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第二部
第四十二話――目覚める者達
しおりを挟むどうして忘れてしまっていたのだろう。私は既に、願いを掴んでいたというのに。それの正体を知っていたというのに。
「――ここは」
カティは目を覚ました。そこは支援院にある病室のベッドの上だった。窓から差し込む陽光が暖かい。日の上りを見るに時間は朝方。いつもならカティは厨房に立ち、みんなの朝食を作っている頃。しかし、カティはゆっくりと体を起こす。そこに寝過ごしてしまった焦りは一つも無い。それもそうだろう。カティは全てを思い出したから。
黒い悪魔との契約を。
焼き尽くす焔を。蘇る灼熱を。
天使の神格ルルティアとして過ごした全てを。
「ああ、なんてことを。私は、なんてことを……」
神格の心は、永き時を耐えられるほどには出来ていなかった。ある時生まれてしまった仄かな感情は時を経て更に大きくなり、いずれ彼女自身にすら抑え込めなくなった。
ルルティアは天使達を愛していた。弟の一人によく言ったものだ。愛してやりなさいと。愛を教えてやりなさいと。それは自身でも実践した。愛とは素晴らしいものだ。こんなにも誰かを愛おしく思うことはとてつもない幸せだ。無感情の彼らにもそれを知って欲しい。隣り合う者を愛する幸せを知ってほしい。天使と死神が生み出されて間もない頃、ルルティアは天使達に感情を与えた。天使達に人間の営みを教えた。天使達はいずれ人間のように感情を発達させ、喜びを、幸せを知っていった。
隣り合う者を家族のように愛し合う彼ら。そんな天使達を永い間見ていた。だからだろう。その火種は次第に破滅の焔となっていった。彼らを見て沸き立つこの心。体を持たないルルティアでさえ、ありもしない胸の辺りがじくじくと痛み出すのだ。
渇望だった。何かを欲して止まない心。しかし肝心の求めるものがわからない。それがなんなのか知りたかった。いつまでもいつまでもその正体を知らずに抱えているのなんて耐えられなかった。それの正体を知るため、ルルティアは悪魔の手を取った。天界の危機を解決するために向かった姉の元で、ルルティアは悪魔の誘いに応じた。
「愛した天使達を見捨て、ましてや悪魔の手を取り、身勝手な願いに手を伸ばして……私という者は、最低な……なのに……」
今の彼女にはわかる。カティ・オールズは知っている。あの渇望の正体を。その渇きを満たせるものを。なぜなら悪魔は契約を必ず果たすから。
『君の願いは?』
『私も……この心を満たしたい……彼らがとても……羨ましい……』
遥か昔のその願いは、一つも変わることはない。
「私は……私のこの、心は……どうしてこんなにも……幸せでいられるの」
その涙は愛した天使達を見捨てた事への後悔か、それとも願いを叶えた事への喜びか――。
「カティ……? 起きたのか……!」
「っ……!」
その声に、カティは弾かれたように顔を上げる。部屋の入り口にはウェイドが立っていた。そこに立ち尽くす彼はこちらを見ている。恋人が、こちらを見ている。愛する人が、愛してくれる人が、そこにいる。正体が知れてもそれは収まる事を知らなかった。ルルティアの焔が、その心を焼き尽くす。
「ウェイド……ウェイド、好きよ。大好きよ。こっちに来て。抱き締めてほしいの」
そうやって言葉を投げれば、求めれば愛をしてくれる。愛を注いでくれる。それがいつもの彼だった。いつもの、彼なら――。
「カティ……僕が……俺が誰だかわかるか」
それは震える手で自らの顔を覆うウェイドの言葉。彼は自分のことを俺なんて言わなかったはずだ。
「誰って、あなたは、ウェイドよ。ウェイド・オージ。私の……愛しい……」
「わからない……わからないんだ!」
彼の声は震え、その綺麗な目には怯えにも似た色を浮かべている。
「記憶が……知らないのに、懐かしい記憶が急に……頭に飛び込んできた……」
「記憶? 記憶って……」
震える唇がゆっくりと開かれ、ウェイドはこちらを見て言った。
「頭に輪っかがあった……。翼を持つ奴もいた……。犬が、喋ってた。――“ベル”っていう天使は……俺、なのか……?」
それはかつて、ルルティアに永遠の忠誠を誓った臣下の名前だった。
* * *
その日、アステオ聖教支援院は阿鼻叫喚に包まれていた。そこで暮らす数人の者に、激しい記憶の混濁が見られた。
オーバード・ナプラ。
ハープナルド・ナプラ。
ミアリ・カンジ。
イアン・カート。
カリガド・エレングラ。
ジャリン・カルドリン。
ウェイド・オージ。
彼らの殆どが口を揃えてこう語った。
自分たちはかつて天使だったと。悪魔によって、僕たち私たちは、殺されたと。そんな記憶が彼らの中に生まれたと。天界という場所にいた彼らは、天使として生活をしていたと。家族のような相手と、仕事をしながら、人間みたいに、幸せだった、と。
それぞれが別々の記憶を主張したが、それぞれが語る世界は同じものだった。そんな記憶が懐かしいと彼らは言っていた。だが最後、殺される時の絶望と恐怖の記憶に震える者もいた。それを聞きまとめたのは院長アリス・ソラフ。
アリスは、彼らを病室に集め、話を聞いて回った。そこには目覚めたばかりのカティ・オールズもいた。アリスとカティの二人は連携をとって二つの病室に渡り看病をしていた。一月前から眠ったままのクィルナがいる部屋まで埋まっていた。病室から消えていたレリィナ・ミトラと、姿の見当たらないラパム・リンヒド。二人の行方を探る暇も無い。
そんな激動の日に、もう一つ、動き始めるものがあった。
「うぁあ……悪魔が、悪魔がジャリンを引っ掻いて……」
「ええ、ええ、ジャリン、もう大丈夫ですよ。あなたには今、ワタクシがついていますわ」
それは、アリスが突然の記憶に怯えるジャリンを宥めていた時だった。誰かが身を起こした音がした。ベッドがぎしと軋む音。それが聞こえた方向は――、
「あなたは、クィルナ? それとも……」
「ふ……ぅあ」
こちらを向いた虚な瞳は、次第に色を取り戻していった。そして開かれた口から発された言葉。
「んぅ……ここは……」
手の甲で目を擦る。白金色の髪の毛が首から肩にしな垂れる。灰色の瞳は重たげなまぶたを乗せている。それを一つ二つと瞬かせ、開き切る。その目覚めに、アリスの心は喝采していた。
「やっと……やっと! 目覚めましたのね……!」
流星の日からひとつき。クィルナ・ミティナの目覚めであった。
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