りんねに帰る

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第二部

第六十話――あんたも

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 厨房でかちゃかちゃと音を立てる老人。ポロロッカ・オージ。彼は郷愁にも似た感覚を覚えていた。

「ほーっほっほう、懐かしいのう。ここで食器を運ぶのも、数年振りといったところか。……にしてもこの辺りの床板、そろそろ貼り替え時かの」

 ポロロッカ・オージは、このアステオ聖教支援院が出来た頃、アリス・ソラフの面倒を見ていた。

 その出会いは息子である神父からの紹介だった。話によると、聖教会から、その者には無条件で便宜を図るよう言われたとか。

 神父は少しの間、やって来たアリスの世話をした。

 ある日、アリスは迷える人々を助けたいのだと言った。その為の要望は極めて慎ましいものだった。

『神父様。どうか子供の衣服と、食べ物を与えては下さりませんか。ワタクシ一人ではそれらを調えることも叶わぬようで』

 その数日後、アリスは神父の下に小さな子供を連れて来た。名はレリィナ・ミトラ。そしてアリスが次に望んだものがこれだった。

『神父様。ワタクシはもっと多くを救いたく。この街の外れで構いません。どうか一つ、土地と住居をいただけませんか」

 それから数ヶ月後、街の外れに建てられたのがアステオ聖教支援院だった。広い土地に幾つかの施設。アリスは小さな村とも言えるような場所を与えられた。最初の願いと比べてみればあまりに法外な望みであったが、それの成就は粛々と勧められた。それが出来る頃、そこで暮らすことになる子供はレリィナに加えて二人増えていた。

 勤めの合間に支援院の世話を焼くのもできないと判断した神父は、隠居していた父親のポロロッカに任せた。

 息子から話を聞いていた通り、アリス・ソラフという女性は先の一件を除いては多くを望まず、慎ましかった。全ての行動は、その支援院で暮らす子供達の為のもの。その為の家事の類もポロロッカに教え込まれた。子供の育て方。ご飯の作り方。掃除の仕方。不器用なアリスは物覚えがいい方では無かったが、それでもその努力を怠りはしなかった。

 しばらく経ち、アリスが家事を卒なくこなしはじめた頃、マイグリーという少女がやって来た。唯一の兄を失い、孤児となった少女。少女が来てからだった。ヨナグでは隣国との大きな戦争が起きた。それによる孤児の急増。アステオ聖教支援院にも孤児が多くやって来た。その先駆け的な一人、カティ・オールズが来た頃から、ポロロッカは支援院の運営をアリスに任せ、定期的な設備の点検や物資の輸送、それに加えて相談役等の諸々を請け負うようになった。

 年々増える子供達は、どうもヨナグの其処彼処から保護された孤児だった。戦争の影響で他にも沢山の孤児がいると言うのに、どうしてあの子達を選んだのかと、ポロロッカはアリスに何の気無しに問うた。

 それにアリスはこう答えた。

『あの子達は……ワタクシが選んだ訳ではないのです。選ばれてしまった彼らを導くことがワタクシの役目。いずれ来る沙汰の時まで……』

 沙汰というのは、アステオ聖教会において重要な意味を持つ言葉だった。しかしそれの詳細は長い歴史の中で様々な解釈に分かれた。

 一説では死後行われる魂の審判。この世の罪が浄化されたかを見極めるもの。

 一説ではいずれ人間に対して行われる浄化の審判。この世に栄える人間を見極めるもの。

 一説では神自身の審判。唯一の神であるアステオを、世界が見極めるもの。

 一説では世界の審判。罪の吹き溜まった世界が滅ぶべきか否かを見極めるもの。

 いずれにせよ、アリスの口ぶりは真剣だった。アステオ聖教会からの待遇の良さもあり、只者ではないことだけを、ポロロッカは感じていた。

 しかしそれでもポロロッカにとってアリス・ソラフという人物は、不器用で苦労の絶えない、アステオ聖教支援院の院長でしか無かった。

 何度もこの厨房で包丁の扱いを教えていた。

「ふむ……」

 アリスの姿、言葉を思い返しながら、ポロロッカは窓の外にふと目をやった。その乾いた瞳には悉く薙ぎ払われた草木が痛々しく映る。

「沙汰が近い、ということか……」

 ポロロッカはそう言い残し、静かに部屋を去った。
 

 * * *


「――なにやってんのよ、あんた」

 それはひとつきを越した再会だった。

 小高い丘に聳える太い幹の木の根本。そこに寄り掛かる彼女。しかしいつもの楽しげで笑顔の絶えない彼女では無い。不安げな目元や、胸元に当てて弱く握られた拳が、その心中を伝える。

「クィルナ……本当に起きてたんだ」

 レリィナはそう言って、幾分かの安堵を声色に滲ませた。それをクィルナは感じとった。故に、クィルナは走り出した。

「歯ァ食いしばんなさいよ馬鹿ぁ!」

「ひっ……!」

 クィルナの心中では怒りが湧き立っていた。

 私達の家が、家族が大変な時にどこをほっつき歩いてんのよ。一回泣かなきゃ許さない。

 そんな思いを拳に乗せて、クィルナはレリィナにそれを振り抜いた。

 レリィナはその突然の暴力に反応はすれど躱す暇も身体能力も無い。

 目を見開いていた。体を後ろへ逃がそうと、重心をずらし始めた。そうして後ろへ転んだ。

「なんなのよ……あんたはぁ!!」

 拳は届かなかった。レリィナを殴りつけることは叶わなかった。そこに障害が差し込まれたから。

「おいおい、ようやくの再会だってのによ。そりゃあ無いんじゃないか? クィルナ」

 芯の強く凛然たる声色が、剣の如く毅然たる双眸が、クィルナの心を貫いていた。

 天を突くようにして逆立つ赤髪。とても強い男だった。その強さは力自慢とか、そんなちゃちなもんじゃない。彼の意志が決して曲げられぬことなど、彼と対峙するクィルナには見て然るべき事実だった。

「オルミ……! 出てきちゃダメだって天輪丸が!」

「あいつの長ったらしい昔話を聞かされた仲間が殴られようって時に、こそこそ木陰に隠れてられるほど俺は肝が据わっちゃいないんだ」

 それは、暴力の盾になるにはあまりにも薄い理由であった。故に、それだけのことすら、振り下ろされる拳の前に立ちはだかる理由になってしまうこの男がどういった質であるのか、ありありと想像できる。詰まるところ彼は義に厚い男ということだ。しかしそんなこと、クィルナにとってはとても義なんて呼べるものには思えなかった。

「へえ? なにあんた達、天輪丸の仲間ってこと? レリィナ、あんたもそっち側ってこと?」

「ち、違うのクィルナ。アタシ、もう……どうすればいいのかわかんなくて……」

 そんなの決まってる。そんな思いを言葉にするのも間に合わず、「はあ?」という声がクィルナの口から漏れた。

「支援院にこのまま真っ直ぐ歩いていって、アリスさんにごめんなさいって謝る! それ以外の何に正しさがあるってんのよ! あんたがいない間に何があったかわかる? カティ姉とウェイドが消えたの! みんなが悪夢にうなされてる! 悪魔が来たって、自分の皮膚が剥がれそうなくらいに引っ掻いて唸ってる! そんな時にいなくなっておいてどうしていいかわかんないって……ふざっけんじゃないわよ馬鹿!」

 あんたがいるだけで、どれだけ私の心が楽だったかなんて、きっと知りもしないんだ。

 その思いだけはどうしても口にできないまま、クィルナはレリィナを罵った。支援院の現状すら怒りに変えて怒鳴りつけた。

 二人の間が、クィルナによってまたぞろ詰められようとした時だった。またしてもその男は、信念らしきものに従った。

「そこまでだ。ちっと口が過ぎるな。レリィナも帰らなかった訳じゃねえ。帰れなかったんだ」

「……あんたがその理由を説明できるって言うの? そもそも誰」

 投げた問い掛けに、男は初めて視線を逸らす。それは後ろめたさがふっと湧いたような様子で、唇を引き締めた後、おずおずと開いた。

「名はオルミ・ジェイク。それ以外は、話せない」

「……そればっかり。あんたも同じこと言うのね」

 クィルナはオルミから視線を外した。彼は本当に名前以外のことを話す気が無かっただろうから。逸らされようとも揺らぐ事のない丸い瞳と真っ直ぐな声色が、やはりそれを示していた。

 昨日のタルファも同じだった。キリッとした態度で「勘違いするな」なんて言って、私を除け者にしたのだ。そしてその意志の鋭さもまた、オルミとタルファには似通っている節が感じられる。

 わかりきってはいたが、やはり彼も、こちらと馴れ合う気は無いらしい。話すだけ無駄なのだ。だからもう見ない。話がしたいのはそこに隠れてびくびくしてる奴だけ。

「隠れてんじゃないわよレリィナ。そんな性格じゃなかったでしょ? いつもみたいに噛みついて来なさいよ! また支援院のどこにでも隠れて、私を脅かしてみなさいよ!」

 オルミの後ろで涙をこぼす弱虫がひっくひっくと泣き出した。堪忍袋の緒がブチ切れたクィルナはと再び握った拳で飛びかかった。

「あんたってやつは……!」

 それにオルミは、クィルナの華奢な体を抱え込み、草地に押さえつけることで制した。オルミが飛ばす言葉をクィルナは一つも聞こうとはしていなかった。あの馬鹿をぶん殴ってやる。そんな意志だけが硬く固くクィルナの中に形作られていった。オルミの力任せの拘束に対し、力任せにクィルナは身を捩る。

「ぁぁあぁあああ! 離せクソ野郎! ぶん殴ってやる! ぶん殴ってやる!」

 そこここに生える草花も、そんな言葉を聞いたのは初めてのことだったろう。その人生において半分程をここで過ごしてきたクィルナも、そんな言葉を吐いたのはこれが初めてだった。沸騰するその感情が、どうしてここまで大きくなっているのか。クィルナには理解ができなかった。村が焼けた時の絶望や初恋を裏切られた悲しみに、一つも混ざりはしなかった感情だった。

 そんなクィルナの威圧に押されながら、レリィナは腰を抜かして言った。

「ごめん、ごめんねクィルナ。私もう……戻れない」

 その言葉に、とうとうクィルナの感情は色を変えた。視界が潤んでよく見えなくなったことも、その感情の足しにしかならなかった。無理矢理に抉って握った土塊をレリィナに投げつけた。レリィナの服の表面で土塊が爆ぜて、ぼろぼろと転がり落ちていった。砕けながら、散り散りとなり、中途の皺に引っかかって、溜まっていった。

 レリィナの嗚咽。クィルナの嗚咽。クィルナが地面を拳で叩いて、その度、小さな土塊が跳ねた。そんな様子を見ながら、オルミは気付いた。クィルナが既に何の抵抗もしていないことに。オルミは拘束を解いて、レリィナの下に寄ろうとした。レリィナの服に着いた土塊を払ってやろうとしたのだ。それに意識を向けてしまった為に、反応が遅れた。レリィナの怯えたような、切羽詰まったような呼び掛けを聞いた。状況を理解するための最後のピースとなったのは、背後に鳴った、草の根が踏み千切られる音だった。

「――オルミ後ろ!」

 レリィナは見た。油断したオルミの背後で拳を振り翳したクィルナの視線が、ようやくとうとう、オルミの後頭部に向けられている様を。

 オルミが振り返るのも間に合うはずが無く、拳は振り下ろされる――その時だった。突如襲い掛かった暴風に、クィルナの上体は強く押されて拳の狙いが外れ、オルミのこめかみを掠めるに終わった。クィルナは自らを支えること叶わず数メートル程を転がった。レリィナは木の幹に捕まることで被害を免れ、オルミはその暴風を利用してクィルナの下まで一足飛びに向かい、再び押さえ付けた。

 クィルナはオルミに押さえつけられながら、暴風の来た方に視線をやった。

「……は?」

 見えたのはアステオ聖教支援院。その一角、本館の一階から屋根にかけてが、恐ろしく理不尽なまでの暴力によって荒々しく爆ぜた姿だった。


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