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scene.15 等量の恋と瓦罐湯
しおりを挟むいくつかのヒールの音。遠くの黄色い声。つるつるの床にうつる色、色。BGMの、どこかで聴いたことある曲のピアノアレンジ。僕には小さいボックスチェア。何度も窮屈に脚を組み替えて、途中からだるくなって脚を投げ出す。途端にぴこんとスマホが鳴って、ピンクのポップアップをタップすれば、ただラリーのキッカケでしかない、「いま何してる?」が屋外設定のままで眩しいディスプレイの中央に浮かび上がる。ちらりと試着室に視線を遣って、パーテーションに動きがないことを確認してから、ラリーを開始。「服屋だよ」「ラドレくんの服を買うの?」「いや、会長の」「やっぱりハイブランド?」……辺りを見渡す。FMの椿屋幻日の代になってから展開されたこの比較的安価なラインは、それでもヒト族の若い子が着るには少しばかり高い。すこし考えて、「定義にもよるかな」と返せば「なにそれー。絶対に安くないでしょ。この、社長ちゃんめ!」と怒り顔の絵文字の添えられた文章が返ってくる。
「……可愛いな」
思わず声にしてしまったのを咳払いで濁した瞬間、目測一五〇センチ先のパーテーションが揺れた。そろそろ出てくるかとも思ったが、その内側から漏れ聞こえてくるのはふたたびの沈黙と衣擦れ。王は手先が不器用なのだから時間がかかるのも仕方がない。いくらでも待つつもりで、ふたたびスマホに目を落とす。「社長ちゃんでも一般的な金銭感覚ですよ」「スキンケアどこの?」「シロラメント」「はい、ダウト。百ミリリットル九十五ドルの化粧水使ってる人が一般を称しちゃダメだよ」「貰ったんだって」「だれ、女?」「あそこの社長男でしょ」「あ、はぐらかしたうえにハイソサエティ匂わせたなー!」……口許が緩むのを感じる。生業を滞りなく回しているだけなのにハイソに分類されゴシップ紙に追われるニューヨークでの日常に対し、僕は常々クソ食らえと思ってきたが、この子からこんなに可愛らしい反応が貰えるのなら、その肩書きも悪くはない。ファユエンがそろそろ休憩時間が終わると言うのでやりとりを切り上げ、適当に僕の取り巻きをしている女たちからの未読メッセージに適当なスタンプを返信し、彼女のアイコンを下へ下へ、埋める。埋め立てたと思っていても、夢の島は未だ数千件の赤いパッチを輝かせていた。表層だけのこの隠蔽工作にはまるで意味がないことを悟りつつ、手持ち無沙汰にその浅めの地表から狼の絵文字を掬い上げて、打ち込む。「百ミリリットル九十五ドルの化粧水使うのって、ノット庶民?」……二分ほど経ってから返信。「セレブ・オア・シュガーベイビー」「そっかあ」「俺に訊くな」「高給取りでしょ」「高給取りに訊くなっつってんだよ」「化粧水どこの?」「貰ったやつ」「だれ、女?」「アンダーソン」「シロすぎて逆にキモい」「シロに憧れてんだろ? ブラック社長め」「ノーコメントで」
にわかにパーテーションが開く音がして顔をあげると、試着室に入ったときと同じ服装のままの姿の王が出てきたので「あれ、サイズ合わなかった?」と声をかける。すると王はにこりと微笑んで椅子に腰を下ろしたままでいる僕の頭を軽く撫で、腕にワンピースをかけたままフィッティングルーム受付の店員に声をかけに行ったようだった。
「身幅を詰めていただけますか」
「勿論です。このワンピースはバストを出すこともできますが……」
「お願いします」
「今は空いていますので、一時間ほどで仕上がりますがお待ちになりますか?」
「ではのちほど取りにきます」
「かしこまりました。こちらへご入力を……」
どうやら購入の意思があるらしい王の背中に、「着たとこ見せてほしかったなあ」と擦り寄ると、「ただの確認作業ですから」と微笑が返ってくる。それから店の端末でサイズの指定をし終えた王に代わって会計を済ませようとしたところ、王は僕の裾を引いて「自分で買うの」と片方の頬を膨らませた。その仕草のあまりの愛らしさに僕が「えーなんでー」とふやけた声を上げた瞬間に、王は店員に自分のカードを握らせる。ぎやりと光るそれは普段使いゆえのゴールド。素早く支払いを済ませた王は、無言で僕の手を引いて店を出た。
南昌万寿宮のショッピングエリアは、夜の盛りを迎えていた。この歴史文化地区では歴史的な建築物と最新のストリートカルチャーが見事に融合しており、まさに不易流行の概念を具現化したような一帯である。昼に訪れれば荘厳な楼閣や博物館の見学、伝統工芸のワークショップなどの文化的体験をゆったり楽しむことができ、日が落ちれば心躍るライトアップをされた街路が人々を迎え夜行を彩る。平均して七月に最高気温を迎える南昌には五月の時点で夏の蒸し暑さを予感させる肌感覚があり、往来の若者たちは気が早いことにも袖や丈の短い服装で肌を剥き出しにしていた。彼らに対し、若いな……としみじみと感想を抱きつつ、一方で王にまた新しい夏服を揃えてやらなくてはと、そのデザインやテイストについて想い馳せる。今年の春夏はシアー表現と大ぶりのアクセサリーがトレンドらしい。現に王もガラシャ・レンゼン謹製の、袖がレース編みになったトップスと膝から下がシフォン素材のマーメイドスカートを今っぽく着こなしているし、先ほど直しを依頼したワンピースも透ける裾や胸元が可愛らしい一着だったので、王にとっても好みかつ似合うものが流行る素晴らしい時期だ。いっそのこと総レースのマンダリンドレスなんかを誂えるのはどうだろうか。日傘も添えれば、蓮を観に行くのにうってつけに違いない。
「あとはなんだっけ、靴が欲しいの?」
出発前、ホテルの部屋で王が言っていたことを思い出してそう言うと、王はこくりと頷いてその両耳の布花のイヤリングを可憐に揺らした。
「ええ。あとはかわゆい鞄……アクセサリーもいいのがあったら」
「フルコーディネート揃えたいの?」
「そういうことになるかもしれません。自分でぜんぶ、買ってみたいの。おまえは口出し厳禁ですからね。ちいちゃい椅子にちんまり座って、お膝の関節が痛くなっちゃえばいいわ」
そう言ってつんと顎を持ち上げる王は、肩を抱く僕の指が首筋を撫でるのが厭わしいらしく、何度も「む」「む」と遺憾に鼻を鳴らして身動ぎする。反抗期か、あるいは思春期か。その情緒の成長を察しつつ、いつまでもちいさいままの骨格をこの手の、指の、皮膚で感じるとき、僕はいつも過去にタイムトラベルをするような心地になる。僕が王をこの身に、ひいては人生に迎えたとき、王はまだ子どもだったのだ。暗闇のなかでじっとそのままの姿でいた種子。双子の兄よりずっとちいさく、ほそく、木枯らしにすら耐えられなさそうだった其の幼体は、むりくりに成長させられたくせ骨だけはずっとあの頃のままだ。それが僕にとって、どんなに……。
僕の手が執拗に頸や肩、耳のあたりに蠢き、留まり続けるからか、王は弾けたように「もうだめ!」と叫んで大きな一歩で僕の目の前に躍り出る。そして大粒のラインストーンがあしらわれた人差し指のネイルを僕の胸元に突きつけて「もうだめよ」と真面目な顔して、今度は両頬を膨らませた。
「なに、恥ずかしいの」
周囲を見渡してそわそわと落ち着かない様子の王は、どこからともなく聞こえてきた「痴話喧嘩かな」の声に背中を強張らせ、いそいそと僕の隣へと戻ってくる。「チワ、ちがう。ケンカも、ちがうのに……」と、独り言を漏らしながら。僕の体側にぴたりと寄り添ってもまだなにか不服であるらしく、耳が若干、絞るように動いている。
「おまえ、おまえ……は、いつもぺたぺた触ります。すっごくぺたぺた」
「そりゃね。大好きですから」
僕がありのままの行動原理を口にすると、王は震えていた唇を一気に引き結んで沈黙した。どうだ僕のストレートな愛の告白に面喰って動けないだろう……と得意な僕を上目に、威嚇するように睨みつけて、王は無言で数メートル先にある英国製の革製品の店を指差した。ここは僕の愛用しているトランクと同じブランドで、靴も売っている。
「……口出し厳禁?」
「禁」
「先週出たサマートラベルシリーズが可愛いってことも言っちゃダメ?」
「禁」
「禁かあ」
ふたりでどちらともなく笑ってしまいながら、手を繋いで店に入る。王は「歩きやすそうで、敵も殺せるやつ」と物騒なオーダーをして店員を困らせ、そしてやはりサマートラベルシリーズのミニトランクを手に取って目を輝かせた。クロスボディバッグが基本形だが、ベルトの着脱で背負うこともできるもので、王のちいさな背中によく似合う。見立てが的中したことに僕がついほくそ笑んだのを見て、王は全身鏡越しに「カンチガイしないで」と不服そうに唇を尖らせた。
「なんでそんなにツンツンなの」
「やっぱりわからずや、畳んでないのね」
そう指摘しながら、王は背負ったトランクを鏡に映し、振り返り、「んふふかわゆい」と度々笑顔になる。その挙措が僕にとって、また可愛い。
「そりゃ、このたび上場しましたからね。優待券あげる」
「そんなちゃちなものいらないのよ。株式のうちの五十一パーセントを寄越しなさい」
「子会社にするつもり? そしたら王はわからずや・ビッグボスになるけど」
「わたくしほどわからずや・ビッグボスに適任な者はそういないでしょう」
「それはそうだね」
店の奥から店員が王の指定したサイズの靴を持ってきたところで、会話は一時中断。そのチャンクヒールのローファーは確かに刺突武器ではなく鈍器として敵を殺せそうではあるものの、存外に華奢なフォルムで、トランクと併せるとトラッドな雰囲気もあり可愛らしかった。
「いつもはピンヒールだけど、こういうのも似合うね。色違いも買ったらどう」
「禁」
「はいはい」
それにしても、王のファッションに細かく口を出せないというのは歯痒い。僕には王のスタイリストとしての自負がある。僕は今まで、ファッションというものに無頓着であった王の普段着から仕事着、パーティーで着るようなドレス、寝間着、それから下着までもをプロデュースしてきた。それもほとんどはガラシャからの受け売りの知識を適宜組み合わせて日々を凌いでいるうちに自然と身に着いたものなのだが、それでも、いや、そうであるからこそ王に一番似合うものを選ぶことができるのは、絶対に僕なのだ。だからこれまで色やモチーフの指定しかしてこなかった王が「自分で自分の買い物をする」と言い始めた数時間前から、ずっと、奇妙に腹が痛い。しかも口出しは「禁」ときたものだ。だったら、僕がこの場にいる意義とはなんなのだろう……己の存在証明にまで思考が及ぶ、僕にとっては大仰な『王の買い物』は、まだもう少し続くらしい。
江西料理は煮る、蒸すの工程にじっくりと時間をかけ、しっかりとした味つけに仕上げることが多く、極端に五味のどれかに振っていることは少ないため、外国人が親しみやすい料理ともいえる。しかし八大菜系に入れられていないことから窺えるように、味や食材の傾向には地域差が激しく、そのぶんバラエティーに富んでいる。ゆえに、ひとつのジャンルとして語ることは難しい。西にゆけば辛いと感じ、東にゆけば辛くなく、省都にゆけば稀に激辛を引くといったふうに、訪れた場所によって『江西料理』に対する印象が変わるのも特徴のようだ。まさに省内を『食べ歩いて』、その真髄に触れるほかない。先週まで滞在していた北部では川魚やカエルといった淡水産の素材が多く使われて、まるで安徽料理のようだと思っていたところ、昨日から滞在を開始した省都・南昌では一気に肉料理の種類が増え、王も明らかに喜んでいる様子だ。特に鴨のビール煮込みである『啤酒鴨』を気に入ったらしく、するすると皿とビールを空けて追加注文を繰り返し、閉店間際だったせいか、店の主人に「もう一羽もいないよ!」と笑われ、同時にその食いっぷりも褒められていた。
「三杯鶏と、南昌拌粉、あとはカエルが食べたいんですけどなにかおすすめの食べ方はありますか?」
「粉蒸はどう?」
「いいですね。お願いします。それとビールも……」
家常飯……家庭料理の店だと看板と客入りで謳うここは、夜の真ん中にいるかのような、屋外席がメインの広々とした店だった。既に宝飾店が閉まっていたため、そこでの買い物は明日に回すことにして、直しを依頼していたワンピースを受け取った僕たちはそのまま近場で食事をする流れになった。席に着いてから注文を終えた現在まで、ずっと大きなショッパーを三つ抱え込んで嬉しそうに中を覗き込んでいる王を、「ほら、乾杯するよ」と促して、足許の荷物入れの上にその今日の『戦利品』を置かせる。それから王にグラスに注いだビールを手渡して、ふたりでグラスを合わせた。
「乾杯」「なにに?」「はじめての、自分のためのお買い物……?」「あら、それは既にしたことがあるのですよ」「え、なに買ったの?」「ハニーミルクラテ」「それって買い物に入る?」「しかも、ふたっつ……」「どういう意味?」
ピースサインをしてふたつであることを表す王が、片手で一気にビールを空けるのを見守って、二杯目を注ぐ。江南三大名楼のひとつである滕王閣のライトアップを臨むこの席は、人混みに紛れているからこそ風情がある。喧騒のなかにふたりだけの世界をかたちづくるために椅子を寄せ、耳語するほど近くで王のために言葉を連ね、時折「綺麗だね」と楼閣と王を指して笑う。幸福がささやかであることは、贅沢だ。そっと王の膝に手を滑らせると、たちまち叩き落とされるが、それもいい。恥ずかしいと思うということは、僕たちの関係を意識しているということに違いないのだから。
「帰ったらしよ。すぐ。ほんとうにすぐ」
往来に目を向けながらそうさり気なく切り出せば、王も、
「百五十ミリリットルしか飲んでないのに、もう酔ったの」
と僕と同じ方向に目を向け、退屈そうに応じる。
「酔ってると思う?」
「いつも酔ってるでしょう、ハッピーボーイ。おまえからしてみるとさぞ世界はかがやかしく見えるのでしょうね」
「それはもう。地獄みたいな極彩色ですよ」
「かわいそうに。よく眠れないでしょう」
「王が寝かせてくれるから平気」
「そう。きっといい夢みるわね」
カエルの夢かしら……と王が言ったそのとき、テーブルに注文していたカエル料理が運ばれてきた。粉蒸とは食材に米粉をまぶしてから蒸し上げる調理法のことで、食材から滲むスープを米粉に吸わせることで旨味を無駄にしないという特徴がある。刻み唐辛子がかかったそれら調理法を施されたカエルの半身、半身、半身……。を、ふたりでわけて、しゃぶる。シンプルな塩と唐辛子の味つけが、淡泊な身肉とそのエキスに潜む品の良さを引き立てていて、パンチがあるわけではないのにやけに酒が進んだ。王は時折口内でがりりと音を立てるものの、以前に比べればその回数をめっきりと減らしている。
「ニューヨークでもカエルって食べられる?」
「あるんじゃないかな……安価かどうかはわからないけれど」
「ならいまのうちに満喫しておかないと……」
小骨が皿に溜まる。帰りたくないなと思う。ここのところ続いていた急激な寒暖差でセンチメンタルにでもなったのか、なぜか胸がざわざわと大風に揺られる枝葉のような音を立てている。
「三杯鶏……三はみっつ。杯は、カップ。鶏は、チキン。うふふ。意味がわかります」
王が、以前よりずっと漢字を読めるようになってきているという事実に、薄々は気がついていたが目を瞠る。王の指がなぞるメニュー表には手書きの文字が連なり、その丸字について王は「読みやすい字だわ」と感想を口にした。それはつまり読みにくい字との判別をしているということで、この調子だとすぐに繁体字も簡体字も分け隔てなく読めるようになって、高度な会話もできるようになるのだろうと予感させる。ウェアラブルデバイスに頼って会話をなんとかしている僕とは違って。
「なにかが三杯、味つけに使われているのね……」
読めなくてもいいのに。
そう思った瞬間、時が止まった気がした。
「……米酒、ラード、醤油。が、それぞれ一杯ずつ。等量に。発祥は江西省だけど、台湾でポピュラーになった料理だね。台湾風ならバジルが入ってる」
「物知りね」
「調べただけ。物知りって思われたくて」
僕ってなんなんだ。
停止した自身から、どぼどぼと溢れ出る疑懼に、胸の裡がおそるべき速度で暗澹としてくる。これまでその茫漠さゆえにうんざりするほど繰り返してきたアイデンティティ・クライシスが、ここにきてようやく明確な輪郭をもった気がした。
「あら、成長して帰ってきたのね」
それから運ばれてきた三杯鶏には、バジルが入っていた。爽やかであるはずの香りが鼻の奥につんと染みる。なにも考えないようにして口に運び噛み締めると、その『三杯』以外に水分を足さずに炊き上げられた鶏肉が、じゅわりと濃いめの醤油味を滲ませた。こってりとしているが、鼻に抜けるバジルがなんとも有り難い清涼感をもたらして、生姜やニンニクとともにエスニックな印象を植え付けてくる。確かに一度故郷から出てゆかないとこうはならないと悟らせる味だ。
「んふふ。ハオチーです」
二本目のビールを店員から受け取って、王が揃えた指を口許に寄せてにこりと笑う。つられて笑う僕の口許に幸福が宿っていないことを知覚しながら、それを無視してネイルで栓を開ける王の手元を見つめる。ぽん、という軽い音とともに彼方にきらり消えゆく王冠。あら拾いに行かないと……王の横顔の美麗な流線形がネオンの七色を反射して、いっそ白い。
それから片腕に皿をいくつも乗せた店員が「よく混ぜて食べてね」と席に置いたのは、テイクアウト用のラウンドカップに入った拌粉だ。南昌独特の太めのビーフンの上にはナッツ、細かく切られた大根と酸菜、それからチリパウダーとコリアンダーが乗っている。王が「混ぜますね」と言いかけたところで、さり気なくカップを奪い取って僕がその役目を担うこの瞬間の、なんと惨めなことか。指をあわせて無邪気に礼を言う王の顔が、あの人に重なる。「そっくりだね」と声に出したかった。もうあの人に追いついて、追い越しているかもしれないその成長度。ここ最近それを著しく感じるのは、王が『お見合い』なんかをして、婚姻を明確に意識しているような素振りを見せたからだろうか。それとも。……これ以上はいけないと思考を打ち切り、麺を口に運んだ。 柔らかくももっちりとした弾力のあるそれは常温。混ぜ麺であるがゆえに味にバラつきがあるところが楽しいそれは、食感も多彩だ。しかし胡麻油が効いているからか、全体には纏まりがあってどこか整然としている。
「辛いけど大丈夫?」
「ええ、もう大丈夫」
もう大丈夫。その言葉がなぜかいったいぜんたいなかなかどうして、どうしても、どうしても理解できない。いや、認められない。喜ぶべきことであるのにその気持ちは胸をじくじくと冷やして、ふとあの氷雨に打たれた防衛戦を思い出す。あの日、王は僕を見なかった。ずっと僕の他の三人と、ハリエットを見ているばかりで、僕が「でもそれは王も同じじゃない?」と王の秘匿する部分を責め立てたときに、ようやく一瞥されただけ。まずいことをした自覚はあるが、そのせいではなかったはずなのだ。王が僕を認識しないようにしていたその理由は。
「口の端、ついてるよ」
そのリップカラーからはみ出すオレンジ色を指摘して、掴んだナプキンを寄せると、「自分でやりますよ」と少し呆れたような微笑。手を止めて、ナプキンを渡してやればいいのに僕はそれをぐしゃりと握り込んだ。しかし僕の行動を特別気にしていないらしい王は、「食べちゃってから拭きます」と言って麺を手繰る。そのとき、ふっとこころに浮かんだのは、非常に暴力的な気持ち……いや、きっと概念に近い呪詛だった。理解したくない、と思った。理解をするな、と自分自身に向かって念じた。しかし僕の頭は言葉を編み、出力する。それはころりと、足許に転がり落ちてくる。
……僕たちは心の奥底ではお互いを認めていない?
気づきたくなかったというより、言葉にして質量を持たせたくなかった焦慮が頭を揺さぶった。そんなはずはないと王を見る。
ああ、箸の持ち方が。綺麗だ。
不純の自覚はあったが、それでもこの愛を疑ったことはなかった。帰りは、手を繋げなかった。
「ふへんへ……ワンピース、バッグ、お靴……冷蔵庫」
ショッパーを手提げにせず、胸元に抱えた王は中を飽きずに覗き込みながら夜道を歩く。それを転ばないよう見張るだけの僕は、ただ「冷蔵庫ってなに」と苦笑しながら片手で無意味にスマホを弄っていた。画像フォルダ整理、ウィジェット削除、画面の明るさ調整。このほくほくの笑顔でいる王の写真を撮りたいのに、カメラアプリをタップできない五分弱。思考らしい思考をしていない自覚だけが募って、虚無だ。なにか考えなくては。
「アイスが食べたいです」
セックスしたい。
「ならホテルの前のコンビニ、寄ろうか」
セックスしたい。
「んふふ。チョコ味にしようかな。イチゴでもいいかも」
セックスしないと。
「じゃあ一個ずつ買って分け……」
スマホが、鳴った。はやくセックスしないと。ピンクのポップアップ。ああもううるさいな。はやくしないと。……タップ。
「もしもし、ラドレくん?」
通話、だった。
「えへへ、また電話しちゃった……」
スピーカーから響くこのスピーカーオフの音声がどんなに微かでも、並外れた五感を持つ王が気づかない訳がない。どくん、と重たく一度だけ鳴った鼓動にリンクするようにして、王が立ち止まる。
「あれ、ラドレくん、きこえる?」
王が僕を振り返る。透明なひとみ。そこに黒くて大きな犬が映ったと思った瞬間、ゆっくりとまばたき。月。ネオン。風に揺れる僕の髪。それらが混ざり合って、王の睛の色を変える。
「どうしたの、応えなさいな。レディを待たせてはダメよ」
そうしずかに言って、王はふたたび歩き出す。僕は無言で、一切思考しないまま、スマホを耳にあてた。
「おーい、ラドレくーん。おかしいなあ……」
「……ごめん、聞こえてる」
「あっ、よかったあ。その、なにがというわけではないんだけど」
「知ってる。声が聞きたかったんでしょ」
僕は、いま、孤独だ。沙漠みたいだ。遠く遠くに王が歩いているのが見える。途方に暮れているはずなのに口では明るくオンナノコと喋っている、そんな自分の気味の悪さにサイコホラーを感じて、それがあまりにも手応えとしてB級で、笑えた。クソみたいに迂闊な浮気バレ。でも僕と王は恋人同士ではなく、一緒にいるしかないから一緒にいるだけの、一隻の船に一緒に乗っていたはずの……キミは、なんだったんだろう。
「大切なひとがいなくなるときって、どんな気持ちなんだろう」
電話の向こうでファユエンがそうぽつりと漏らした。文脈を思い出せないまま、「どんな気持ちなんだろうね」と僕は僕を知らないふりをする。ポケットをまさぐってタバコを探すが、ない。部屋に置いた荷物の中だ。
部屋に戻ると、王はベッドの上に仰向けになりスマホゲームをしているようだった。僕は手に提げていたコンビニの袋をデスクに置いて、「アイス買ってきたよ」と白々しく申し出る。すると王は「あとで食べます」と上の空でスマホ画面を指で連打した。
「あとでじゃなくてさあ」
そう言った声が明らかに苛立っていることに、僕自身も発した後から気づく。そんなちぐはぐで得体の知れない感覚に怯んだはずなのに、手が勝手に王のスマホを奪っていた。画面で続く銃撃戦。放り投げる。遠くで明らかに『やっちゃった』音がして、王の視線がそちらを向いたが、無表情だ。よくない。そう思った瞬間、『悪い』とは思っていないことを知る。よくないことはわかっている。でもよくないってなんだよ。
「ラドレ、やめて」
「なにが」
「したくない」
ちぐはぐでラグい思考の整合性がとれるまで待ってみると、スマホを放り投げた手が王の衣服を脱がせにかかっていた。ラグ、い。王の手が覆い被さる僕の胸を押し、拒絶している。
「なんで! 僕の管理をするのも王の役目でしょ!」
ただ平熱でさみしいと訴えようとしただけなのに、僕は叫んでいた。王は僕の怒声にびくりと肩を震わせると、それでもしずかに「しないほうがいい」と僕を窘める。「今日は、そういう日なの。よくない日。うまくいかないことばっかりでぐちゃぐちゃになっちゃう日。たまたま、そうなだけ。生きてたら、ある、ふつうの、日……」……王が顔を顰めるのは、僕が指を王の中に押し込んだからだ。
「わかってる。わかってるけど。わかってるこんなことで僕たちの関係は変わらない。わかってるの僕だけじゃないでしょ。王もわかってくれるでしょわかってくれてるんだよね?」
やめて、と王の細い声がして、いつもはこんな声を聞いたら絶対に言うことを聞くはずなのに、今日はなかなかどうして、思考も言葉も身体でさえも『僕』とリンクしない。瞬時に父の姿を引っ張り出し、彼のせいにしたかったが、そうでないことは理解しているからか、その虚像は微塵も僕を威圧してはくれない。それどころか、あらわれもしない。
「いたい」
しかしその声で身体が先に固まった。その瞬間、「痛かったら言ってよお願いだから」という在りし日の僕の台詞が僕を殴った。物凄く痛かった。からだに穴が空いたと感じたのはきっと錯覚ではなくて、僕は明確に僕をブチ抜いたのだ。
「ごめん」
ひと言謝った途端、涙がぼろりと王の胸元に落ちる。それを手で拭うと同時に、僕は指を引き抜いた。自分でやらかしておいて涙するなんて最悪に馬鹿げている。でも涙は伝うなんて控えめな振る舞いではなく、ぼろりぼろりと数秒おきに大げさな塊を落とし続け、僕が無理に揉んだせいで下着にうまく収まらなくなっている乳房を、ひたすら濡らしていく。
そして沈黙のただなか、王が、僕の名前を吐息だけで呼んだ。
「わすれないで。おまえは、わたくしを愛さなくてもいいの」
はっとして顔を上げると、王は困ったように眉根を寄せて微笑んでいた。そのままゆっくりと身体を起こして、ベッドサイドに置かれたティッシュボックスから数枚引き抜いた王は、僕の手を取って指を拭う。その白い紙きれにふわっと血が滲んだことは流石に見逃せなくて、もう一度「ごめん」と謝る。しかしその酷く掠れた音は王が着衣を整える音に掻き消され、僕の暴力ごとなかったことにされそうだった。それだけはならないと、また更に「ごめん」と繰り返す。
「ゆるさなくていい。だから、ごめん……」
「ゆるせないと思ったことなんて、一度もないですよ」
王はそう言って僕の顎に軽くキスをすると、ベッドから降りた。無言で向こうの壁際に落ちたスマホを拾い、それからデスクチェアを引き出してそこに腰を下ろす。
「あら、チョコ味はなかったの?」
僕がさきほど持ち込んだ買い物袋を覗き込むその背中に、「ごめん、なかった」と返せば、「ごめんではないでしょう。おまえは悪くないのに」と言って、王はもう溶けていそうなカップアイスをふたつ取り出した。
「おまえは食べるの」
「いや……今は、いい、かな」
「そう。シャワーを浴びてきちゃいなさいな。ああ、お湯も張ってあるから」
言いながら、王はアイスのカップをひとつ開ける。そして付属のプラスプーンを袋から剥きとって、苺味のその表面に突き立てた。ふにゃりと抵抗なく沈むスプーンを見て、王は「食べごろね」と微笑む……のを、僕はデスクのミラー越しに見ている。ここに合わせ鏡があったのなら、無数の鏡像のひとつくらいは王が違う挙動をしていて、僕を愛して甘やかしてはくれないかと祈るが、王はいつでもどこから見ても美しいから、期待はできない。ここには連続する王だけがいる。僕がひとりじゃなにもできないままの可愛い王でいてほしいと願ってしまっているから、そうなる。
僕は王が成長していくのが、いつからか恐ろしくなってしまったようだ。その成長は間違いなく順当なものであるのに、僕はそれを『急転』だと思ってしまっているのだ。『イレギュラー』に怯えるこの心はもう保護者でも疑似恋人でも対等な存在でもない。繕うことすら忘れたら、僕なんてただの怪物だ。討伐を待つしかない。
*
「私に落胆しましたか。私を軽蔑しましたか。私をもう愛せなくなりましたか」
瓦礫の夢であの人に呼びかけると、彼は「キミはどう思うの」と私をさらりと受け流して手元のパレットで色を混ぜる。混ぜ続ける。白い花畑のなか、私に背を向けているカンヴァス。僕と向き合っているあの人。ちらちらと明滅するその手元の動きを目で追いながら、「嫌いになったでしょう」と追及する。すると彼はカンヴァスに走らせる筆を止めないまま、「幸せだな、キミは」と言って笑った。
「妹みたいだ。僕に好かれてると信じて疑わない」
「疑う余地もないでしょう」
彼があの子を愛するのは、当然だ。それは摂理にも似た堅牢さで守護されているもので、外部からどんな圧力を受けたとしても、けして歪むことのないものであると、私は誰よりも深く理解している。
「それはそう。キミって僕に愛されてる実感があったかい」
「あります。今でも」
「ここだよね、僕とキミの差異って。僕なら疑わせない。ほら、僕の目を見てごらんよ。キミのこと、愛しているだろう」
傲慢ともとれる態度で、彼は筆を置いてカンヴァスを越えてくる。そして私の目の前にやってくると、にこりと音を立てそうな笑顔になった。その睛は私を映すと、七色に潤み、かがやき、そしてゆっくりまばたきをする。過度の幸福。もうやめてくれとすら思ってしまうほどの愛情。このまま死にたい。死んで一緒になりたい。見る者のすべてをベットさせるその眼差しは、私のそれとは違う聖なる誅殺力を湛えていた。
「……どう」
「愛しています、殿下」
「はっはっは。可愛いなあキミは」
得意げに腕を組み、その白い王子様は笑う。そしてゆっくりとカンヴァスの前へと戻ると、再び画材を手に取った。
「どうしたら、そういう眼差しができるのですか」
「知ってるくせに。でもああ……彼なんかも上手いよね。あの、黒オオカミくん。教えて貰いなよ」
唐突にハリエットの存在について彼の口から発せられたことで、私はつい周囲を見渡してしまう。ここは夢の中で、彼はハリエットのことを知らないはずだ。……そこで、やはりここは『私の夢』でしかないことを悟る。ただの明晰夢なのだ。あの人はどこにもいない。
「ハリエットは……彼は、不器用なんです。繕うのが下手だから……」
「ハリエットくん、ね……彼がなにをどう繕えていないって?」
「私のことを好きだってことを隠せてな……あれ?」
それはつまり、彼はいつも真実を剥き出しにしているということだ。彼が嘘吐きだと自称しただけで、実際のところ、そうではないのかもしれない。口を噤んだ私を見て、<私の恋人/あの子の兄/×××××>は肩を竦め、そして分裂した。液晶が割れたかのような虹色のノイズ。……どこからともなく染み出す重度破損の液垂れ。それを筆に取ると、彼は再び偶像を成す。そして、ふたたび絵を描き始める。私のよく知る横顔で。
「なんの絵を描いているんですか?」
私/僕は問う。
「当ててみてよ」
あなた/あなた/あなたは蜃気楼のように微笑する。
*
てっきり形見のピアスを握り込んで眠っているものとばかり思っていたが、僕の隣で丸まったまま朝日を浴びる王の手指は、ただ柔く折り曲げられているだけだった。僕が起き上がったことで王も起きてしまったのか、細い唸り声が素の色のくちびるをふるわせる。起きたくないという意思が窺えるしかめっ面が可笑しくて、吐息だけでふっと笑うと、ゆっくりと王の瞼がひらいた。陽光にきらりと一瞬潤んだ睛は、僕を認めると無色から七色に色彩を取り戻す。
「おはよ」
そう声をかけると、王は「むうん」と鳴きながら僕の手首を掴んで、額をくっつけて「まだねる」と漏らした。しかし僕が「まだ寝るの?」と繰り返せば、「ねない」と不機嫌な声。こんなアンビバレントな朝も、もう幾度となく繰り返されてきた。だから僕もその流れを汲んで、普段と同じことを言う。
「じゃあ起きよう。起きて美味しいものを食べに行こうよ」
そうだ、あんなことがあった程度で僕たちの関係は変わらない。僕たちは、まだ一緒にいるのだから。
正直僕も鬱と低血圧由来で気分が悪いが、朝の不機嫌の椅子に座ることができるのは王だけである。ぐずぐずとうつ伏せになり「おいしいもの……」と二三度鳴いてから王は緩慢な動きで起き上がると、僕の唇にへたっぴなキスをした。昨晩はセックスをしなかったからか、そのキスから魔力が流れ込んでくる。
「シャワー……」唇を離して、王は言った。
「はいはい。一緒に入る? それも、禁?」
「禁で、は、ない……かも」
まだまだ眠い目を閉じたままそう言った王をひと思いに抱き上げると、王は「きゃあ」と叫んで目をぱっちり開ける。ようやく目覚めてくれた主人の頬にキスをして、そのままベッドを降りるとバスルームへと向かった。そしてシャワーを浴び終えたころにはすっかり覚醒したらしい王と一緒に今日の服を選び、メイクを施す。サマーメイクコレクションのアイシャドウパレットの中から、王が「これがいい」と指さしたのは夏の海のようなグリーン。本当はピンクとイエローを混ぜようと思ったのだが、「いいね」とだけ返事をしてその広い瞼に塗ってやった。細かいパールの中に大粒のラメが紛れ込んでいるそれは、王のやわらかい皮膚に触れるとその色味をワントーン明るくする。
「似合うね。人魚姫みたい」
「姫……って、もういちど言ってみて」
「んー? 姫。王はお姫様みたいにかわいいね」
くるんと、小首が傾げられる。「どうしたの」と問いかけると、王はちいさな拳を唇に押し当てて「やっぱり兄様なのかな」と呟いた。
「ああ、昔誰かに姫って呼ばれたことがあるってやつ?」言いながら、大きなブラシでチークを混ぜる。
「そう。おまえが言うと、気障だわ」
「酷いなあ」
「ふふ。だからおまえでないのは確かです」
「誰かお友だちがいたんじゃないの。その、王がうんとちいさい頃とかに……」
お友だち。……意図せず「ん?」と疑問の声が漏れたのを、咄嗟にメイクポーチを覗くことで隠す。どうして僕は今なにかに気づいたような気がしたのだろう。そして、どうして僕はそれを王の前で隠そうとしたのだろう。
「わたくしに『おともだち』はいなかったでしょう」
「いや、僕は知らないからね……」白い頬に、チークを優しく乗せる。
「いつも兄様と遊んでいたの。でも兄様って、とてもしずかな方だから。お絵描きとか、読書とか、そういうことばかり。わたくしはかけっことか、ちゃんばらとか、そういうことがしたかった。たまには付き合ってくれるのだけど、わたくしはそれでは満足できなかったの。ふふ、わがままでしょう」
「はは、目に浮かぶね。あの人は……そうだよね。そういう性格だった」
彼は、僕を連れてよく外に絵を描きに出かけた。内向的というよりは、芸術を愛する性分だったのだ。僕の絵も何枚か描いてくれて、僕は実家の部屋にそれを飾った。母も喜んで広間に大袈裟に飾ったりなんかして……。
「でもそのうち相手をしてくれるようになったの。お兄ちゃんは剣もつよくて、わたくしなんかあんなに練習したのにぜんぜん歯が立たなくて……」
確かに、あの人は剣も扱えたはずだ。きっと男性体と女性体の体格差が出始めたのだろうと想像する。
「お兄ちゃんってどうしてあんなに強かったんだろう」
「それは……お兄ちゃんはお兄ちゃんだから?」
「お兄ちゃん……?」
王がまたくるんと首を傾げる。王は一応、二番目という扱いだから、兄の気持ちがわからないのだろう。
「僕はデワレとは数えるほどしか会ってないけど、会うたびにチビだと思ってたよ。ちっちゃくて、ザコ。僕には一生勝てないちっちゃいイキモノ」
ふと、妹のことが口からするりと、自然に、発せられた。妹……デワレと僕は歳が離れており、よくもまあ作ったよなと両親に対して思わなくもないが、あのふたりは息子目線でも非常に仲睦まじく見えた──父は隠せていると思っているのだろうが──ので、もしかしたら僕の知らないうちに更に下の兄弟が産まれている可能性もある。僕の扱いについて何度も衝突してはいたが、喧嘩するほどなんとやら、だ。
「まあ、慢心してるの。デワレは強い子なのに」
王は笑いながら、今度はリップカラーを選んだ。チェリーのような赤だ。保湿効果のあるそれは唇に乗せるとクリアカラーになって広がる。
「僕の妹だから弱くはないでしょ。でもそれだけ」
「そうしたらおまえは、ムカルナス卿の息子だから強いの?」
「それは違う。あの人は……文官でしょ」
「あら、なんにも知らないのね」
「知らない。教えて」
知りたくもなかったから知ろうとしていない、というのが真だ。
「あの方は、おまえの御母堂さまの使い魔なの」
「は……?」
まったくの、初耳だ。あの男が使い魔だと? ざっと背筋が冷えるのを感じる。元々騎士の家系だということは知っていたが、あの男は騎士になれなかったからこそ僕に対する当たりがきついのだとばかり思っていた。
「正しく騎士の肩書きがある者が弱いわけがないでしょう。しかもその愛する女と、きちんと一緒になった男よ。度胸が違うの。小娘呼ばわりされても、ちっとも悔しくなかった。あの方にくらべたら、わたくしなんて真に小娘だもの」
「はあ? 待って、そっちのほうが問題なんですけど? 小娘? あの男がそう言ったの? てか、なんでそのとき言ってくれなかったの?」
小娘などという物騒な言葉に、突発的な反応を禁じ得ない。それと同時に、ちゃんと主人を守りたいという感覚がはたらいていることに、安堵もする。
「わざわざ言うことですか? おまえの御尊父さまから小娘って呼ばれたの……よよよ……って?」
「言ってよ! はあ……不敬すぎる。信じられない。ふつう、息子の主人にそういうこと言う……?」
「あら、王としてのわたくしになら言っても差し支えないとでも?」
「そんなわけないでしょ! ていうか、ふつう、使わないでしょそんな乱暴な言葉さあ」
過去のことではあるものの、納得できずに憤りを語気に滲ませる僕を見て、王はふっ、と吐息を漏らすとすぐに可笑しそうに口元を押さえて笑い始めた。「よよよー」と泣き真似にもなっていない声音で続けて、今度は弾けたように笑う。
「よよよされたらさ、僕だってちゃんとさあ……」
「じゃあいま。いまそのシーンを演じてみましょう。ちゃんとあのときの気持ちになって」
「いいよ? ちゃんと怒るから見ててよ」
王が腰を下ろしていたベッドから立ち上がるので、僕もそれに倣う。すると王は丁寧にも「テイクワン、アクション」と言ってクラッパーボードを鳴らすジェスチャーをした。
「……騎士殿」
その呼び名に、一瞬胸が高鳴る。王はあのときと同じ真顔を作って僕の手を引くと、それから「じつは、わたくし……」と続けて、それから唐突に黙り込んだ。カメラワークもセットもなにも変わらないまま、沈黙が数十秒。次の台詞は、ない。
「……やっぱり、わたくしが、言えなかっただけ、かも」……ぽつりと、『今の王』の声がする。
どんな言葉で父をこき下ろしてやろうかと身構えていた僕は、咄嗟になにか、なんでもいいから言うべきだったのに、こんな切実なシーンでのアドリブには慣れていなかった。
「わたくしが、だめだったのね。おまえがわたくしのことを嫌いなのは、おまえなりの理由があるのだろうから黙っていようと……思っていたけれど、これは、単なる自業自得だわ。そうだったのね。気づかなかった……」
王の手が、僕の手を離す。ぷらんと垂れさがる僕の手のかたちをした、僕の責任。こわごわと持ち上げて、王の胸元で握られているそのちいさな手に触れる。手の甲で。指の背で。指先を指の腹に引っかけて、踏み入って、そっと握るとつめたかった。
「嫌いだったことなんてないよ、一度も」
笑ってみせたかったのに、王は僕を見ていない。
「最初から大好きだった。一目惚れだったんだよ」
やはり王は、あのころ僕に嫌われていると思い込んでいたのだ。そんなことは一度だって口にしたことはなかったはずのにそう思い込ませるに至ったのは、僕たちが対話をしてこなかったからに違いない。対話をしないとどうなるか? それは、ふたりで乗り越えられたかもしれないことを、その可能性ごと放棄することになる。
僕たちは、あのクーデターをふたりで乗り越えるべきだった。父に反抗し、立ち向かい、そしてどういうかたちであれ、ふたりでいるべきだった。一生一緒だと誓うこと。それが契約なのだから。しかし僕は、父の言葉に負けたのだ。
──僕は、「この計画が終われば、あの娘を娶ればいい」と父に言われていたのだ。成体の王種は、殺せないから。
あの男、自分が主人と結婚したからって、適当言いやがって。……しかし僕も僕で、ハッピーエンドにさえ漕ぎ着ければ、重ねてきた非道な行いも、塗れるほかなかった汚穢も、すべて帳消しになるものとばかり信じ込んでいた。そういう、企てだった。しかし本当のテイクワンは失敗に終わり、その過程で生じた禍根や歪みのすべてが未だここに残っている。解消すべきだと思うが、それらが消し去ることのできる性質のものかどうかすら、僕は知らない。
王が顔を上げる。「兄様は、ヒトメボレ?」……その拙い問いがすこし可笑しくて、愛おしくて、僕は再びベッドに腰を下ろすと王を膝に座らせた。
「うーん、徐々に、かなあ」
「どういうこと?」
「あの人は……なんというか、とてもフレンドリーでしょう。スキンシップも激しいし。顔とか近づけられると、胸がぎゅっとなるんだ。僕って特別なのかもって。なんか、目がハートになっちゃう、的な……」
「……わかる。ディカプリオみたいな感じ」
「そう。そういう感じ。よく知ってるね、ディカプリオ」
「決定打は?」
「決定打かあー」
対話。尊重。成長。それらの難しさを痛感しながら僕は王の手を握り続ける。僕たちは、ここにいないあの人の話をするときだけ、うまくゆく。共通認識としてのあの人に助けられて、穏やかに言葉を交わすことができるのだ。可能であればこのままずっと僕自身や王自身の話なんてしたくないという気持ちは否定できない。曖昧に握り込んでいるお互いの印象のままずっと僕が抱き締めるから、王には抱き締められていてほしい。そんな願いを身勝手だと知りながら、実践することもまだやめられない。僕たちはお互いを知らないから一緒にいられる……きっとそうだと信じたいのは、それが楽だからだ。怠惰の渦のなか、僕たちはお互いを誤解しながら、しかし自分だけは誤解されたくないと嘆いている。このままで、いったいぜんたい、どこへ行こうというのだろう。いくつもの嵐を経て僕たちがどこにいるかという座標そのものは確認したものの、行く先は最初から、白紙のままだ。
綻びを綻びと認識しながらも、それらを繕い整えるより、時間に縋ろうという思いが強いとき、人と人はぎくしゃくする。
結局朝食を摂ることを諦めた僕たちは、昨日の買い物の続きをしようという話になったものの、王は当初の目的だったアクセサリー選びに僕を同伴させなかった。公衆の喫煙所でタバコをふかしながら、僕はひとり待ち惚け。しかしあのオンナノコとはやりとりをせずにいた。連絡がなかったわけではないが、それを「ちょっと忙しいから」とポーズしたのだ。ハリエットには「おはよう(ハートマークの絵文字)」と送ってみたものの、僕からの連絡は後回しにされがちなことは知っているから、既読にならない画面に無意味にスタンプを連投してみる。すると少しして、「うるさい」と短い返信があった。
「ダーリンなにしてる?」「会議」「ねえ王と仲直りしたいんだけど」「痴話喧嘩か?」「チワでもケンカでもないよ」「なんだ、浮気バレしたか」……二本目のカートリッジを電子タバコの本体に挿し込んで、スイッチを入れる。「した」
「クソバカアホマヌケ」これは口頭で言われた。「ぶっ殺すぞてめえ」……音割れする怒号。一瞬にしてかかってきた音声通話に応答した瞬間にこれだ。
「しかたないじゃん、起こったことは」
様子見としてただの言い訳をしてみると、再び怒号が飛んでくるかと思いきや、存外に落ち着いた声で、「お嬢ちゃんは」と王の様子を問われる。
「ひとりでお買い物。アクセサリーを見てるよ。来ちゃダメなんだってさ」
「そらそうだ。お前、絶対に金出したりするなよ」
「しない……ってか、昨日からお金払わせてもらえてない。食事も割り勘」
「バレたからか?」
「バレる前から。元々虎の尾を踏んでたっぽいところに、なにもかもだめだめデーだったからか、浮気バレパートが挟まって、それから無理矢理ヤろうとして、拒否られて、終わった。そんで今日。朝からギクシャクしてる」
言葉にするとあまりにも簡単な、地獄のような二十四時間未満。笑いたくないのに、悲しくて笑える。「僕を殺してくれ」
「次会ったら殴っていいな?」
「いいよ。そのまま殺してくれるって信じとく」
「いいぜ。信じろ」
しかしハリエットはやはり落ち着いている。彼の予想通りになったからだと思い、「結局キミの勝ちだね。いくら? 払うよ」と溜め息混じりに茶化せば、彼は僕と同等の薄ら笑いで「元々知ってるんだよ、あの子は」と笑った。「だから勝ち分の半額だけ貰う。賭けてねえけどな。あとラーメン奢れ」
「どういうこと……?」実感が伴わないまま、口だけで返事をする。
「お前に夥しい数のオンナがいることを、知ってるんだよ」
「はい……?」
「お前がベロベロエンエンで寝てるときにもスマホが鳴りまくってるんだけどよ。このあいだそれを聞いたお嬢ちゃんが、スマホを触ってすらいないのに『これはレイラ』『これはソフィア』『これはエマですね。ジョーンズ夫人のほう』だとかって解説しはじめてな。マジかと思ってとりあえず慰めてみようと一緒にウィスキーを飲んだ。で、極めつけは『これは、新しい子』……だってよ。だから言ったろ、バレてるってよ」
そこまで言われて、ようやくぞっと背筋が冷えた。まさか全部知られているだなんて。どうやって知られたかはわからないが、それはつまり、僕が嘘吐きだと王が認識していることを意味する。
「ああ、俺からあの子へは言ってないし、匂わせてもいないぞ。いつか俺がバラす前に、お前が自分で全部畳むって信じてたからな」
「じゃあ、なんでいま僕に……そんな言わなくてもいいこと、言ったの」
「裏切られたから」彼はよく通る声でそう言った。「あと、必要だと思ったからだ」
「……知ってたなら、どうして、王は僕を今さら」
避けるの。とは、声に出せなかった。
「隠そうとしてないと思ったからか?」
ハリエットは笑った。もうとっくにタバコは消えていたのに、僕はカートリッジを噛むことをやめられない。
「最近のお前、露骨だったもんな。よく言うだろ。浮気は隠そうとする姿勢そのものが大事だってな。だが俺如きがあの子の気持ちと、その度量を窺い知れるわけがねえ。あの子、お前のオンナの話をしながら笑ってたしな。怖いと思ったよ。でもまあ、俺の勘をひとつ……教えてやろうか?」
「勿体ぶらないで」
「お前が本気だってわかったから」
本気の、浮気。いや、本気の浮気はそれはもう、恋だ。自分でも信じられないくらいに覚えがあって、吐き気がする。実際に「うえ」と声が出ると、ハリエットは優しいのか無情なのか「吐きたきゃ吐けよ」とフラットに言った。
「浮気を許すのは、また戻ってくると思えているからだ。未練と慈悲と自信があるから許容できる。……しかし、戻ってこなさそうな男に割くリソースがあると思うか? お前がそれを『ある』と答えるのならそれは、お前がお嬢ちゃんを侮っているという証明になる。もしそうなら、俺がきちんとお前を殺してやる。答えろよ、クソバカアホマヌケ。俺はお嬢ちゃんのためならお前だって殺す。今度こそな」
その問いに、今の僕は答えられない。なぜなら『あってほしい』と思ってしまっているからだ。喉が鳴るのを彼に聞かれたくなくて、慎重に唾を飲み込む。細く吐いた息が、電話口の彼の微笑と重なった。軽口と真剣の、ちょうどあいだくらいの殺意が、冷たい。
「……あの子は、なにもかも初めてだろ。王じゃない、普通の人生については未熟だ」
「そうだね……」泣き声みたいな声が漏れた。こんなにも情けない声は、あの国にいた頃には一度だって発したことがないのに、人間界に来てからの僕はそれこそ人間みたいに弱くなっていた。
「泣くな、はじめての浮気オトコ。はじめてなんだから、紆余曲折あるって、それでも生きていけるって、教えてやれよ」
彼は強い男だ。僕なんかよりずっと精神が強く、気高く、マトモだ。そういうところが眩しくて嫌いで、好きにさせられちゃうところが好きだった。
「初恋オトコに言われたくないんですが」
精一杯の悪態も、きっと見破られている。しかし彼は、
「抜かせ。切るぞ。リモートの画面にクラン置いて出てきたのがバレはじめた。やばいな、俺のギャップ萌えが露呈する」
と別れ際を茶化して、僕をただそっとしておいてくれた。
「自分でギャップ萌えって言うなし。でも、話聞いてくれてありがとモチー」
まだまだ彼に甘えたかったが、そう明るく告げて終話する。その際に彼の「ふっ」と笑う声が耳の奥に優しく残って、僕はそれを忘れたくないなと思う。でも忘れたくないと祈ったことばかりが人生から消えゆくことを僕は知っていて、いつしか忘れていたという事実も、忘れたくなかったはずのきらめきでさえも埋もれていく。生きていくという困難の前では、すべての祈りが儚い。
しかしそれでも今ここで手に入れたものがひとつ。それを声にして、反芻する。
「殺す。今度こそ」
彼の不自然な言葉尻を、僕は聞き逃さなかった。あの男は、僕を殺そうとしたことがあるのだ。
今の僕はいっぱいいっぱいで、彼のことにまで手が回らないが、それでもこれだけは忘れたくなくて、僕は無意味と知りながら祈る。今度こそ忘れませんように。……ぐちゃぐちゃに噛んだタバコのカートリッジを灰皿に放り込んで、王が買い物をしている宝飾店の前まで移動する。そして「店の前で待ってるよ」と王にメッセージを打つと、それはすぐそばでピコンと音を立てた。見れば王がスマホを片手に店から出てくるところで、ばちりと目が合う。
「……可愛いの、あった?」
「ひみつ」
そっか、と打った相槌が掠れた。そうよ、と王はとてもちいさく笑う。その細い手首に提げられたショッパーには箱がいくつか入っているように見受けられたので、持つよ、と申し出ると、王は躊躇いがちにそれを僕に預けた。
「スマホ、大丈夫だったの」
「ええ。画面が、割れているだけです。あとは平気……」
やっぱり駄目だったかと思いながら王の手元のスマホを覗き込むと、その言葉通りに液晶には派手なクラックが入っていた。映し出されていた僕とのトークルームが、歪んで見える。
「修理に出そっか。買い替えてもいいし」
そう申し出ると、王は首を横に振った。
「来月になると、新しい機種が出るの。青いのがかわいいから……それを待ちます」
僕はまたしても「そっか」としか言えなくて、歯痒さで喉からこわれてしまいそうだ。僕たちの関係性も、スマホみたいに季節ごとに最新のアップデートをされたらいいのにと思う。ただ一緒に過ごすだけで、なめらかに華々しく、一歩一歩前に、上に、先に。しかし現実はそう甘くはなくて、でも僕は停滞したまま進歩があってほしいと甘ったれていて、現に今も「このままでいたい」となにが「このまま」なのかもわからないまま踏ん張ろうとしている。観念的な停滞をいくら恋しがっても、それでも現実世界に生きる僕たちはこの場からは動かないといけないし、お腹も空くから食べ物は探さないといけない。王に「お腹空いてる?」と声をかけると、すぐに「ウォーウーラです」と返事があった。手を繋ごうとすると、王は赤子のように小指を握ってくる。
朝でも昼どきでもない、食事をするには微妙な時間帯だが、万寿宮のフードストリートは賑わっていた。昨日のようなカジュアルを選ぶのにも、少し気取った店を選ぶのにも最適なこのエリアは、二階以上がヨーロピアンなレトロモダン建築の集合住宅となっている飲食店が軒を連ねているが、それ以外の建築物や街路のデザインはポストモダンであるという、なんとも不思議な空気感をしていた。表向きは整理された小奇麗な場所ではあるが、目抜き通りから少し目線を外せば裏路地にごくちいさな公園があったり、建物と建物の間に渡されたワイヤーに洗濯物が干してあったりする。今どき洗濯物を『干す』なんてことはニューヨークでは有り得ないが、この国ではまだまだ普通のことなのだろう。
街並みにばかりに関心する僕の気を引くようなことは一切せずに、王は通りかかる飲食店一軒一軒の看板に注目しているようだ。「決まった?」と声をかけると、王は立ち止まって僕の手のひらに指でなにか字を書き始める。点のような線が三つ、それから四角っぽい部位に、うにょうにょと、線。
「……『湯』かな?」
「う、うーん? そうなの、ですか? でも、この字があるお店が、いくつかあったのです。いい匂いが、します」
「この字はね、スープって意味だよ」
「タン、ハオチー?」
「それは食べてみないとね」
そう言ってやると、王はにこりと笑顔になって「食べてみる、します」と頷いた。僕もつられて笑顔になりながら、辺りを見渡す。話題の串焼きやかき氷といった若者向けの店ばかりで『湯』の文字はない。そこで王に「どこで見たの?」と問うてみると、さっきのワイヤーに洗濯物を干していたあたりを指差されたので、来た道を戻る。そうして足を踏み入れた脇道は袋小路になっており、その突き当りにはテーブルと椅子が数セット置かれていた。そしてその手前には『瓦罐湯』と書かれた看板のある店が一軒。いや、店は何軒かあるようだったが今開いているのはここだけらしい。よく一瞬で大通りからここの字が読めたな……と思いつつ、王と一緒に店の前に立つと、周辺より明らかに温度が高くて、一瞬初夏なのにと思いもしたが、僕も僕でもうスープの気持ちになっていたので、看板の文字をスマートグラスで読み取ってみる。
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確認した内容を王に説明してやると、王は、
「ほおん……あすこにかいてあるのが、具材ですか?」
と言って、店員の老婆の背後の高い位置にあるメニュー看板を指差す。見ると確かに食材の組み合わせごとに番号が振ってあった。どうやらこの番号で注文をするらしい。
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王がそう言った瞬間、ぐ、と喉が鳴った。たちまち涙がこぼれ落ちそうになる自分を不可解に思いながら、ゆっくりと深呼吸をして、言うべきことを、口にする。
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「我、要、這、個……」
これください、と拙い声がする。
「多少?」
「一、和、五……」
オーケーオーケー、と老婆の声。それから、決済の音。聴覚情報しかないが、なにが起こったのかはわかる。王はひとりで、中国語で、買い物を達成したのだ。「ふっふっふ……」とひとり得意げに笑う王は、すぐに僕のことを思い出したのか、口を噤んだ。堪らずに振り返り「すごいじゃん!」とその背中を叩くと、王は「褒めたい?」と僕を見上げた。
「褒めたい褒めたい!」
拭き切ったと思った涙がまだ目の端でしつこく潤んでいる。
「……あの、抱っこしても、いいですよ」
王はさきほどと同じことを言って、僕の袖を引くが、それはきっと僕を気遣ってのことだ。躊躇したのちに、王のことを正面から抱き締めると、王は「ちょっとチガウのですが」と不服そうな声を上げた。
「はいはい、これ席に持ってって!」
店前で堂々とハグをして離れない僕たちを見て、老婆は引き渡し口に置かれたままの瓦罐湯を指して声を張った。少し照れる思いでトレイに乗ったポットを取りに行くと、「アンタ、随分若く見えるけど、あれは娘かね」と彼女に問われる。
「いえ、友人です」
そう答えて、席へと移動する。日当たりの悪いその客席一帯には麻雀をする老人グループが二組いるだけで、静かだ。年季の入ったプラスチック製のテーブルに着いて、王に「多少?」と問えば、「わたくしは、五!」と返事があったので、口を覆うアルミホイルに『五』と書かれたポットを差し出してやる。
「なにが入ってるのかな……」
そう呟きながら自分のポットの受け皿を引き寄せ、『一』と書かれたアルミホイルを剥いでみる。ふわりと湯気。それから、スープのいい匂い。レンゲを差し込んでみると、薄桃色に色づいた鶏肉と、淡い黄色の栗がごろごろと入っていた。
「へえ、鶏と栗か。面白い組み合わせだね。王はなに?」
「わたくしは、ええと、肉団子と、ドラゴンアイ……? 名前が、かっくいかったので」
「竜眼か。果物だね」
ポットの中身を掻き回して楽しそうにしている王を眺めながら、スープを口にする。透き通った黄金色のそれはどうしようもないほど滋味深く、長時間じっくりと煮込んだもの特有の澄んだ味わいがあった。鶏の脂が醸し出すコクの奥に、栗から滲む甘さ。鶏はほろほろと柔らかく、栗はホクホク。クリアなスープだが味付けはしっかりとしていて、炭水化物との相性も良さそうだ。
「どう、ハオチ?」
一心不乱にレンゲを動かしている王にそう問うてみると「むん」という声と共にポットを差し出された。交換してみようということなのだろう。僕も王の前に自分のポットを滑らせて、手元にやってきた色が濃いめのスープに口をつける。肉団子自体の味つけがしっかりしているのだろう、豚肉の旨味が染み出したこってりとしたスープにはうっすらと胡椒の気配があった。そして乾燥させた竜眼の果実っぽい甘さが全体をふんわりと包んでいる。両方とも肉と果実という組み合わせだが、味の傾向は全く違う。しかし両方とも同じだけ美味いし、あたたかい。
「うん、ハオチーだね。どっちもハオチー」
ポットを返してやりながらそう言うと、王は人差し指を立てて言った。
「おまえは、豚や牛よりも鶏や魚が好き。あと、栗も好き。でしょ?」
「……うん。そうだよ。推測した?」
「……うん。でも一番好きなのは、モンブランなの」
「よく見てるね」
「うん。ずっと、見てたもの」
その言葉に、王の目を見る。その眼差しは真っ直ぐに、しかし揺れながら、僕を見つめていた。「僕も」と、まばたきすら忘れて動けずにいる僕の唇から儚い音が漏れる。
「ずっと、見てたよ。嫌いじゃなかったよ。一目惚れだった。ずっと見てた。見ていても理解するには至らなかったかもしれない。でも、なんでもわかりきった気になれるほどには……キミを見てきた。それはもう、キミの視線に気づかないくらいに」
一世一代ってくらいの気持ちが、ここにはあった。でもそれを伝えきるくらいの自力がないことも知っていた。なんせ僕は、王に、あなたに、嫌われていると思わせてしまっていた男だ。まだ足りない。まだまだ足りないずっと足りない僕はあなたのことを、しらない。
「じゃあ、わたくしのいちばんスキな食べ物はなに?」
僕の意気に反するように、王はしずかに僕に問いかける。
「イチゴ」
反射的に答えると、王はふっと笑って首を振った。
「桃缶」
「それもスキよ」
「お肉」
「うーん、おにくもだいすき」
王が楽しげに笑って否定する度に、僕との距離が広がっていくような感覚がある。ぐにゃと平衡感覚に歪みが生じて、それに伴ってぽっかりと胸に穴が開いた気がした。
「おばかさん」
レンゲをちゅっと吸いながら、王は眉を下げる。
「あなたとわたくしは、ちがうのね」
あなたと呼ばれて、胸がちぎれた。王の成長を喜びたい僕と、王の成長を認められない僕と、家族の僕と友人の僕と恋人になりたい僕を、ぜんぶ飛び越して、騎士としての僕が。
「教えてよ、正解を……」
ただしい道への案内を乞う僕と、
「当ててみてよ」
もうその道は歩いていないとでもいいたげな王の、視線が重ならない。ねじれが発生したこのわずか数秒で僕は雷みたいに、恋みたいに、悟る。
僕がいくら留まろうとしても、すこしだけだからとどんなに訴えても、王はもう僕を待たないのだ。
「もう戻らない」「絶対にゼロ地点には戻らない」「彼女は俺たちのものにはならない」……「なぜなら、彼女はひとりで歩き始めたから」そんな、どこかで聞いた言葉が頭の中で再生される。ひゅん、と落下して、ぞっ、とする肌感覚。ぷつぷつとレコードみたいに掠れたそれは僕を奈落に突き落とすかと思われたが、しかしまだ眼前に変わらず広がるのは嵐の海だ。まだここで苦しめと、耳元でなぜかハリエットの声がした気がした。
「なんだか、昨日今日と、デートみたいでしたね」
急転する話題。王は僕の存在意義やその葛藤をまるっと置き去りにして、そのフォルムについて話し始める。ああ、デートみたいだったんだ。……恋人どうしみたいなことばかりだったから。よくないことも起こったけれど、あれもこれもいまさらどうしようもないけれど、僕たちはお互いの差異を確かめ合った。それがこれからどんな分岐を生むとしても。
この後悔を愛おしむ必要すらあるのを感じながら、僕は「そうだね」と話に乗る。王がすべてを笑い話に昇華しようとしているのを、その眼差しや吐息の入れ方で察しつつ、僕はキミをどう捉えるべきかという構図から、真新しく考えはじめるほかない。建物のあいだから滲み出してくる西日の気配が僕たちのあいだにリニアな虹色を落として、ちらちらと揺らぐ。テーブルの上にはしるその境界線をなぞろうとして指を寄せると、王の小指とぶつかった。言葉もないまま指を絡めようとすると、それよりも先に王が立ち上がって僕の唇を奪った。ふたりしてこの沈黙をどうしたいのか探りながら、ただ麻雀の牌がざらざらと音を立てるのに耳を澄ます。初夏の爽風が日影に吹く。
End.
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だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。
「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。
彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。
俺はその報告に愕然とした。
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