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自由を走るあなたは私のーー

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隣で固まっている蒼を見て、実咲は心配になった。

ざわつく周囲。みんなの視線の先にあるのは、一階廊下に掲示された成績上位者名が書かれた張り紙だ。
夏休み明けにあった実力テスト、その結果の。

「あ、あおちゃんの名前がある。凄いね!」

実咲の耳に嬉しそうな声が聞こえてきた。その発言者ーー日向は邪気のない笑顔を蒼に向けている。
実咲は、非難してやろうかと思った。

「…あおちゃん…?」
笑顔が一転して困惑顔になる。蒼の表情に翳りがあることに、どうやら日向は気付いたようだった。
何でもないというように蒼が言う。

「…ありがと。でもひなの方がすごいじゃん」
「え…? ああ……」

蒼が目で指し示した張り紙にもう一度目をやった日向はここでようやく気付いたらしい。

一位、有峰 日向 二位、水無瀬 蓮

昨日来たばかりの転校生の快挙に周りからの注目を集めているにもかかわらず、蒼の名前が載っていることしか見えていなかったようだった。

「うん…ほんとにすごい。頑張ったね」

目を細めた蒼が日向の方へ手を伸ばし、彼の頭を撫でる。
一瞬日向は驚いた様子を見せたが、少し頭を下げて蒼の行為を受け入れた。

「…お前ら、目立ってる」

呆れ気味に言いながら水無瀬がこっちへやって来た。

「あ、ごめん。つい…」
「いいよ、嬉しい。あおちゃんのその癖。昔もよくやってくれたよね」

ばつが悪そうに手を引っ込めた蒼に、日向が微笑む。
「ふーん…。それじゃあさ、俺にもしてよ。有峰ほどじゃないけど、悪くない成績でしょ」
「は?」
水無瀬の言葉に、蒼と日向の声がハモった。水無瀬が苦笑する。

「やるなー水無瀬。つか転校生組がやばい」

昨日の今日でもう人気者らしく、水無瀬を囲むようにして人が集まってくる。日向も巻き込まれていた。
そんな彼らを横目で見つつ蒼が独りごちた。
「そっか…このテスト、ひなたちも受けてたんだ…」
日向達が転校してくる前にあったテストなので、彼らも何らかの形で受けていたということになる。
蒼が再び張り紙に目をやる。

「私も頑張らなきゃ…。もっと…」
「蒼……」

真剣な面持ちで呟く蒼が実咲には心配でならなかった。

日向が言った通り、張り紙には蒼の名前がある。

十八位、白石 蒼

この学校は偏差値65の進学校なため、上位に入るのはすごいことだ。一学期にあったテスト上位者の張り紙には全部蒼の名前があった。
が、二十位までの発表で今回の蒼はギリギリだ。いつもは十二、三位くらいにいるのに。
今回の結果に蒼は納得がいかないだろう。蒼のことだから、自分で自分を許せない。
負けず嫌い、ならまだいい。蒼の場合はそんな単純な話じゃない。

人とあまり関わろうとしないが、決して大人しいわけじゃない。なかなかに辛辣な部分もある。

それでも蒼は、哀しいくらいに『いい子』だからーー

           ※

実咲は蒼と同じ高校に行きたかった。

中学は違うが、陸上の大会で実咲は蒼の存在を知った。
二人ともトラック競技の、実咲は短距離走の100メートル、蒼は中長距離走の800メートル。
出場種目が違うため競い合う相手として意識はしなかったが、小柄な体躯ながら力強い走りの蒼に目を惹かれた。

魅力的な存在感。
揺るぎない孤高の人。
そんな彼女の姿に焦がれた。

まさかーー仲良くなれるとは思わなかった。

大会ではそれぞれ成果を上げていたので、中学二年生の頃には二人とも陸上で有名な私立高校からスカウトされた。
実咲は迷った。
他に行きたい高校もやりたいこともないが、このままずっと陸上を続けていく自信もない。
ただ、蒼がいれば自分は頑張れるし、高校生活も楽しいに違いなかった。

蒼はどうするんだろうーー?

蒼に相談してみると、あっさりと返事が来た。

「高校は公立を受ける。陸上は中学の間だけだし」

さりげなさの中に固い意志があった。
蒼には才能を手放して欲しくなかった。実咲は正直そう強く思ったが、進路のことで自分が蒼に口出すことじゃない。
蒼が決めたことだから応援しようと思った。
彼女の進む道を自分も歩いて行きたかった。
ただ、蒼が時々口にする言葉が気になった。

『心配させたくない』
『迷惑かけたくない』
『早く自立したい』

彼女はそれが自身の望みだというふうに何気なく発したつもりだろうが、

『心配させてはいけない』
『迷惑かけてはいけない』
『早く自立しなくちゃいけない』

そんな余裕のない強い戒めの思いが見え隠れしていた。
自分たちはまだ中学生の子供だ。思春期特有の言動で親や先生といった大人を困らせる年頃なのに、蒼の考えは立派すぎた。

「蒼は偉いね。私はそんな風に考えたことないよ」

実咲が感心して言うと、

「少しでもおじさんとおばさんに恩返し出来たらなぁって。私みたいな可愛くない子を…実の娘のように育ててくれてるから…」
 
あまり自分のことを話さない蒼がぽつりと漏らした。

「ーーえ?」
「あ、私、白石の家の養子なんだ」

蒼の口調は重くない普段通りのものだったのに、実咲はかける言葉が見つからなかった。

「でもほんと、おじさんもおばさんも優しくて、何不自由なく暮らさせてもらってるし、私には勿体ないくらい恵まれてるよ」

と、蒼の方が気を使う始末だ。

「そっか……」
自分が『養子』という立場になったことがないので軽々しくは言えないが、やはり遠慮してしまうのだろう。
養父母がどんなに優しくても。どんなに可愛がってくれようと。むしろ養父母がいい人であればあるほど、蒼は『いい子』として応えたいのかもしれなかった。

養子になった経緯を蒼は教えてはくれなかった。
実咲は聞けなかった。内容が内容だけに踏み込んではいけない。
彼女がいつか話したくなる時まで触れるべきじゃないと思った。

だからーー蒼の身体に古い傷跡や火傷跡があるのを知ったのは、高校に入ってしばらくしてからだった。

体育の際、女子は更衣室で着替えるのだが、蒼はいつもトイレで着替えていた。
部活を引退してからはもう走っていないと言っているのに、腕や足にテーピングをしていた。
そのことを実咲はうっすらと疑問に思っていて、理由を聞いたこともある。

「まぁ…習慣みたいなものだね」

そう蒼は笑って答えていた。
その言い方は何でもないといった感じだったので、それ以上の理由はないのだと思った。

しかしある日。
昼休み、学校の屋上で横になって眠る蒼の制服が捲れ、彼女の背中が半分近く露わになった。
実咲は絶句した。
蒼の肌にあるおびただしい数の傷跡や火傷跡に。
場所的にも蒼が自分でつけたとは思えなかった。

じゃあ、一体誰が……?
誰がどうしてこんなーー

「……ん……」

蒼が目を覚ました。

「みさ…き?」

寝ぼけ眼でゆっくりとした動作の蒼。しかし次の瞬間、驚いたような顔で、がばっと身を起こした。

「実咲っ! どうしたの?」

思わず実咲は俯いた。
蒼に顔を見られたくなかった。涙で濡れた顔をーー
「……ごめ……」
ようやく発した声はひどく震えた。
「…だい、じょぶ……だから……」
止まれ止まれと思うほど涙が出てくる。実咲が蒼の前で泣くのは二回目だった。
「実咲…落ち着いて」
優しく宥めるような声で言って、蒼が抱き締めてくる。
しかしーー蒼のこの行動は逆効果だった。
実咲の身体はビクッとし、それから固まってしまった。
いつもの実咲なら抱き返していた。
でも今は無理だ。
実咲は蒼に触れることが出来なかった。蒼の傷を抉るようで怖かった。蒼が壊れてしまうようでーー
実咲の強張る身体を疑問に思い考えていたのだろう。しばらくして蒼が窺うように聞いた。

「…もしかして…何か、見た?」
「…うん…ごめん…見えた…。蒼の…背中…」
「……まずったなぁ……」

多くを語ったわけではないが、それだけで通じた。
少しの間沈黙が流れた。

「ごめんね。私、実咲に甘えてた。気が緩んでた。泣かせてごめん」

実咲から身体を離し、蒼が言った。その言い方がどこか距離を感じさせられ、実咲は悲しくなった。
蒼に謝らせたことが悔しくて、蒼が自分に隙を見せたことを後悔しているようなのが淋しくて、実咲は意地になって泣き止んだ。

「…何で蒼が謝るの? 謝らないでよ。そんな言い方しないで。甘えてくれていいから。私の前では張り詰めなくていいから」

身体に力が入っていて、つい強い口調になってしまった。

こんなふうに言いたいわけじゃないのに…

「ん、ありがと」
蒼が微笑む。それから蒼はいまいましそうに言った。
「あー腹立つなぁ。痛みなんかないのにこんなクソみたいな傷跡に未だに振り回されてる。実咲まで泣かせて…ムカついて仕方ない」

蒼はきっと傷跡を気にしていない。が、当人はそうでも周りは気にする。だから蒼は隠さざるをえない。
実咲は罪悪感に苛まれていた。
蒼の口からはっきりとした話を聞いたわけじゃない。それなのに勝手に蒼の境遇を想像して悲しくなって。
蒼のことを可哀想だと思った。蒼のことを憐んでしまった。
同情なんか蒼はされたくないだろう。

「蒼、ごめん。約束するよ、蒼に謝らせるような泣き方は、もう二度としない」

実咲は蒼を抱き締めた。
蒼の走る姿を思い出す。それはこんな傷を抱えているなんて感じさせないほど、強く速く美しかった。
何にも縛られない、縛られまいとする自由な走り。
自分が触れることで蒼が壊れてしまうなんて、おこがましい。

「実咲、私は今ほんとに幸せなんだ。昔のことなんかどうでもよくなるくらいに」

「…親友にも恵まれて?」
実咲は冗談っぽく言った。蒼が抱き返してくる。
「そ、分かってるじゃん。実咲は最高の親友だよ」
「……敵わないなぁ…。さすが私のーーー」

続く言葉を、実咲は声には出さずに唇だけを動かした。

            ※

「ねぇ聞いたんだけどさ、転校生って二人ともめちゃくちゃ金持ちなんでしょ?」

誰か女子生徒の声がした。

「あー御曹司って噂ね、ほんとなの?」
「有峰財閥と自動車メーカーの『MINASE』だって」
「うそっ!? 凄すぎる。何でそんな人たちが、こんな地方の公立高校なんかにいるの?」

そんな話題が波のように広がっていく。
それでも蒼の耳には届いていないようで、蒼はまだ張り紙の方を見つめたまま何やら考え込んでいる様子だ。

「水無瀬くんは何でこの学校に来たの?」

やがて当人に直接聞く生徒たちが現れた。

「あー俺は有峰について来ただけ」

水無瀬の答えに一層周りがざわつく。日向と水無瀬の関係を想像して、特に女子たちがきゃっきゃと黄色く盛り上がっていた。

「じゃあ有峰くんは何でここに?」
「僕はーー」

聞かれて日向が蒼の方に目を向けた。

「あおちゃんがいるから」

今度はさっきとは違う種類のざわめきが起きた。

「『あおちゃん』て、誰?」
「ほら、あの人だよ。白石さん。確か『蒼』って名前だし」
「昨日有峰くん、白石さんに話しかけたり手繋いで教室出てったりしたもんね」

主に女子たちの悪意の混じったものがーーそれは日向が見ている先、蒼に向けられた。
今まで自分の世界に入っていた感じの蒼が、反応する。
辺りにいる生徒たちを注意して見ているような蒼の目。その双眸は決して鋭いものではなく、様子を窺っている色がある。

「………何?」

蒼が低く言った。

「白石さんって、有峰くんたちとどういう関係?」
「うん、何か知り合い? みたいだし。気になるよねー」
「どういうって…あー……」

そういうこと。…めんどくさいな…

と、続けた蒼の声はあまりにも小さいもので、実咲にしか聞こえていなかったようだった。

「同級生」

蒼の今度ははっきりとした言葉に、一瞬辺りが静まる。
しかしすぐに納得のいかなさそうな声が沸いた。
さっと周りを見回した実咲の目に、日向の肩に手を置いてくっくっと笑っている水無瀬の姿が映る。
日向はというと、少し困ったような顔で蒼を見守っている。

「何それ、はぐらかさないでよ」
「いや…ほんとのこと言っただけだし」
「そーそ、嘘は言ってない」

楽しげに水無瀬が助け船を出して来た。

「あんまり白石さんを困らせないであげてね。俺は別に構わないけど、面倒な奴がいるから」

蒼が水無瀬を軽く睨んだ。そのことに気付いてか、水無瀬が言った。

「かわいくないなぁ」

一瞬後蒼がふっと力なく笑う。日向が水無瀬を冷視した。それはぞっとするような迫力があった。

「ほら面倒だ……」

日向を一瞥した水無瀬がポツリと漏らした。それから一呼吸を置いて彼は続けた。

「白石さんは、有峰のヒーローなんだよ」

実咲ははっとした。思わず日向を強い目で見る。

「えーどういう意味? 白石さんが? 有峰くんが、じゃなくて?」
「水無瀬、お前喋りすぎ」

日向がピシャリと言った。が、それ以上何も言わないところをみると、水無瀬の言葉を否定するつもりはないようだ。

ああ、やっぱりそういう……

実咲の勘は当たっていた。
昨日日向を見ていて、彼と自分のある共通点に気付いた。
だから、だからあんなに警戒した。

「蒼、行こ」

実咲は蒼の腕を取った。注目の的になっている蒼をここから抜け出させるために引っ張って歩く。

「今日の帰り、新しく出来たドーナツ屋さんに寄ろ」

しばらく進んだところで実咲は言った。

「今回のテスト、蒼に勉強を教えてもらったから赤点取らずに済んだ。奢らせてよ」
「いいよ、そんなことしなくて。一緒に勉強してただけじゃない」
蒼はそう言うが、一学期の期末テストで赤点を取るほど苦手な歴史をどれだけみてもらったか。
蒼の貴重な勉強時間を割いてしまったのは確かだ。
どうすれば頷いてもらえるか、実咲はしばし考えーー
「食べたいドーナツがいくつかあるの。協力してもらうから。遠慮はいらない」
「半分こしよ、ってこと?」
「そ。私が甘い物に目がないこと知ってるでしょ」
蒼が小さく声を立てて笑った。
「分かった。じゃあお言葉に甘えて」
実咲は安堵した。
ようやく笑ってくれた。
ドーナツ屋では蒼と楽しい時間を過ごそう。

さすがに有峰くんはついてこないよね…

気にかかり、さっきの水無瀬の言葉を思い出す。

『白石さんは、有峰のヒーローなんだよ』

ああ、やっぱり蒼は凄いな……
私だけじゃなかった。

実咲にとって蒼は大事な親友だ。
蒼と仲良くなるきっかけとなった日のことを、実咲はずっと忘れないだろう。

あの日ーー蒼はヒーローのように、颯爽と実咲の前に現れた。







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