄り掛かるレリィナの元へ飛び寄り、クィルナに対して壁になるようにしている。
「……はあ? あんたほんと……ふざけないで!」
そんな行動にクィルナの怒りは止まらず。しかしオルミは言った。
「アリスを守るんだろ。急げ。あいつは何をするかわからない」
そう言われ、クィルナは怒りを飲み込むようにして叫んだ。叫びきった後、オルミの後ろで怯えるレリィナを一瞥して崩壊の現場へ走った。走る途中、一瞬、体のどこかに痛みが走ったように思った。それと同時に視界は暗闇に染まり、次に意識が戻った時、クィルナは椅子に座っていた。
状況が飲み込めなかった。
林檎のパイを前にして、はなうたを奏でる白金色の髪の毛の少女。
少女はその髪の毛を揺らし、林檎のパイを切り分けた。その手際は酷く下手くそだった。ナイフは全く真っ直ぐに走らず、均等な切り方というものを知らないみたい。それでも自信満々且つ楽しげに切り分ける。やがて切り終わった不揃いな七つのパイの内六つを、一つずつ小さな皿に乗せ、この場にいる面々に配った。この場にいるのは五人だった。しかし配られたのは七つ。残った二つの配られた席は空席だった。
少女はお誕生日席に座った。そして口にしたのは食前の祈り。
何も言えなかった。どうして何も言えなかったのかわからない。ただ、この場で自分が干渉することを許されていないように思えた。それはもしかしたら、目の前の三人も同じだったかもしれない。
すると少女は、自分の異様さに気付いてもいない様子だが、そんな禁忌など無いと言うように声を上げた。
「んぅう~~~! 絶品! これは史上類を見ない味わいですよ! ああ、ほっぺたが落ちるとはこのことですかぁぁあ!!」
体をよじらせ椅子を軋ませる少女は、言葉の通り本当にそう思い、感じているようだった。何度も満遍なくそれを味わおうと咀嚼を繰り返す。そして飲み込んだ後も少女はしばらく余韻に浸っていた。そして、また口を開く。
「……あれ、どうしました? みなさん食べないんですか?」
少女はこの場にいる者達を見ながら言った。
「アリス? もしかして私が食前の祈りを言ってしまったことにお怒りですか? 言いたかったのでしょうか?」
アリス・ソラフは口元に手を当て、正面のパイをただ見下ろしている。震わす瞳に堪える感情が、怒りなんて熱のある情でないことは誰が見てもわかることだった。
少女はそんなことに気付く素振りも無く、首を傾げて視線の先を変えた。
「タルファ? あなたもこういうものは初めてだと思いますが……食べず嫌いはいけませんよ?」
タルファもアリス同様、パイを見下ろしていた。しかしその感情は別なようで、腕を組む彼はその身の置かれる状況を酷く理性的な瞳で静かに見つめていた。
しかしいくら理性的であろうと、少女に対して返す言葉を彼は持っていなかった。少女はそんな様子を見て彼と同じように腕を組み「反応無しですか……」と退屈気にこぼした。視線の先をまた変える。
「ディランもパイは初めてでしたね。挑戦です! 男児たるもの怖じけていては女の子に振り向いてもらえませんよ!」
ディランは椅子の上にありながら胡座をかいて座っていた。長机の縁に肘を乗せ、またその上に顎を乗せる。そうして彼はパイを退屈げに睨め付けていた。声を掛ける少女に一瞥するが、それも即座にパイへ戻される。
そんな素っ気ない態度に少女はにこりと笑いかけた。そこに一切の不満は無く、タルファに向けたものとは全く違うようだった。そしてようやく、少女は自分と同じくらいの歳に見える少女に視線を差し向けた。そしてその眉を寄せた。
「ん~? おかしいですねえ。クィルナ。あなたは林檎のパイ、好きでしたよね?」
クィルナ・ミティナは呆然としていた。少女の言葉に気付いてすらいない。そんなクィルナに少女は「それとも」と続けた。
「やっぱり、まだ気になります? ――レリィナのことが」
それが耳朶を打った瞬間、クィルナは目を見開いた。混濁した思考が全て吹き飛んだ。その名によって。
「あんた、レリィナの何を知ってるの」
「おお、そうですかそうですか! レリィナのことが気になっていたのですね! それでは話しながら食べることにいたしましょう。心配なさらずとも、全部話して差し上げますとも。元はといえば私、それをしに来たのですからね!」
クィルナの反応に対して、少女は数倍の嬉しさを返した。それにクィルナは長机を叩きつけて立ち上がり言った。
「ふざけてんじゃないわよ! 何がどうなってんのかわかんないってのに、誰も彼も分かったふうなこと言って! この世界はほんっとうに……!」
「いやはや、かつては私も世界に振り回される哀れな存在でした……。しかしそれは勘違いに過ぎぬのです。世界はあるがまま、ですよクィルナ」
「何処まで馬鹿にすればあんたって奴は」
クィルナは少女に向けて踏み出しながら拳を上げた。それを前にして尚、少女の笑顔は一つの変化も生じなかった。そしてようやく、もう一人がそこに加わる。
「レリィナに何をして――「クィルナ、黙りなさい。彼女の……天輪丸の話を聞いていて」
「……アリスさん? なんで」
おそらく初めてだった。アリスが人に対して声を荒げたのは。いや、荒げると言うほど大きな声を出した訳ではなかった。しかしその語気に含まれる感情の荒ぶりは、血の上ったクィルナさえ言葉に従わせるだけの力があった。その語気のままアリスは続けた。またもクィルナの言葉を遮って。
「ほら、お食事中は座りなさい。行儀が悪いですわ」
この場にあって突き放すような言葉を放つアリスに、クィルナは何を返していいのかわからず、腰を下ろした。するとそれを見ていた少女はアリスの方へ向いて言葉を放つ。
「まあまあアリス、落ち着いてくださいよ。クィルナにとってレリィナは姉妹同然……。それを攫われた挙句にあのような状態で返しては怒るというのも当然の話ですからね」
自分達のこれまでをさも見てきたかのように語る少女が、クィルナには一切理解できなかった。それを庇い立てするように自分を叱るアリスのこともわからない。素知らぬ顔でパイを見つめるタルファも、気怠げに視線を動かすディランも。
少女は続けた。
「ふーむ。とは言っても、特別何かした訳ではないのですが、強いて言うならこれからすることを先にしたってだけですね。彼女に本当のことを教えてあげただけです。その後どうするかは彼女次第ですからね……」
本当のこと、というのが何を指しているのか。クィルナにはわかりもしなかった。そもそも、この少女が天輪丸だということさえ、先のアリスの叱責によって知ったのだ。しかしそれを指摘することすら、クィルナには考えつくこともできなかった。そんな思考が追い付く隙も与えず、待ちきれないように少女が話し始めるものだから。
「それよりです! パイを食べながら、ゆっくり、ゆっくり、ゆうっくりと……話をしましょう。まだまだ、時間はありますからね」
少女はパイをまた一口啄み、語り出した。
「――むかしむかし……そうですね、ここでいうと数百か数千年程も前の話になりますか。ふふ……ただの、兄弟喧嘩のお話なのですが」
懐かしむように。
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高校卒業後就職し、仕事に明け暮れる日々。
そんなある日、1人の弁護士が紅音の元を訪ねて来た。
要件は、紅音の母方の曾祖叔父が亡くなったと言うものだった。
曾祖叔父は若い頃に単身外国で会社を立ち上げ生涯独身を貫いき、血縁者が紅音だけだと知り、曾祖叔父の遺産を一部を紅音に譲ると遺言を遺した。
その額なんと、50億円。
あまりの巨額に驚くがなんとか手続きを終える事が出来たが、巨額な遺産の事を何処からか聞きつけ、金の無心に来る輩が次々に紅音の元を訪れ、疲弊した紅音は、誰も知らない土地で一人暮らしをすると決意。
だが、引っ越しを決めた直後、突然、異世界に召喚されてしまった。
だが、持っていた遺産はそのまま異世界でも使えたので、遺産を使って、スローライフを楽しむことにしました。
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