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4章 左目の下瞼のほくろ

4-2 平手打ち

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 目が醒めると、二度寝したい気持ちを抑えて布団から出る。
 乳ローに指摘された外見を変えるために、今日は服を買わなくてはいけない。母は仕事から帰ってきてないので、朝食は一人で済ます。いつものことだ。
 派手な服装よりも綺麗めの格好の方が俺には似合うのではと思った。まだ休みたい気持ちを引きりながら都会に向かった。デパートに行くのは何年ぶりだろう。
「いらっしゃいませ」
 お店に入ると、店員が後ろに張り付いてくる。丁寧に畳まれているシャツを手に取る。
「それ、今日入荷した夏の新作なんですよぉ。こちらのやや濃いデニムと相性が抜群なんで、一緒に合わせると、ほら、いい感じでしょ。もし、サイズがなかったら在庫調べますよぉ」
「はぁ」
 喋り出すと止まらない店員が、俺には鬼にしか見えなかった。豆を持っていたら、顔にブチまけていただろう。
「タコと火星人がコラボしたそのチョッキお洒落ですね」
 いや、これは乳ローがダサいと言っていたから、口のうまい鬼が心にもないことを喋っているのだろう。
「プッ」
 ほら、吹き出してるじゃないか。凹んで下を向き、の顔を交互に見る。
 ごめん、タコと火星人。お前らの服を着るのは今日が最後のようだ。さよなら。
 すると、『旦那、寂しいでんな』『また、来世でもよろしく』と言っているのが心の中で聞こえた。
 二人に最期の挨拶をすると、鬼を置いてけぼりにして店を出る。
 店の外側に陳列されている商品だけを見ることにした。
「いらっしゃいませ」
 違うお店の鬼が追いかけてきた。捕まりたくない俺は、すぐさま逃げ出した。
 鬼から見たら、俺は格好のカモなのだろう。もしかして、背中にはうっすらネギが見えているのかもしれない。
 デパートはどこに行っても「いらっしゃいませ」と言いながら襲ってくる鬼だらけだった。ただの鬼ごっこになってしまったので、おびえた俺は店に入れなくなってしまい、デパートから逃げ出した。
 爽やかな服装をした男が目に飛び込んでくる。彼がどこのショップに向かうか尾行しようと思いついた。ポケットからワイヤレスイヤホンを取り出す。昔の流行の音楽が流れると、自然とその時代の出来事がよみがえってきた。

 中学三年生になると、ある女を好きになった。
 初恋だった。
 遅い初恋だったが、彼女を見る度に胸が壊れそうなほど思いを強くした。
 クラスの中で携帯電話を持っていなかったのは俺ぐらいだった。『今のご時世にラブレターなんて』と最初は思っていた。
 しかし、心には告白をしないと消化できない衝動が生まれていた。
 帰りに待ち伏せして「読んでください」と言い残し、ラブレターを渡した。そのラブレターには実家の電話番号を書いておいた。
「電話がかかってきたら、俺が出るからね」
 かっこつけて母に伝えた。
 鏡とにらめっこしていた母が、ゲームをしている俺に視線を向けた。
「どうしたの。生まれて初めて彼女でもできたの?」
 これでもかというぐらい目をまん丸くしながら言われてしまった。夕方にはいなくなるから、母が電話に出る機会は滅多にない。それはわかっていたが、言いたくてしょうがなかったんだ。
「そうだ。あれ買ってきたのよ。ちょうど良かった」
 三面鏡の引き出しから何かを取り出した。
「これこれ。プレゼント。大事にしなさいよ」
 それは、恋愛成就のお守りだった。と縫われていて、そこには、夫婦だかカップルだかの二羽の鳥が描かれている。『普通、こんなものを息子にプレゼントするか?』と呆れたものだが、それから常に肌身離さず携帯するようになった。
 母はキスするかのように近づいてきて、俺の目を見つめてきた。
「彼女、大事にしなさいよ」
 髪を甘噛みするように鷲掴みされて、微笑みを投げかけられた。その時、母の左目の下瞼にあるほくろを見て色気を感じてしまった。その頃の母は三十代の半ばだったが、母というよりはお姉さんのような存在だった。
「わかってるよ」
 急に恥ずかしくなった俺は、母の手を払いのけた。
「何、恥ずかしがってるのよ。ほんとに可愛い子」
 母は三面鏡の前に座り直し、鏡に向けて悪戯っぽい笑みを撒き散らしていた。

 次の日、学校に行き、下駄箱でサンダルに履き替えると、多くの視線に晒されているように感じた。俺に視線を刺した後は、勝ち誇ったように去っていく。
 視線がなぜだか心に突き刺さる。
 その視線には無言のメッセージが込められているような気がした。何十もの視線が刺さると、心は悲鳴をあげて足の震えに繋がった。
 下半身に力が入らない状態で教室に入る。すると、刺すような視線はなくなり、代わりに笑いだけが教室を包んだ。人を蔑み、優越感に浸るだけの汚い笑いだった。
 黒板を見ると、俺のラブレターが貼られていた。そこには、俺の書いた覚えのない『0点www』という文字が赤いマジックで書かれていた。
 そういうことか。
 俺は意外にも冷静だった。いや冷静というよりは、心が凍ってしまい機能が停止した状態だったのだろう。
 周りを見渡す。どれだけ笑えば気が済むんだ。腹を抱えて立っていられない奴もいる。
 ラブレターを送った女の机を見ると、十人ほどの男女が固まっていた。その集団の中心で俺の好きになった女も汚い笑みをこぼしている。
 なんで、こんな最低な女を好きになってしまったのだろう。
 そんな自分が悔しくて仕方なかった。
 その女の視線が心に刺さり突き抜けると、悲鳴を通り越して心が壊れてしまった。黒板に向かって猛然と駆け出した。ラブレターを握り締めると、怨念を込めながらビリビリに破り捨てた。
 その姿がよほど面白いのだろう。汚い笑いが背中全体の熱を上げるようにじっとりと伝わってくる。
 俺は振り返ると、一番近くにいた笑っている奴を平手打ちした。
 その瞬間、はじめて笑いが収まった。
 俺の頭の中では、笑った奴の残像が浮かび上がり、順番を決めて次々と平手打ちを食らわしてやった。
「パンッ、パンッ、パンッ」
 気持ち良い音に快感を覚えながら、じわじわと女に近づいていった。
「パンッ、パンッ」
 女の目の前に着く。恐怖で顔が引きっているが、瞳は確実に俺を捉えている。
 その女の左目の下瞼には、小さいほくろが存在した。
 そっか。                                                         
 近くでこの女の顔を見たことによって、初めて自分の知らない感情に気づいた。
 母と同じようなほくろがあったから好きになったのかもしれない。ほくろだけで錯覚してしまったようだ。
 ごめんね。母の代わりをあなたに求めてしまって。
 でも、恨みは果たします。
 親指から小指にかけて存在する、この世に俺しか持ち得ないこの指紋を、女のほっぺたに一生刻まれるように思いっきり平手打ちした。
「バチッ!」
 教室中に肌を叩く乾いた音が響き渡ると、瞬きさえも聞こえそうなほど静かになった。その空気に耐えられなくなり、教室から走り去った。
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