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宝箱をずっと抱《いだ》いて2

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その日が来た。気持ちの良い五月晴れの日曜日の朝。
蒼を迎えに来てくれた親戚は、優しそうな初老の夫婦だった。
別れの日だというのに、母親は初老の夫婦が鳴らしたチャイムの音でも起きず、蒼が応対した。
蒼と初老の夫婦の話し声で起きたのだろう。
寝ぼけまなこの母親は一瞬事態が飲み込めていなかったようだったが、初老の夫婦の話でようやく思い出したらしかった。

「いい子にしてるのよ、蒼。返却されても私はもう面倒見ないから」

それが母親の別れの際の言葉だった。

「…じゃあね、お母さん。元気でね」

蒼の言葉に母親からの返事はなかった。

かなしくないよ。
お母さんに捨てられたんじゃない。
わたしがお母さんを捨てたんだ。

アパートの部屋を出る時、蒼は心の中で強く自分に言い聞かせた。
一度も部屋の中を振り返ることなく。
 
           ※

「ーーあおちゃん!」

初老の夫婦に付き添われ、アパートの前にとめられた車に乗ろうとした蒼は、突然の声に動きを止めた。

「あおちゃん、やっと会えた…」

信じられない思いで振り返る。
そこには、ひなたがいた。

「ひな……」

どうしてここにひなたがいるんだろう。
アパート付近の見慣れた風景の中にひなたが立っているのが信じられなくて、蒼の頭は混乱した。
嬉しさと安堵の入り混じったような顔をしていたひなたは、蒼のことしか目に入っていなかったらしい。
しばらくしてから、ひなたは蒼の周りの様子を見るように視線を動かした。
「あ…ごめん、ね…。今からどこかに行くとこだった?」
「……うん……」
「…どこに、行くの…?」
今の蒼に何か尋常ではないものでも感じたのか、ひなたが心配そうに聞いた。
蒼が答えないまま時間が流れた。

「ーー蒼ちゃんのお友達?」

いつまでも蒼が無言でいると、これから蒼と暮らすことになる初老の女性ーー『おばさん』が言った。
「え、あ……」
「おばさん達、先に車に乗ってるから。蒼ちゃん達はゆっくりお話ししてて」
優しく微笑むおばさんは、蒼がしどろもどろになっているのは自分達に遠慮してるからとでも思ったのかもしれなかった。
実際はそれも少しあったけど、ひなたのことを自分の友達だと言ってもいいのか蒼には自信がなかったのだ。
おばさんとおじさんが車に乗る。ひなたが蒼の前までやって来た。

「…あおちゃん…どこ行くの…?」

さっきと同じ質問を、さっきよりも不安気にひなたが聞いた。

「遠く…もう…会えない…」

ひなたが息を呑んだ。
蒼は震える唇を強く噛んだ。

泣いちゃだめだ。泣いちゃだめ。
失敗もしたけれど、ふさわしくないかもしれないけど、せめて今だけはもう一度ひなのヒーローでいたい。
強くかっこいい男の子。
そんなわたし。
涙なんて見せちゃいけない。
 
目が熱くなって痛くて、それでも懸命に涙を堪えた。
ひなたと出会ってから、泣くのを我慢するのが下手になったけれど。

「あお…ちゃ、ん…」

見ると、ひなたの顔はびしょ濡れだった。
声を出すのもやっとのようで。
今のひなたの目には、自分の姿はまともに映ってないだろう。泣いていようが、泣かないでいようが、ひなたにはきっと分からない。
そう思うと、蒼は涙を我慢している自分が馬鹿らしくなって、思わず笑った。

「ぼく…あおちゃんのこと、大好きだよ」

やがて懸命に声を出した様子のひなたの言葉は、蒼には今まで縁がなかったものだった。
少しの間頭の中で反芻し、ようやくその意味を理解した時、嬉しくて嬉しくて。
蒼は自分のことを、ちょっぴりだけど初めて好きになれた。
同時に安堵した。

よかった…
ひなに嫌われてなかった…
わたし、あんなにひどいことしたのに…やっぱりひなは、優しいね。

「おれも…」

晴れやかな泣き笑いの顔で蒼は言った。

「おれもひなのこと、大好きだよ」

最後の最後にひなたとの最高の思い出が出来た。
ひなたとの思い出は全部、心の宝箱の中にしまってある。
この先いつでもそれは引き出せる。

「ぼくがもっと強くなったら…必ず迎えに行くからね」

必死で真剣な眼差しを向けて言うひなたを、蒼は微笑ましく思った。
優しすぎて泣き虫の女の子のくせに、何て強がりを言っているんだろう。
そんな様も可愛くて愛おしい。

「分かった。待ってる」
「絶対だよ。約束だよ」

ひなたが右手の小指を立てて差し出す。蒼はそれに自分の小指を絡めた。

「うん」

蒼にとって初めての指切りをした。
これが決して叶わない約束だと分かっていてもーー

「じゃあ、またな。ひな。ずっと元気で。笑顔でいてな」

蒼の言葉に、ひなたは首を力強く縦に振った。

「うんっ、あおちゃんも。絶対に、絶対にまた会おうね」

蒼は車に乗った。
車が動き出す。
運転するおじさんは蒼を気遣ってだろう、しばらくゆっくりとしたスピードで車を走らせていた。
窓の外、走ってくるひなたの姿が見える。
車と子供の追いかけっこなどいつまでも続くわけがなく、それはやがて見えなくなった。

わたしは忘れないよ、ひなのこと。
でも…
ひなはどうかな…
わたしのことなんか忘れるかもしれない…
きっと、その方がいい…

蒼は顔を俯けた。おじさんやおばさんに迷惑をかけないように。
そうして、蒼は泣いた。
ただただ悲しかった。

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