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2章 乳ロー

2-1 グリーン

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 待ち合わせ時間より、だいぶ早く着いてしまった。木の枝や葉、電柱や電線、建物の屋根など見渡してみる。フンをかけた小鳥はいなかったので安心した。
 モヤイ像は、今日もいつもの居場所で佇んでいる。色彩豊かで可憐なお花に囲まれているのは間違いではなかったが、よく見回してみると、少なくとも十種類以上の草花があり、その様相はプチジャングルといえるものだった。
 モヤイ像の後頭部を見ると、緑色のこけが生えていた。円になっているさくをぐるっと回ると、紫のスミレや赤のサルビアが目についたので匂いを嗅ぐ。小さな花々はなばなの爽やかな吐息がうっすらかかったので、緊張していた気持ちを落ち着かせてくれた。体勢たいせいを戻すと、モヤイ像の頭の上からタバコの煙が見えた。涼しげな表情をしているが、実は怒って湯気を出しているのではないかと錯覚する。
 モヤイ像を守るかのように煙のバリケードが施されていて、中に入るとタバコを吸っている人がチラホラ見える。彼らがあらゆる方向に放った煙によって、花々に貰った爽やかな気持ちが掻き消されてしまった。
 煙の中心には、看板とステンレス製の灰皿が見える。看板には、
――渋谷区分煙ルール
○歩行喫煙はしない
○たばこは決められた場所で吸う
 と書かれている。
「よ。待った?」
 肩を叩かれて振り向くとそこにはガリさんがいて、タバコを咥えようとしていた。
「あっと、お久しぶりです。びっくりしました」
 深緑色のアーミーパンツのポケットからジッポーを取り出すと、慣れた手つきで火をつけ、肺に至る隅々まで届くように深く吸い込んだ。
「やだやだ、自由にタバコの吸えない世界なんて。最近、吸える場所がホンマに減ってるんやわ。ワイたち喫煙者は犯罪者かよって思うこともあんねん」
「歩行喫煙だとやっぱり危ないですし、副流煙の問題もありますし、何より健康に悪いですからしょうがないですよ」
 近くの人の煙が目に入り、かゆみを感じて目をこする。
「まぁ、人に害を与えるのはあかんと思うけど、ワイのことは放っておいてほしいわ。タバコがないと生きていけない人種やからさ」
 ガリさんのタバコの先に灰がたまっている。素早くステンレス製の灰皿に落とし、愛おしそうに唇に戻すと、吹奏楽器で美しい音色を響かせるように空に向けて喉を震わしながら気持ち良さそうに煙を吐き出した。
 外見だけだとやはり伝説のナンパ師には見えない。顔を近くでよく見てみる。短髪を整髪料で無造作に寝かし、目は少し垂れ気味でちょっと無精髭ぶしょうひげを生やし、性欲が強そうな精悍せいかんな顔立ちだと感じた。
「ガリさんは、いつもモヤイ像前でナンパしてるんですか?」
 バリケードから出ると、咥えていたタバコを指でつまみ、少し離れたところでギターのチューニングをしているでっかい夢を持っていそうな青年を見ながら喋り出した。
「ちゃうちゃう。渋谷で完ソロのときだけモヤイ像前でやってるんや」
「かんそろって何ですか」
 ギターの青年は、耳をつんざくような音を撒き散らしている。
「完ソロっちゅうのは、誰とも絡まず一人きりでやるナンパのことをいうねん。ナンパ師の間では普通に使われてる用語やで」
「わかりました。『かんそろ』ですね」
 青年の路上ライブが始まった。近くでまばらに佇んでいた鳥たちが、わずかに暗がりの雲が見える東の空に向けて逃げるように飛んでいった。その中の一羽をよく見ると枯れ葉を纏ったような小鳥を発見。「あいつ、また俺を狙って隠れていやがったな」と独り言を漏らしていると、ガリさんが片耳を抑えながら口を開いた。
「お前って言うのも気が引けるから、名前をつけろや」
「名前をつける?」
「せや。ナンパ師はニックネームで名乗ることが多いねん。別に本名でもええけどさ。どないする?」
 俺は辺りを見渡す。光り輝く木々の緑が目に飛び込んでくる。産声をあげて間もない若々しい緑が、下を向いていては決して訪れない新たな希望と、決意をしたことによって生まれる眩しい未来の光を伝えようとしているように見えた。その緑をたずさえている木々がガリさんだとすると、俺はその根っ子の周りに生えている雑草のエノコログサ、俗称・猫じゃらしのようなものだと感じた。しかし、そのエノコログサを見つめると、小さいものの初々ういういしい緑を発している。
 今はまだ小さい緑しか発せられないが、いつかは大きな緑を送り届けることができる大きな男になりたいと思った。
「グリーンと呼んで下さい」
 俺の新しい名前が誕生した瞬間だった。
「グリーンね。よろしく。ほんなら、ナンパ祭の集合はモヤイ像前じゃないから移動するで」
  ガリさんは眉間に皺を寄せながら早足で歩き始めた。逃げた鳥たちと同じように、ダミ声をわめき散らしながら歌っている誰も聞かない路上ライブが耳障りだったのだろう。
 ポツンと置いていかれたので、慌てて追いかけ、まだ聞こえるダミ声の青年に負けないように大きな声で話しかけた。
「んで、ナンパ祭って、一体何なのですか!」
「ナンパ祭っちゅうのは、週に一度ナンパ師だけで集まり、モチベーションを上げてナンパをしようっていう企画なんや」
 そのまんまだな……。もっとひねったイベントかと思ったのだが。
「じゃ、今日は色々なナンパ師と会えるんですね」
「せやな。十人前後は来るんじゃないかな。とは言うても、来る途中でナンパがうまくいけば合流しないねん。幹事のワイでも何人参加するか把握がでけへん。皆、生粋のナンパ師やからな」
 鉄道による高架が見えてきた。くぐる途中には自販機やコインロッカーがあり、その隣では、パントマイマーがお世辞にもうまいとはいえない奇妙な動きをしていて人々から無視されている。路上を見ると、ガムの吐き捨てで生まれた黒い斑点が道路一面に付着していて、その模様を見ていると、心の中にはタバコを吸い続けたことによってできる真っ黒な肺が浮かんできた。
 信号待ちをしている人々の群れにさしかかり、縫うように歩きながら話しかけた。
「ガリさんは、どういうきっかけでナンパを始めたのですか」
「ナンパは学生時代からやってるで。きっかけとかは忘れちゃって覚えてないわぁ」
 ガリさんは人とぶつかりそうになるのを避けて、おでこを掻きながら答えた。
「そうですか……。お仕事は何をされてるのですか」
「リストラされちゃって派遣で食いつないでる。金がねぇから弟の家に居候中や」
 薄暗い高架を過ぎると、太陽の日射しが躊躇ちゅうちょなく真っすぐ目に飛び込んでくる。まぶしい光を手で遮りながら歩き続けると、清掃のおじさんと共に四基連なったゴミ箱が見えてきた。
「ナンパ祭と言ってましたけど、何でそんなイベントを立ち上げたんですか」
「んぁっ?」
 日本語で表示するには難しい言葉を発した後にニヤッと笑い、「ちょっと語っちゃうけどええ?」と確認してきたので、「どうぞどうぞ」と言うと、すぐさま決意した表情に変わり前を見据えて話し始めた。
「『セックスは男が何かを与え続けることで頂くもの、おなごはその見返りで与えるもの』、それはちゃうなと思ってんねん」
「はいはい」
「本来、セックスちゅうものは、もっと単純な構造で創られている。せやけど、現代人が勝手に難しいものに作り替えてしまったんや」
 ゴミ箱の側を通り過ぎると、小さいプレハブの宝くじ売り場が存在し、のぼりが緩やかな風に揺れている。
「『見返り』でセックスを与えることに慣れてしまうと、『何を私に与えてくれるんですか?』っていう図に乗ったアホなおなごが増殖して、結果的にセックスが減っちまって少子化が進むねん」
「はぁ」
 何を言っているんだ? という疑念が沸いたが、ガリさんは前を見つめたまま視線を外さない。
「このミッションに立ち向かうためにはどうすればええか? それは、もっとセックスをしたくなる男たちを創り上げることで万事解決するんやで。ポイントは、オスの本性を取り戻すことなんや。男の性欲の中心にテストステロンが増加して性欲がみなぎれば、見返りとか関係なく、おなごの方からうじゃうじゃと集まってくるんやから! 精神・肉体・性・人間関係・人生・全てのエネルギーの源がリビドー(性衝動・性的欲望)であり、そのリビドーを使いこなした人間がこの世界を制覇するんやから! ガルルルル……」
 ガリさんは白目になると、よだれを垂らしながら獲物を狙う獣のような表情に変わってしまった。
 こいつ、絶対ヤベェ奴じゃん……。
「ど、どうしたんすか。いきなり……」
「あかんあかん。つい興奮してもうた。とにかく、オスの本性を取り戻すための最良の方法がナンパなんや。ナンパっちゅうものはオスの覚醒を促してくれる。せやけど、近年、ナンパは減り続けてんねん……。令和時代の大学生において、ナンパ経験者は数%といわれとる。ワイは日本男児におけるゆくゆくの状況を案じてしまい、その大問題に立ち向かうためにナンパ祭を立ち上げたんや!」
 熱い視線を注ぐので目を合わしてみるとドヤ顔で喋り始めた。
「これからグリーンを男女関係における弱肉強食で決して負けない、草食ではなく強い優秀な肉食男に仕立てあげる。ゼロからみっちり叩き込んでやるから覚悟しろよ」
「あっ、ハイ……」
 そう答えるしかなかった。宝くじ売り場の周りではNo! Smokingの文字が目につき、人混みと雑音と異臭のなか、ハチ公像がうっすらと見えてきた。
「こけし職人になろうかと思ってるんやわ」
 ハチ公像の後方側の細い道はほとんど人がいなかったので、言葉が耳を通り過ぎるとすんなりと脳に到達した。ガリさんは、唐突に何を言ってんだろ? と思った。
「なんすか。急に話が変わりましたね」
「いや、さっき、グリーンが仕事の話をしたやん。せやから、ふと思い出しちゃってな」
 俺が何か慌てて言葉を発そうとすると、唇が動いたのでそれを待った。
「それより、こけしって知っとるか?」
 反応が鈍くて馬鹿にされてしまったのか、それはさすがに知っているという顔をつくり、手で仕草を加えて答えた。
「こういう感じで長細く、木の人形のやつでしょ」
「まぁ、間違ってないけど」と言ってから、少し首を傾け、黒目は左斜め上を向き「長細くないこけしもあるけどね」と続けた。
 ハチ公像の側には太い幹を携えたけやきが植えられていて、太陽の光で反射している。方々ほうぼうに広がった枝の先には薄い黄緑色の葉っぱがあり、それによって作られたまばらな影がガリさんの顔に映っていた。
「こけしは今では一種の美術品として扱われるようになったけど、本来は子どもの玩具として作られていたんや。ワイは、東北地方で江戸時代から伝統的に受け継がれてきたこけし作りの職人になりたいねん」
 影は、ガリさんの身体の上で少しずつ姿を変えて揺れている。
「ワイが小さい時、親がこけしを好きで集めていてな。その頃は嫌いで嫌いでしょうがなかったんや。でも、今になって、こけしによく使われている赤色が妙に落ち着くんやわ」
 赤と言われて探してしまった。側にある花壇を見ると、モヤイ像の丸い柵の中と同じように十種類以上の草花が植えてあり、太陽に挨拶をするように上を向いている。ツツジやパンジーがあり、名前の知らない赤い花を指さして訊いてみた。
「あの花のような赤ですか」
 その花を見ながら首を傾げた。ガリさんにかかっていた影は消えてしまい、代わりに太陽からの刺すような灯りに覆われている。
「こういう赤じゃないねん。木に塗られているこけしの赤って、顔の表情やおかしな造形も相まい、それと子どもの頃の思い出も含んでいるのかもしれんけど、赤子をあやす子守歌のような温かみを感じるんや」
 ガリさんの意外な一面を垣間見たような気がしてびっくりしてしまった。
 花壇の先には腐るほどいる多くの人々が激しく行き交い、その合間からは渋谷駅ハチ公改札口や交番がわずかに見えた。振り返り何歩か進むと、オーロラビジョンに照らされたスクランブル交差点に到着する。
 信号が青になると、ガリさんは歩き始めた。それを見ていた俺は一歩踏み出すのが遅れ、ふと横断歩道の縞模様が気になり目を奪われると、いつの間にか童心にかえりステップを踏んでいた。
 ケンケンパ
 ケンケンパ
 ケンパ・ケンパ・ケンケンパ!
 すると、スクランブル交差点の中心に着いた。
 調子に乗って手を広げてくるくる回ると、なぜだか無性に空を見たくなってしまった。
 渋谷の空ってこんなに青くて広かったんだ。
 都会の街で感じられる閉塞感や窮屈感から一気に解放されたように感じ、さらにはその青い広がりが心の自由をどこまでも許してくれそうな気にさせてくれた。その青空の大きさを全身で感じると、心の中で懐かしい風が通り過ぎていった。
 視線を空から段々と下げていくと、翡翠色の玉かんざしをバッグにぶら下げている女性が目に飛び込んでくる。その女性は黒髪がお尻に届きそうなほど長くて見惚みとれていると、惑わす黒髪が俺を誘うようにくうを舞った。その瞬間、玉に桜の花びらが描かれているかんざしからは風鈴のような音色が心の中で震わすように聞こえ、時空や感覚を超越してこだました。
「おい、グリーン。何突っ立ってんだよ!」
 非現実的な音色は現実的なガリさんの声によって掻き消された。ガリさんの元まで走っていき、すぐにこけしの話題を振った。
「ガリさんの作ったこけしを見てみたいです」
「ワイの作るこけしは完璧に決まってるやん。大人用のこけしも作るで。こけしのええところは大人の玩具にもなるところなんやで」
 と言いながら高笑いをしたが、冗談かどうかの判別ができず「何言ってるんスか、ガリさん」と反応しながら控えめに笑った。
「こけし職人になるって話、皆には言わないでね」
 悪戯っぽい表情を浮かべ、手を合わせて軽く謝るような姿で頼まれた。早くも俺とガリさんの間に秘密ができてしまった。
「ところで、グリーンはなんでナンパを始めようと思ったんや?」
 悩んでいると「信号、赤だね」とガリさんは言い、センター街に向けて走っていってしまった。追いかけてスクランブル交差点を渡り終えると、馬のような長い顔をしたギャルがアホづらを晒して撮影していた。その周りにはチャラ男やホスト系やキャッチらしき人物がウロウロ歩き、そこに突然グレーのジャケットを着てスケボーを乗り回す青年が颯爽と目の前を通り過ぎ、遠くの方では甲高い笛の音色が鳴り響いていた。
 ガリさんは振り返り、手招きしながら「こっちこっち」と言っている。
「ほんで、なんでなん?」
「えっ、何の話ですか?」
『ナンパを始めようと思った理由や』と言われる寸前に思い出し、「はいはいはい」と言いながら心の中で答えを模索する。
 緊張して、生唾を呑み込む。
「女を千人抱きたいからです。それを叶えるためには、ナンパしかないだろうと思って」
 一瞬の沈黙が訪れる。
 上から下まで舐めるように見られる。
「ふーん。ナンパ師としてはええ心がけやね。頑張れば、夢ではないと思うで」
のところだけ、強調された。そして、目があった瞬間、目尻を下げながら優しく笑われた。
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