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五日目 二〇XX年二月十九日
三十、
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阿貴と武衛は、翌日、路地の入り口にバリケードを作った。
ソファや椅子、組み立て式の棚などをアパートの部屋から持ち出した。前日に共に水の配給に行って顔見知りになった遠藤の夫が外に出てきて、何をしているのかと尋ねると、阿貴が明るく答えた。
「この前みたいに変な人が突然きたら大変なので、なるべく通りにくそうにしとくだけでも違うかなって。あと、ここを通ると防犯ブザーがなるようにします。威嚇ぐらいにはなると思うんです」
へえ、と遠藤は興味深そうに相槌を打った。何か手伝えることはあるか? と聞かれて、悩む阿貴の代わりに答える。
「アンタの家にこのバリケードに置けるもんがあったら出してくれ」
遠藤の反応は鈍かった。家財を出せ、と言われて気前よく出す人間はそういない。案の定、「出せそうなものがあったらな」と言って帰っていった。しかしその後彼の子ども二人が表に出てきて遊び始めた。武衛がここに来て初めて見る光景で、現金なものだと思ったが、阿貴は嬉しそうだった。
「これがあるから、ちょっとは安心できたのかな。作ってよかったね」
朗らかに笑う。純粋過ぎて不安になるが、阿貴がそんなふうにうれしそうにするのであれば、武衛も満足だった。たとえバリケード自体は腰の高さほどで道をふさぐには心もとないとしても、安心を得るのであればないよりもマシなのだ。
阿貴は、腹の底が見えないやつだった。
この街が廃墟と化し、治安も秩序も失い、無法地帯になってから、武衛はいろいろなものを見てきた。日常を続けようと悪あがきをする人々―そこには武衛自身も含まれている―物資の多寡に苛立ち、攻撃的になる人々、追い詰められた状況では誰もが暗澹として、不機嫌な顔をしている。武衛自身も、以前なら仕事を理由にいくらでも笑顔になっていただろう。だが、この数週間、とんと表情を変えた覚えがなかった。いや、表情を動かす必要がなかったのだ。逆に言えば、武衛は必要がなければ自分が笑わないのだと、有り余る時間の中で考えた。
それに対して阿貴は、出会った時からくるくると表情を変えて、驚いたり喜んだり、怒ったり、悲しんだり、笑ったり、せわしなかった。その様子を目にうるさいと思いはした。したが、彼の元をとっとと去るという選択はしなかった。
自分の様子や機嫌をうかがって、言葉を選ぶ様子はおかしくて堪らなかった。そして、武衛が阿貴の意に沿うような行動―例えば、吉川夫婦を優しくしたり、阿貴の行動を肯定したり―をするたびに目を丸くしてするのが、楽しかった。自分の行動に一喜一憂する人間を見るのは気分がいい。そう、阿貴と一緒にいるのは、気分がよかった。
それに、阿貴は武衛に対して、他とは毛色の異なる好意を抱いているのにも気づいた。最初の夜、ガキ臭い擦りあいっこに発展したのは驚いた。だが、たどたどしくも興味津々で卑猥なものに手を出す阿貴のうぶさに、武衛が興奮しなかったと言えば嘘になる。しばらくご無沙汰だったのもあいまって、一緒に気持ちよくなってしまえば、愛着も沸く。それがセックスなんて知らない、人肌の中毒性も知らない子どもなら征服感まである。できるだけ、阿貴の望みに沿う形で、彼の好意をもっと深いものにしたいと思うのは、別に悪いことじゃないはずだ。
だが、阿貴が欲しいという物資を探しに夜半に出かけて、その帰りに空襲に合い、阿貴がパニックになってしまったのには、さすがにどうしていいかわからなくなった。
立ち上がれなくなった阿貴を抱えて屋内に入る。砲撃の音の下で震える阿貴の手を握ってやる。夜に鳴る砲撃は武衛も初めてだったが、音自体にはこの一ヶ月程でずいぶん慣らされてしまって自分でも驚くほど冷静でいられた。だが、阿貴はそうではなくがたがたと震えて、その哀れっぽい様子に、つい、魔が差した。
人の心が弱っている時、寂しい時、そんな時に肉体的な関係に持ち込むのは、堪らない優越感が得られた。男相手に積極的にそういうことをするのは初めてだが、自分に好意を向けてくる男好きにわかっていて餌を与えたことはしばしばある。相対的な母数からの期待値が低い分、相手の男の喜び方は女のそれよりずっと純粋だ。
阿貴もまた、そういう男の一人のように思えた。
真夜中にキスをして、手を繋いでやれば、安心したように武衛に寄りかかってきた。弱いところを無防備に晒してなお、どこか清廉さを保っているのは感心した。武衛自身は自分をよい人間だとは思っていないが、それでも心根のまっすぐな人間には、好感を抱かずにはいられない。それがどんなに愚かしく見えても。
翌日、帰ってきたアパートの安全地帯で、阿貴が武衛を求めてきた時は、まるで狩りが成功したかのように胸が高鳴った。
実際、武衛にとって阿貴を篭絡することの半分は狩りだった。もう半分は、言ってしまえば成り行きだ。相手が自分に好意を抱き始めており、武衛自身もそれを厭わしく思うことはなかった。それなら自然とそういう関係に行き着くのだろうと、想像は難くない。
肉体関係を求められて、あまりにもとんとん拍子に狩りがうまくいくものだから、つい調子に乗ってしまった自覚はある。
阿貴の手で自分勝手な快感を追い求めたことも、その後衝動がこらえられずに排泄器官を使って繋がったのも、関係を続ける前提であれば初めからそんなことはしなかった。だが、男同士という初めての環境と、気安さと、阿貴がすべてを受け入れてくれるような「いい子」なのとで、思うままに快感を追った。セーフティセックスという考えも一瞬よぎったが、こんな状況で考えるのもバカバカしくなった。多少パニックになっても、宥めればすぐ落ち着く。こんな状況で出会う相手としては十分すぎる相手だった。
ソファや椅子、組み立て式の棚などをアパートの部屋から持ち出した。前日に共に水の配給に行って顔見知りになった遠藤の夫が外に出てきて、何をしているのかと尋ねると、阿貴が明るく答えた。
「この前みたいに変な人が突然きたら大変なので、なるべく通りにくそうにしとくだけでも違うかなって。あと、ここを通ると防犯ブザーがなるようにします。威嚇ぐらいにはなると思うんです」
へえ、と遠藤は興味深そうに相槌を打った。何か手伝えることはあるか? と聞かれて、悩む阿貴の代わりに答える。
「アンタの家にこのバリケードに置けるもんがあったら出してくれ」
遠藤の反応は鈍かった。家財を出せ、と言われて気前よく出す人間はそういない。案の定、「出せそうなものがあったらな」と言って帰っていった。しかしその後彼の子ども二人が表に出てきて遊び始めた。武衛がここに来て初めて見る光景で、現金なものだと思ったが、阿貴は嬉しそうだった。
「これがあるから、ちょっとは安心できたのかな。作ってよかったね」
朗らかに笑う。純粋過ぎて不安になるが、阿貴がそんなふうにうれしそうにするのであれば、武衛も満足だった。たとえバリケード自体は腰の高さほどで道をふさぐには心もとないとしても、安心を得るのであればないよりもマシなのだ。
阿貴は、腹の底が見えないやつだった。
この街が廃墟と化し、治安も秩序も失い、無法地帯になってから、武衛はいろいろなものを見てきた。日常を続けようと悪あがきをする人々―そこには武衛自身も含まれている―物資の多寡に苛立ち、攻撃的になる人々、追い詰められた状況では誰もが暗澹として、不機嫌な顔をしている。武衛自身も、以前なら仕事を理由にいくらでも笑顔になっていただろう。だが、この数週間、とんと表情を変えた覚えがなかった。いや、表情を動かす必要がなかったのだ。逆に言えば、武衛は必要がなければ自分が笑わないのだと、有り余る時間の中で考えた。
それに対して阿貴は、出会った時からくるくると表情を変えて、驚いたり喜んだり、怒ったり、悲しんだり、笑ったり、せわしなかった。その様子を目にうるさいと思いはした。したが、彼の元をとっとと去るという選択はしなかった。
自分の様子や機嫌をうかがって、言葉を選ぶ様子はおかしくて堪らなかった。そして、武衛が阿貴の意に沿うような行動―例えば、吉川夫婦を優しくしたり、阿貴の行動を肯定したり―をするたびに目を丸くしてするのが、楽しかった。自分の行動に一喜一憂する人間を見るのは気分がいい。そう、阿貴と一緒にいるのは、気分がよかった。
それに、阿貴は武衛に対して、他とは毛色の異なる好意を抱いているのにも気づいた。最初の夜、ガキ臭い擦りあいっこに発展したのは驚いた。だが、たどたどしくも興味津々で卑猥なものに手を出す阿貴のうぶさに、武衛が興奮しなかったと言えば嘘になる。しばらくご無沙汰だったのもあいまって、一緒に気持ちよくなってしまえば、愛着も沸く。それがセックスなんて知らない、人肌の中毒性も知らない子どもなら征服感まである。できるだけ、阿貴の望みに沿う形で、彼の好意をもっと深いものにしたいと思うのは、別に悪いことじゃないはずだ。
だが、阿貴が欲しいという物資を探しに夜半に出かけて、その帰りに空襲に合い、阿貴がパニックになってしまったのには、さすがにどうしていいかわからなくなった。
立ち上がれなくなった阿貴を抱えて屋内に入る。砲撃の音の下で震える阿貴の手を握ってやる。夜に鳴る砲撃は武衛も初めてだったが、音自体にはこの一ヶ月程でずいぶん慣らされてしまって自分でも驚くほど冷静でいられた。だが、阿貴はそうではなくがたがたと震えて、その哀れっぽい様子に、つい、魔が差した。
人の心が弱っている時、寂しい時、そんな時に肉体的な関係に持ち込むのは、堪らない優越感が得られた。男相手に積極的にそういうことをするのは初めてだが、自分に好意を向けてくる男好きにわかっていて餌を与えたことはしばしばある。相対的な母数からの期待値が低い分、相手の男の喜び方は女のそれよりずっと純粋だ。
阿貴もまた、そういう男の一人のように思えた。
真夜中にキスをして、手を繋いでやれば、安心したように武衛に寄りかかってきた。弱いところを無防備に晒してなお、どこか清廉さを保っているのは感心した。武衛自身は自分をよい人間だとは思っていないが、それでも心根のまっすぐな人間には、好感を抱かずにはいられない。それがどんなに愚かしく見えても。
翌日、帰ってきたアパートの安全地帯で、阿貴が武衛を求めてきた時は、まるで狩りが成功したかのように胸が高鳴った。
実際、武衛にとって阿貴を篭絡することの半分は狩りだった。もう半分は、言ってしまえば成り行きだ。相手が自分に好意を抱き始めており、武衛自身もそれを厭わしく思うことはなかった。それなら自然とそういう関係に行き着くのだろうと、想像は難くない。
肉体関係を求められて、あまりにもとんとん拍子に狩りがうまくいくものだから、つい調子に乗ってしまった自覚はある。
阿貴の手で自分勝手な快感を追い求めたことも、その後衝動がこらえられずに排泄器官を使って繋がったのも、関係を続ける前提であれば初めからそんなことはしなかった。だが、男同士という初めての環境と、気安さと、阿貴がすべてを受け入れてくれるような「いい子」なのとで、思うままに快感を追った。セーフティセックスという考えも一瞬よぎったが、こんな状況で考えるのもバカバカしくなった。多少パニックになっても、宥めればすぐ落ち着く。こんな状況で出会う相手としては十分すぎる相手だった。
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