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7章 性欲の中心には魔物が棲んでんねん

7-28 黒薔薇のユカ3【全身を白に包まれている新婦】

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「グラス、空になってるよ」
「あっ、ほんとだ。すいません! 黒ビール下さい」
「俺もそれにしようかな」
 店員を呼ぶその手には黒のレースグローブが纏われていた。もちろん、そこにも黒い薔薇が添えられている。ビールを飲むユカの口元を見つめると、黒い薔薇で覆われているので、ルージュが一層引き立ち目立っていたので釘付けになった。お刺身のトロがユカの唇に見えてしまい、妄想が巧みに淫靡な方向に向かいつつも口の中に放り込んだ。ユカの唇が気になってしょうがなかったが、残りわずかなレモンサワーを飲み干すと過去のことが思い出された。
「母の友達が言ってたことなんだけど」
「うんうん」
「『結婚は妥協よ』って、諭すように言われました。三十五歳のバツイチで、二度目の結婚を決断したときの発言だったので妙な説得力がありました」
  ユカは一瞬止まり、視線をくうに浮かした。その視線がゆっくりと定まっていくと少し声を低くして喋り始めた。
「そうね。その妥協は女独得のものであって、男にはない妥協ね」
「どうしてですか」 
「うん。男には結婚の寿命がないけど、女にはあるってことよ」
 俺は黙って聞き入った。
「私、三十五歳って言ったじゃない? 女は高齢出産を考えると、子どもをつくるためには四十五歳ぐらいが限界。仕事はまだまだしたいけど、『子どもは二人ほしい』『ラブラブな新婚生活も送りたい』と考えたら、年齢的な逆算で言うと、三十五歳ぐらいがぎりぎりなのよ。女はそのタイムリミットという現実と戦わなければいけないし、そこから生まれてくる必然的な妥協なのよ。ま、何を妥協するのかってところがまた難しいんだけど……」
 と言うと眉を落とし、ふと視線が下に向けられた。
「三十五歳からが高齢出産といわれるの。そこにはリスクがあって、若い時より不妊率や流産が高まるし、ダウン症や自閉症の発症率も上がってくるといわれているわ」
「男は女と違い子どもを産むことはできない。でも、男も三十五歳を超えると精子が老化(数が減少・奇形率増加・運動能力低下)し始めるから、妊娠率の低下や、流産や子どもの病気の増加に関与するといわれてる。男も『妊娠させる適齢期』が存在するから、結婚の寿命を意識して婚活するべきだと思うね」
「緑さん、いいこと言うじゃない。そうなのよ。いつまでも若いままではいられないんだから」
 熱くなってきたのか、黒薔薇が添えられたレースグローブを外した。
「だからと言って好きでもない男と結婚するならば、シングルの方がいいのよ。でも、やっぱり赤ちゃんは欲しいの……。そうなると、シングルで子どもを持つということも選択肢の一つだと思ってるわ」
「今は多様化に伴い、二人の関係性や子どもの持ち方も、様々な形があるし受け入れられる時代になったもんね」
「でも、それが全て良いことだとは思わないの。生き方の選択肢があまりにも多すぎて逆に弊害がおきてるのよ。『今の生活ランクは落としたくないし、もっといい人が現れるかもしれない』と探し続け結婚を伸ばした挙げ句、婚期を逃す人が後を絶たないのよ」
「昔のように結婚による価値観も生き方もある程度選択肢が狭めれていて、その中でしか決められない状況の方がもしかしていいのかもしれないね」
「うん。人によっては、そっちの方がいいと思うの」
「ま、白馬の王子様が七十歳のときに現れるかも知れないよ」
「そんなの嫌よ。こっちがおばあちゃんならば相手もおじいちゃんになるんじゃない?」
「それだと辿り着く前に落馬しちゃうかもしれないね」       
「それにおじいちゃんならば年齢的に王子様じゃないと思うわ」
「確かに」と言うと、二人同時に吹き出すのを手で押さえながら笑った。
「でも、結婚するにあたって一番大事なことってなんだろう」
 少し考えを巡らせた後に、「んー、そうね」と言い出したので続く言葉を待った。
「確かに経済力や包容力や尊敬できる部分があるのは大事なこと。それに日本人の三人に一人は離婚している事実からも目を逸らしてはいけないわ。であるならば、私はこう思うの。自分が本当に辛いときに支えてくれるかどうかで決めること。人生は甘くない。いつどんな難病や事故や天災が降りかかるかわからないんだから」
「なるほど……」
「ゆえに、一時の盛りあがった感情だけで決断するのはリスクが高いと思うの」
「確かにね」
「ま、絶頂期のカップルなんて視野が狭くて盲目的だから、いいところしか『見ないし』『見えないし』『見せないし』『見ようとしないし』のだから、所詮難しい話なんだけど」
 活用しちゃったよ……。
「でも、一番大事なことはフィーリングだと思うわ」
「感覚ってこと?」
「そう。やっぱり合うという感覚が大切だと思うの。結婚って長丁場じゃない? 百メートル走じゃなくてマラソンなのよ。しかも、二人三脚のね。だから、素で楽でいられて、三十年後も五十年後も自分の側にいることが自然に感じられる絵が浮かべばいいのかなって思うんだけど」
「その感覚って、『縁』が混じっているような気がする。ただ、価値観や考え方が合うだけではないような気がした」
「縁、確かにね。それがないと結婚には至らないのかも」
「難しいね、結婚って」
「そりゃそうよ。結婚なんて一世一代の大決断だもん」
 力がこもった視線を向けられてしまった。でも、その力は現実が押し潰したのか、弛緩すると物思いに口を開いた。
「ウエディングドレスが着れる日は来るのかな……」
 と言うと、視線を少し斜め上に向けた。彼女の心の中で映し出されている映像に目を向けているのだろう。黒の薔薇をこよなく愛するユカは、幸福そうにブーケを持ち、全身を白に包まれている新婦というものに強く憧れを抱いているのを感じた。
 俺は間を埋めるために、目の前にあるジョッキを飲み干した。黒ビールが喉の奥を通り過ぎていくと、自分が何者であって何が目的だったのか思い出した。

 即が目的だろ。

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