りんねに帰る

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第二部

第四十九話――軋む床板

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 カティが病室を出てから少しした頃、再び扉を叩く音がした。いつの間にか眠っていたウェイドの耳朶を打つ。

「ん……あ、どうぞお入りください」というウェイドの返事を待ち入って来たのはアリス。先ほどカティと入れ替わりでウェイドの祖父、ポロロッカ・オージの対応に病室を出ていた。

「あれ、祖父との話は終わったんですか? だいぶ早いですね」

 最近の支援院の状況は波乱が多く、アリスはそれについてポロロッカに相談をすることも多い。そのため、ここ最近のポロロッカの滞在時間は長い。だのにアリスが部屋に戻ってきたのはまだ日の色すら変わらない頃。ウェイドはそのことが不思議だった。

「それが……ポロロッカさんが見当たらなくて……」

「え、祖父が?」

「一度カティに聞こうと思って戻って来たのですが、カティは何処かわかりますか?」

「それなら、もう一つの病室の様子を見に行くと出て行ったきりここには戻っていません」

「んー、でしたら一度そちらも見てみますね。お休みのところ失礼しましたわ」

 そう言って、アリスは扉を閉める。その扉を見つめながら、ウェイドは最後のカティとのやりとりを思い出していた。カティの投げ掛けたあの言葉。

『お願いウェイド。私と一緒に、ずっと遠くへ逃げて欲しいの』

 カティはそんなことを言っていた。その最初の一言は、カティの真剣な願いで、ウェイドを料理に誘った時もカティは、泣きそうな目でウェイドを見つめていた。もし、あれが本気だったら、なんて考えたくもない可能性がウェイドの頭に過る。二人でいる時、カティが冗談混じりに「ねえ、このまま二人で、ずっと遠くにでも行っちゃおうか」なんてウェイドに言うのは、よくあることだ。だからきっと今回だって、冗談なのだ。こんな状況だから、不安になって、あんな感じで言ってしまってだけで、だから、あれは冗談だ。

 ウェイドの心中では、そんな言い訳が濁流のように溢れ出していた。あれがもし本気だったら。あれがもし、最初の誘いと同じで、精一杯の願いだったとしたら、取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。

 心が焼けている。ウェイドの心を焦熱のような何かが這いずり回っている。奪われた唇、首筋の傷。カティがあれほど求めたのは、初めてだった。

 ウェイドの中の一つ一つが、辿り着いてはならない場所へと橋を架け始める。全てが意味を持ち始め、どうしても否定出来ないものとなって行く。ウェイドの心に薄く張られた安心が引き降ろされる。

 どうしてカティの閉めた扉を寂しく思った。
 どうしてあの扉を閉めてはいけないと感じた。
 ウェイド・オージは、どうするべきだった。

 ――その時だ。病室の扉が開かれたのは。

「大変! カティがいませんの! 向こうの病室には来てないってクィルナが――きゃっ、ま、待ってウェイド!」

 叫ぶアリスを気にも留めず、ウェイドは病室を飛び出した。

 結局どうするべきだったかなんてわからない。今はただ、カティの傍にいたかった。


 * * *


「もう、心配なのはわかりますけれど……」

 静かになった廊下に、アリスは溜息まじりの言葉をこぼした。

 カティの失踪を聞くや否や隣を駆け抜けて行ったウェイドは、こちらの言葉など届く様子も無く、最近ガタついてきた廊下をバタバタと走り去ってしまった。

 今日のカティは――いや、昨日、三日ぶりに目が覚めてからのカティは様子がおかしかった。どこがおかしいなどと具体的なことは言えないが、なんだか動きとか表情? とかがぎこちないとか、そんな些細な感覚だった。しかしアリスも、数年ものあいだ傍でカティを見てきただけあって、その感覚を考えすぎだなんて断ずることは無かった。

 朝食を食べた後、カティがあれほど率先して食器を片そうとするのをアリスは見たことが無い。この大変な状況にさすがのカティも負担を請け負うつもりでいるのだと言われればそうかもしれないが、カティの様子はどこか、早くアリスとクィルナを外に追いやって一人になりたいといった風だった。

 ポロロッカさんがやって来たと言った時に、カティはお茶をお出しして応接間に通してあると言っていた。カティは普段、そこまで気の回る性格では無かったはずだ。だってカティは、ポロロッカさんに限らずお客さんが来れば外で待たせたままアリスを探し回るし、わざわざお茶まで用意するだなんて気の回し方をできるはずが無い。例え嘘だとしても、カティはここまで丁寧な嘘は吐けない。

 そういえば昨日、目覚めてからだって、子供達の看病の中でアリスの補助となる行動を的確にとっていた。いつものカティならきっと、アリスの指示が無ければあそこまで完璧には動けないはずだ。

 三日間眠らされていたことでいつものカティではなかったとしても、それで前より優秀になるのはおかしな話だ。そうなれば多少は、覚束無くなったりする。しかし、カティは仕事を前まで以上にこなせている。

 アリスには思い当たる節がある。カティの様子の変化。それは他の皆にも言えることで、ウェイドだって、急に駆け出すような人では無かった。あれほど冷静でいられない人では無かった。

 カティは自らの記憶について何も言っていなかった。昨日、記憶が混濁したウェイドをアリスの元へ連れてきた。

『ウェイドの様子が変なの! アリスさん!』

 三日振りに目覚めたと言うのに、自らの気絶した原因すら言及する様子は一度も無かった。アリスだって、それを言及しなかったのはその可能性を知っていたから。だから、きっとそういうことなんだろうと、アリスは結論を出した。

「――やはり、記憶が戻っていますのね、カティ」

 それが独り言なのか、他者に向けた言葉なのか、知る者はいない。ただ老朽化が進む廊下は、ぎしと音を立て、そんな言葉を聞き届ける者の存在をアリスに教える。

「……やっと、この時が来ましたのね」

 アリスはもう一つ、今度は確かに、彼へ向けた言葉を投げたのだった。


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