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第二部
第四十四話――ノスタルジック・フレグランス
しおりを挟むその日の夜だった。皆が寝静まり、私も自宅の寝床で寝息を立てていただろう。遠い国にあると聞く砂漠を放浪する夢を見ていた。裸足で熱い砂を掴むようにして歩いていた。しかしその感触が唐突に張り付くぬめりのように変わった。下に目を向けてみると私は、妙に慣れ親しんだ色合いの感触悪い半液体に沈む最中だった。どうにかして這い上がろうと手足をもがき、足掻く。すると手元になにかを見つけた。それを掴み引き上げてみたところ、人骨だった。その事実に気づいた途端、肩の辺りを骨に掴まれたような感触がした。そこで確か気絶した。しかしそこは夢の中。入れ替わるようにして現実に戻された。
むせかえるような匂いが鼻腔に溜まっていて、戻ってきた私の嗅覚を蹂躙した。
「かは、がっ! げほっげほっ……!」
破壊的な歓迎を受けた私の体を更に激しく、咳とは別の何かが揺すっていた。
「――クィルナ!! 立て! 早く!」
「な、なんでディニが? ……これ、なんなの」
まぶたを開いた先には、寝起きの私の両肩をガッチリと掴み、大声で捲し立てるディニ。言い返してやろうとも一瞬思ったが、その状況の突飛さに、私は何も言い出せなかった。ぼろぼろ泣きながら真っ赤な目で怒鳴るディニのこと。手を着いた地面が寝床ではなく、外の草地だったこと。いつの間にか出来た腕の擦り傷のこと。嗅いだこともないぐらいのこの匂いが、間違いなくカルニィルの香りだと気付いたこと。そして何より――、
「――どうして、燃えてるの」
私の家が燃えていたこと。
「ごめん! ごめんクィルナ。俺、お前の母ちゃん、助けらんなかったあああ……!」
「なんで、こんな……」
ママが残っていると聞いて立ち上がれなかった。目の前の民家は爛々と燃えている。そこだけじゃない。見渡せば周囲の建物も全て。隣の、ディニの家だって。そこにママがいるなんて、到底信じられなかった。だって、いたら死んじゃうじゃないの。
逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえる。燃え落ちる家屋の喝采が聞こえる。地面を叩きつけるディニの償いの叫びが聞こえる。呆然とそれらを聞いていた。夢のような光景に、もう見たくないと顔を落とした。すると腹の辺りに見慣れたものを見つける。
「これ、私のポンチョ」
ママが作ってくれたもの。
「それしか……持って来れなかった……」
悲しみにケリをつけたのか、流れる涙を枯らしてしまったのか、泣き腫らしたディニは掠れた声でそう言った。
「あんた、これって、なんで、あんたの家、燃えてる、のに」
するとディニは立ち上がって言った。本当ならもっと大人になって、きちんと言いたかったんだと思う。でもこの時しか伝えられなかったから、彼は勢い任せにそれを言った。
「お前のことずっと好きだった。火事に気付いて、お前以外、全部、見ないで、お前だけを抱えて逃げた」
それに私はなんて返せばいいのか、何て返すべきなのか、何が原因で顔が赤くて、何が原因で胸の鼓動が駆け出しているのかわからなかった。何も言えずに呼吸が酷く早かった。
「ぁぁぁあぁぁああああ!!」
ディニは私の返事なんて待っちゃいなかった。叫び出した彼は頭を抱えて蹲った。その後の言葉は矢継ぎ早だった。
「たすけてたすけてって母ちゃんが燃えててあついよあついよってクィルナの母ちゃんが泣いてて置いてきた妹の部屋が崩れてこっちに走ってきた人達が物見櫓の下敷きになって向かいの人がさっきっから悲鳴だけ聞こえてきてクィルナと離れたく無いからって他の人を助けにも行かずに俺は一体何人救えたんだこんな俺一人の気持ち優先しなきゃもっと一杯助かったのに俺はどうすりゃよかったクィルナを見捨てたら他の奴らを救えたのかよ一体どうりゃいいどうすりゃ俺は許してもらえるんだなあクィルナぁ……! 頼むから、俺を許してくれえ……!」
ディニは地に額をうずめるほど許しを乞うた。わからなかった。私が許すことじゃなかった。それなら私だって謝るべきだと、その時の私は思った。早く逃げることが正解だったのに、結局どうすればいいかわからなくて、私はディニの元へ歩み寄った。きっとディニは悪くないよって言ってあげたかった。それが言えたところでディニの心が晴れたとは思えないし、その結果を知ることもできなかった。
「クィルナ……!」
「え」
ディニだけは案外冷静だったのか、木々の悲鳴みたいな音が聞こえてるらしかった。歩み寄ろうとした矢先、ディニが私を突き飛ばした。私の足が後ろへもつれ、尻餅をつく合間に、ディニは口の端に笑みを浮かべながら私の家に潰された。私を突き飛ばした拍子に前のめりになって、腰の辺りから、焼け落ちた柱がどすんって。もう見えないけど、ディニの体は壊れてしまったみたいだった。ディニの吐いた血が私の顔を濡らした。それもすぐに乾燥して肌に張り付いた。
焼けた柱がディニの体を焼いていく。時間はかかったはずなのに、ゆっくり焼かれるそれを見ていた。すると薫ってきた香りは、目が覚めた時に嗅いだ匂いに微かに混じるものだった。あのむせかえるような匂い。そうか。カルニィルの花の匂いに何か混じっていると思っていたそれは、――人の燃える香りだったらしい。
「お母さん! お母さん!」
向こうから響いてくる子供の声。それはどうやら、昼にエデンに話しかけていた女の子らしかった。ずっと叫んでいた。しかしそれもパキパキという空間の割れるような音と共に聞こえなくなった。そうして崩れた家屋の向こう側に黒い継ぎ接ぎのローブが見える。エデンだろうか。彼の表情は見たこともないほどの無感情に思えた。すると彼は、片手に持っていた松明を目の前の村人にひょいと投げつけ、そのまま村の外の方へ歩き去って行った。突然の松明を掴み損ねた村人が燃えていた。私は立ち上がることもできず、その人が燃え踊るのをただ見ていた。
次第に悲鳴が減り、静まって行く村。途中からはなんとなく手持ち無沙汰に弄っていたママ特製のポンチョを被って泣いていた。誰も生きていなかった。どうして自分だけが生き残ったのかわからなかった。どうしてディニが私を好きになってくれたのかわからなかった。どうしてエデンが村を焼いたのかわからなかった。腕の擦り傷がひりひりして痛かった。流れる涙も拭えなかった。拭う意味すらわからなかった。エデンとの約束が頭の中で反響していた。思い出がディニみたく焼けて、熱だけが私の中でちりちりとしていた。
日の昇る頃、村の全てが燃え切った。花畑ではまだ火の手が広がっているようで、風に乗せられたカルニィルの香りがそれを伝えてくれる。目の前で焦げ焦げになったディニの頬が、風か何かに撫でられぼろりと崩れた。かさかさの声で言った。
「ディニ……ごめんね、私まだ、好きとかよくわかんないよ」
あと十年くらい時間があれば。なんて思っていたところ、背後でざりと焼け屑を踏む音がした。誰かが生きていたと、そんな期待を抱くも、その希望は振り返ることに耐え切れず崩れた。
向こうの方に佇んでいたのは、沈痛な面持ちの女性。口に手を当て、この惨状を嘆いている様子だった。彼女は、私がいる場所を知っていたかのようにこちらへ視線をやると、真っ直ぐに歩いてきた。それに対して私はポンチョのフードを深く被ることで対抗した。そうして被り込むことで気づいた。フードは焦げてしまったのか、転々と焦茶の穴が空いてしまっている。そんなことに意識をやっている間に、女性は目の前でしゃがみ込み、私の顔を覗き込むようにして口を開いた。
「まあ、可愛らしいですわね。まるで天使のようですわ」
焼け跡の穴々から朝日が差し込んで、斑点のような光の模様が私の顔に浮かんでいる。光の柱が私の顔に突き立っていた。目に差し込む光が眩しかった。これもエンジェル・ラダーというのだろうか。
「あなた、お名前は? ご自分の家とか、分かりますの?」
それに私は首をふるふると振った。喋る気力も湧かなかった。全身がだるかった。
「お強いのですね。けれど子供が一人ぼっちなんて、きっと神がお見捨てになりませんことよ。もしよろしければ、ワタクシの元にいらっしゃい。お世話してさしあげます」
信心深い人らしかった。善良な人らしかった。だけどこんなの強さじゃない。もう一言、彼女は私に笑いかけてこう言った。
「お友達も、きっと出来ますわよ」
私はその人に手を取られ、むせかえるカルニィルの香りで満たされた故郷を後にした。
それが私とアリスさんの出会いだった。私はその時のショックで、アリスさんと出会う以前の記憶をほぼ失っていた。ディニのことも、エデンのことも、村のことも。だけど頭のどっかには残っていたみたいで、私はずっとカルニィルの香料が好きだった。それを知ったアリスさんは、私の村とは別の、遠くの生産地から仕入れてくれている。
私は村から支援院までの道中寝てしまい、起きた頃には支援院に到着していた。寝ている最中、アリスさんに抱き抱えられて空を飛んでいる夢を見たが、冷たい風が私に強く吹きつけて、夢なのに目を開けていられなかった。次に目が覚めた時には支援院だった。そこでレリィナとラパムに出会った。ラパムは何にでも無頓着で、レリィナは何にでも頓着する人だった。だけどそのおかげで、今の私になった。
* * *
うすらぼんやりとした視界は、差し込む光を次第に認識し始める。一つ二つと瞬きを繰り返し、重たいまぶたをようやく開き切る。
「んぅ……ここは……」
そして光に滲んだような淡い輪郭が像を結ぶ。目の前で大きく目を見開くのはアリス・ソラフ。その表情は、溢れ出そうと言わんばかりの、喜びだ。
「やっと……やっと! 目覚めましたのね……!」
「アリス……さん……?」
ふかふかのベッドと掛け布団に包まれていた。窓から差し込む光が眩しく暖かい。部屋もよくわからないけど騒がしい様子。そしてアリスさんは、私の手を取ってその喜びを伝えようというようだった。しかし、その様子はすぐに落ち着き、アリスさんは真剣な表情で言った。
「……クィルナ。あなたに問います」
やけに畏まったアリスさんの態度だが、起き抜けの私には頭がぼやっとして追いつかない。なにか、ちょっと待って欲しい。何か、水が欲しい。
「あなたは、人間ですか? 天使ですか?」
何その質問。聞き間違えたのかな、なんてぼやついた思考が聞いてきた。けど、アリスさんの表情は、瞳は揺るがず、私の答えを待つ姿勢で、とてもそんな間違いが起こったようには思えない。
「えっと、何を言ってるのアリスさん。私が天使なわけないじゃない」
そう答えた一瞬、アリスさんの瞳は揺らいだ気がした。それが何の感情によるものなのかはわからない。すっとベッドから降りたアリスさんは改めてこちらに向き直る。
「クィルナ、あなたが眠ったあの日から一ヶ月、この支援院ではいろんなことが起こったの」
それを言うアリスさんは、ゆっくりと窓辺まで歩いた。アリスさんしか見ていない私に、部屋の全てを見せるように、わざとらしく遠回りをして。この部屋の全てのベッドをゆっくり撫でる。
「ジャリン、ハープ、ミアリ。それと向こうの病室でも、イアン、カリガド、オーバード、ウェイド。全員、知らない記憶が蘇りましたの。それを、かつて天使だった時の記憶だと、彼らは言います」
天使と、そう言ったのは、さっきの質問と同じく冗談ではない様子だった。何より、アリスさんが腕を広げて示す“彼ら”は、そんな記憶に苦しむ様子だったから。
「あくま……あくまぁ……! いだいよぉ……」
包帯の巻かれた首筋を、柔らかい布に包まれた手で掻き毟るジャリン。
「いや……いやよ……天使が死ぬなんて……聞いてないわ……」
頭を抱え蹲り、口に何かが咬まされているハープ。
「なんで私……こんな何も無い夜空……知らない……」
手足をベッドに拘束され、それをかちゃかちゃと鳴らすミアリ。
この惨状がもう一つの部屋でも起きている。だめだ、頭が追いつかない。ただ、なんとか繋がる点が私にもある。
「記憶……そう、記憶……! アリスさん、私思い出したの」
「……それは、どのような」
「あの日……あの、カルニィルの香りがひどく焼き付いたあの日……」
あの、故郷の焼けた香りを私は思い出した。最後、ひどく退屈な表情と共に去ったあの、淡く香る約束を。
「ねえ、――エデンって人、知ってる?」
「それは……」
彼はまだ、覚えてくれているだろうか。
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