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10章 ガリ地蔵

10-2 心女【7.77】

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 ガリさんのお言葉を噛み締めて感傷に浸ろうと思った瞬間、母からもらったお守りがポケットから落ちてしまった。パンパンとはたき、よく見てみる。年季を感じる外見をしていて、と縫われている五文字はかすれている。裏側をめくると「あっ」と声を漏らしていた。
 これは花園神社のお守りだったのか……。
 すると、どこからともなく風鈴の音色が心の奥でこだましてきた。
 あれ。
「ん。どうしたんや、グリーン」
 なぜだか、自然と足が動いていた。
「信号が赤になるで」
 呼ばれてる。
「うん」
 行かなくちゃ。
「おい! 聞こえてるか!」
「はい」
 返事をしたような気がしたが、足の動きは止まらなかった。
 スクランブル交差点の中心に立つと無性に空を見たくなってしまった。どこまでも広い青空を全身で感じると、心の中で何かが通り過ぎていった。その瞬間、心のひだを優しく撫で回すと、もてあそぶようにどこか遠くに向かって飛んでいくのでそちらに視線を移す。
 見つけた。
 翡翠色の玉かんざしをバッグからぶら下げている女性が目に飛び込んでくる。そのかんざしからは、風鈴の音色が震わすように聞こえてきて時空や感覚を超越してこだました。
「あのだ」
 声をかけなきゃ。 
 呼ばれてる。
 そんな言葉がふわりと浮かんでは、パチンと弾けるように次々生まれてくる。
 何だろう、この感覚。
 俺はいつの間にか走り出していた。
「おい! グリーン! 危ねぇから早く渡れや!」
 ガリさんの大声で、はじめて自分のすぐ側まで車が接近していることに気づいた。
「バカ! 轢かれてぇのかよ!」
 運転手からどやされてしまった。
「うるせぇ、だまってろ。俺は声をかけなきゃいけねぇんだ」
 俺は、その娘を目がけて走った。
「ドアホ! 危ねぇよ!」
 またもや、どこかの運転手の罵声が耳に刺さったが今度は無視した。
 車同士の衝突音が耳に響いたので一瞬振り返ると、激しくぶつかったことによって、フロントライトやガラス窓が空に向けて華々しく散っているのが見えた。その一つ一つの破片が太陽の光や瑞々しい青空と融合し、クリスタルのようなきらめきをスクランブル交差点全体に放っていた。
 その煌めきを勝手に「祝福!」とポジティブに解釈しながら、一人の女性を目がけて走った。
 俺はこの娘に声をかけるためにナンパをしていたのかもしれない。
 この瞬間のためにナンパをしていたのかもしれない。
 やっと、見つけた。見つけたんだ。俺の心から求められているんだ。
 俺は無になって走り続けた。
 ずっと遠くの方で歩いている女性の横顔が目に飛び込んでくる。
 何が自分の心の琴線に触れたのかわからない。八重歯を覗かせる口元が好みかもしれない。髪がおしりに届くほど長くて、バーバリーのスカートが異様に似合っているから惹かれたのかもしれない。しかし、それらだけが理由だとは思えなかった。とにかく、心の奥底から時空を超えて求められる。
 分析なんてちゃちに感じた。俺は声をかけなければいけないんだ。
「待って」
 その言葉は届かないで歩き続けている。
 早く。
 早く捕まえなきゃ。
 もう少し。
 長い黒髪が映える後ろ姿を見せつけながら歩き続ける女性の手を掴むと、ゆっくりと振り向いた。
「久しぶり」
 なぜだか、俺はそんな言葉を口にしていた。彼女の包む空気が俺の感情を刺激して、そこで生まれた何かが、自然と言葉で具現化された気がしてならなかった。

――7・77秒。
 
 えっ。
「久しぶりだね」
 女も同じ言葉を口にした。
 その瞬間、時の扉が、いや女の心の扉が開いた気がした。
 すると、目に見える世界が歪んでどこかにトリップしたような感覚に陥り、なぜだか宙にふわっと浮かんでいくと街並みが一変した。そこには華やかな街並みが続く渋谷は存在せず、109もスカイツリーも都庁も見えなかった。遠くで見えるものと言えば、雪化粧した富士山が蜃気楼のようにぼんやりと見えるぐらい。視線を落とすと、古い瓦が並べられている平屋が続いていて、その先には江戸城が佇んでいるのが見えた。
 一度瞬きをすると、俺は地上に降りていた。
 お花模様の映えた着物を着て翡翠色の玉かんざしを挿した町娘が言葉を発した。
「私の後ろにお化けでもいるの?」
「お梅どの」
「小太郎さま。あれを見て」
 お梅が指す方向を見ると忍ヶ岡しのぶがおかと呼ばれる上野のお山が姿を現し、すぐ側には不忍池しのばずのいけが広がっていて蓮の葉っぱが悠然と浮かんでいた。
「ここで私とデートしたのよ。覚えてる?」
 と言うと、蠱惑こわくする眼差しで試すように笑った。

――江戸時代 天保 上野の桜……。
 町娘のかんざしの玉には桜の花びらが描かれていて、風鈴の音色を響かせながら懐かしい風を乗せて小さく揺れていた。

「当たり前だろ」
 この返答を促されて発言したことで少し恥ずかしくなったが、落ちてくる桜の花びらの一枚一枚を眺めていると、この時のデートのことをじわじわと思い出してきたのではばかることなく心の中で浸ることにした。
 その町娘を見つめながら二、三回瞬きをすると、町娘から先ほど声をかけた女に姿を変えていった。
「どうしたの」
 今のは幻覚だったのだろうか……。
「いや、なんか今、お梅どのが」
「お梅って誰のこと? 私はひかるよ」
「えっ、いや、やっぱり、そうだよね……。ひかるさんが町娘に見えて」
 口元を軽く押さえて「フフッ」と笑った。
「何だよ、気持ち悪いな」
「私だけじゃなかったんだ」
「えっ」
「私も見えたの。脇差わきざしを腰にさして網笠あみがさをかぶった男の人が」
「ほんとに?」
「嘘。合わせただけ」
「このやろ」と言いながら身体を捕まえた。初めて会うのになぜ、こんなに自然な会話ができるのだろう。そう思っていると、ひかるは背中越しに言った。
「でもね。感じたの」
「何を」
 ひかるは捕まえていた手を振りほどき、振り返ると心の奥を訴えるように見つめてきた。
「懐かしい風を」
 ひかるの長い髪が突風によって舞うと、視界が遮られてしまった。
 俺も感じた。時を超えた懐かしい風を。
「あなたが声をかけてきたとき、風を感じたの。どこかで感じたことのある風だった。だから、つい久しぶりって言ってしまったと思うの。でも、あなたと会うのは初めて。どうしてなんだろう」
「風かぁ」
 あなたと出会うためにずっと声をかけてきたのかもしれない。
 バッグにぶら下げている翡翠色の玉かんざしがきらめいた。
「綺麗な色だね」
「うん、鮮やかなグリーンをしてるでしょ。この髪飾りはお母さんの形見なの。この髪飾りを付けていると運命の相手が目の前に現れるから、目印になるようにいつも身に着けなくてはダメよって言われていたの」
「運命?」
「そう。運命の人が現れると心が震えるんだって。それが、心からの知らせだよって」
 確かに、懐かしい風が心を吹き抜けた瞬間から心が震えている。ずっと、震え続けている。その心の震えに全てを預けると、この目で見える世界も、この耳に聞こえる世界も、この鼻から吸い込まれて匂いを感じる世界も、さらには過去や今や未来を支配している時さえも超えた感覚だった。
「まだ、風を感じる。ずっと心の中でこだましているの」
「俺も感じる」
 懐かしい風がこのまま心を吹き抜け続ければ、どこかに連れていかれるような気がした。
 一抹の不安を覚えた俺は、手を握った。
 すると、ぬくもりを感じた。VRでもAIでも未だ人工では創り出せない、時空や感覚を飛び越えたぬくもりだった。
 もしかして、今までのナンパ人生の中で断トツにダサくて格好悪い声かけだったかもしれない。でも、一番心をこめたナンパだった。
 あれ、よく見ると、ひかるの左目の下瞼したまぶたにほくろがある。
「どうしたの。何かついてる?」
 ひかるが目の下をぬぐうと、ほくろは消えてしまった。ゴミだったのだろうか。
「まぁ、そんなことはどうでもいいか」
「ねぇ。なんで笑ってるの」
「いや、何でもない。何でもないんだよ」
「何よそれ。意地悪」
 改めて、堅く手を握り直す。
 もう、どこにも飛んでいかないように。
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