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第1部
第4話
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母様の寝所へ着くと、扉が開き、白い肌の男が出てきた。
長身痩躯で色褪せたブロンドを撫でつけている。
解放奴隷出身のルセン議員だ。
彼は何の感情も読み取れない青い瞳で目礼し、足音もなく静かに去っていく。
あたしは、ルセンと視線を合わさないように目を逸らした。
「どうした? おばけでも見たような顔して」
ナリアが怪訝そうにあたしの顔を覗き込んでくる。
「べ、別にっ! 大体おばけって何? 子供扱いしないでよ!」
あたしは、ルセンが苦手なのだ。
でも、そんな怯えたように見えたなんて……もっと平然と流せるようにしなきゃ。
異質な血統や外見の者がどういう視線で見られるのか身をもって知っているあたしは、偏見から他人を判断しないようにしているつもりだ。
外国から買われて来た奴隷出身のルセンを出自で忌避している訳ではない。
ルセンを敬遠しているのは、彼に付きまとう噂が原因なのだ。
噂曰く、彼はラスチェク中の人間の秘密を知っているらしい。
奴隷たちにお金をばらまいて、情報を集める網を張り巡らしている、と囁かれているのだ。
奴隷が自由を得るためには、主の慈悲に縋るかお金で自由を贖うしかない。
例えわずかなお金と引き換えにでも、喜んで情報を提供する奴隷はいくらでもいるはず。
そして、奴隷はどんな場所にでもいるし、誰もその存在を気にしない。
噂が本当なら、どこにでもルセンの目や耳があるのだ。
あたしにも絶対に知られてはならない秘密がある。
もしそれが露見してしまったら、自分だけではなく母様の――カラノック家の失脚を招く事態になりかねない。
「母様、遅くなってごめんなさい」
「気にするな。今起き上がったところだ」
ほどよく甘みのある、白檀の香りが漂う寝所の中は、かすかに酸っぱい匂いがする。
母様、ラスチェク公シャラ・カラノックはお産を控えて最近いつも具合が優れない。
「お身体は大丈夫なの?」
「つわりがひどくてかなわんな。お前のときは、そうでもなかったのだが」
脂汗をかいていたのだろうか。
烏の濡れ羽色の髪が幾筋か額や頬に張りついている。
「私も若くはないと言うことか……」
あたしの目に映る母様は、物心ついた頃から何も変わっていないように見える。
10年前あたしがお腹にいたときは戦場で伝説に残る武勲を立てた母様だけど、「ラスチェク公もご懐妊されるにはいささかお年を召され過ぎた」と貴族たちの陰口を叩くのが耳に入ってくると、やはり不安を煽られてしまう。
「つわりの重さはご年齢とは関係ないと思われます。
ラスチェク公公のお腹に二人の御子が宿っておられるからでしょう。
でも、ご安心ください。母子共に安定しています。今しばらくのご辛抱ですよ」
ネサレテ先生は、眼鏡の奥から慈愛をたたえたまなざしを、母様とそのお腹に宿るきょうだいたちへ向けていた。
ネサレテ先生がこんな目で誰かを見る姿なんて他にはない。
別に嫉妬はしないけれど、あたしにももう少し優しくしてくれればいいのに。
医師としての先生はその知識や技術だけではなく、オグマから聖職者として授かった信仰呪文も使って治療を行う。
先生の信仰呪文を使う力はかなり高位のものらしい。
そんな先生がついているのだから、母様は大丈夫なのだ、とあたしは自分に言い聞かせる。
寝台から起き上がった母様は、奴隷たちの手で身なりを整えられていく。
母様が公の場に出るときはいつも軍装だった。
けれど、最近の母様は薄い絹のキトンを纏って人前に出るようになっている。
後2か月ほどで産み月を迎える母様のお腹は大きくなりすぎていて、胸甲をつけられないのだ。
「ナリア、お前は太刀持ちをしろ」
「はっ、はい! 拝命致しますっ! こ、こ、光栄の至りでありますっ!」
敬愛してやまない主君の前で、気の毒なくらい硬直しているナリアは、出来の悪いからくり人形のような動きで母様の愛剣を受け取った。
腰に剣帯を吊るせなくなり、剣を佩くことができない母様は、親衛隊である鮮血の盾に太刀持ちをさせている。
名家の一員とは言え、士官学校の学生に過ぎないナリアに命じる理由はない。
母様は結構あたしに甘いのだ。
身支度を整え終わった母様に付いて寝所から謁見の間へと向かう。
はるか頭上に見上げる、母様の艶やかな黒髪の上でミスリルのサークレット、チャズザー王の指輪が白い輝きを放っている。
サークレットなのに、どうしてリングと呼ばれているのかは分からない。
ドラゴン用の指輪は人間の頭にちょうどはめられるサイズなのかも、と想像するけれど、さすがに試させて欲しいと言う勇気はない。
それに加えて、母様の左手に携えられた巨大な深紅の盾、ティアマトの血の防壁は、チャズザーがチェセンタ王に即位する証として創り出した三種の王の聖遺物の一つだ。
残る最後の王の聖遺物、シンバーの王錫は都市国家エレボスの君主が所有しているらしい。
無数の都市国家や小公国が存在するチェセンタには、母様を含めて何人も”チェセンタの統治者”を名乗る君主が存在している。
けれど母様は、「チェセンタ人は常に競い合って自分たちの文化を築き上げてきた。一つの国としてまとまるなど、我々の気質には不向きなんだ」といつも言っている。
そもそも、生まれたときから欲しいものがすべて揃っているせいなのか、同じ立場の存在が誰もいないせいなのか、あたしには”競い合う”という行動がよく分からない。
だから、母様に他の都市国家を征服して”チェセンタの女王”になって欲しいとは思わないけれど、三種の王の聖遺物に飾られた姿を夢想することはある。
娘の身びいきだとしても、どんな君主よりも似合う気がするのだ。
長身痩躯で色褪せたブロンドを撫でつけている。
解放奴隷出身のルセン議員だ。
彼は何の感情も読み取れない青い瞳で目礼し、足音もなく静かに去っていく。
あたしは、ルセンと視線を合わさないように目を逸らした。
「どうした? おばけでも見たような顔して」
ナリアが怪訝そうにあたしの顔を覗き込んでくる。
「べ、別にっ! 大体おばけって何? 子供扱いしないでよ!」
あたしは、ルセンが苦手なのだ。
でも、そんな怯えたように見えたなんて……もっと平然と流せるようにしなきゃ。
異質な血統や外見の者がどういう視線で見られるのか身をもって知っているあたしは、偏見から他人を判断しないようにしているつもりだ。
外国から買われて来た奴隷出身のルセンを出自で忌避している訳ではない。
ルセンを敬遠しているのは、彼に付きまとう噂が原因なのだ。
噂曰く、彼はラスチェク中の人間の秘密を知っているらしい。
奴隷たちにお金をばらまいて、情報を集める網を張り巡らしている、と囁かれているのだ。
奴隷が自由を得るためには、主の慈悲に縋るかお金で自由を贖うしかない。
例えわずかなお金と引き換えにでも、喜んで情報を提供する奴隷はいくらでもいるはず。
そして、奴隷はどんな場所にでもいるし、誰もその存在を気にしない。
噂が本当なら、どこにでもルセンの目や耳があるのだ。
あたしにも絶対に知られてはならない秘密がある。
もしそれが露見してしまったら、自分だけではなく母様の――カラノック家の失脚を招く事態になりかねない。
「母様、遅くなってごめんなさい」
「気にするな。今起き上がったところだ」
ほどよく甘みのある、白檀の香りが漂う寝所の中は、かすかに酸っぱい匂いがする。
母様、ラスチェク公シャラ・カラノックはお産を控えて最近いつも具合が優れない。
「お身体は大丈夫なの?」
「つわりがひどくてかなわんな。お前のときは、そうでもなかったのだが」
脂汗をかいていたのだろうか。
烏の濡れ羽色の髪が幾筋か額や頬に張りついている。
「私も若くはないと言うことか……」
あたしの目に映る母様は、物心ついた頃から何も変わっていないように見える。
10年前あたしがお腹にいたときは戦場で伝説に残る武勲を立てた母様だけど、「ラスチェク公もご懐妊されるにはいささかお年を召され過ぎた」と貴族たちの陰口を叩くのが耳に入ってくると、やはり不安を煽られてしまう。
「つわりの重さはご年齢とは関係ないと思われます。
ラスチェク公公のお腹に二人の御子が宿っておられるからでしょう。
でも、ご安心ください。母子共に安定しています。今しばらくのご辛抱ですよ」
ネサレテ先生は、眼鏡の奥から慈愛をたたえたまなざしを、母様とそのお腹に宿るきょうだいたちへ向けていた。
ネサレテ先生がこんな目で誰かを見る姿なんて他にはない。
別に嫉妬はしないけれど、あたしにももう少し優しくしてくれればいいのに。
医師としての先生はその知識や技術だけではなく、オグマから聖職者として授かった信仰呪文も使って治療を行う。
先生の信仰呪文を使う力はかなり高位のものらしい。
そんな先生がついているのだから、母様は大丈夫なのだ、とあたしは自分に言い聞かせる。
寝台から起き上がった母様は、奴隷たちの手で身なりを整えられていく。
母様が公の場に出るときはいつも軍装だった。
けれど、最近の母様は薄い絹のキトンを纏って人前に出るようになっている。
後2か月ほどで産み月を迎える母様のお腹は大きくなりすぎていて、胸甲をつけられないのだ。
「ナリア、お前は太刀持ちをしろ」
「はっ、はい! 拝命致しますっ! こ、こ、光栄の至りでありますっ!」
敬愛してやまない主君の前で、気の毒なくらい硬直しているナリアは、出来の悪いからくり人形のような動きで母様の愛剣を受け取った。
腰に剣帯を吊るせなくなり、剣を佩くことができない母様は、親衛隊である鮮血の盾に太刀持ちをさせている。
名家の一員とは言え、士官学校の学生に過ぎないナリアに命じる理由はない。
母様は結構あたしに甘いのだ。
身支度を整え終わった母様に付いて寝所から謁見の間へと向かう。
はるか頭上に見上げる、母様の艶やかな黒髪の上でミスリルのサークレット、チャズザー王の指輪が白い輝きを放っている。
サークレットなのに、どうしてリングと呼ばれているのかは分からない。
ドラゴン用の指輪は人間の頭にちょうどはめられるサイズなのかも、と想像するけれど、さすがに試させて欲しいと言う勇気はない。
それに加えて、母様の左手に携えられた巨大な深紅の盾、ティアマトの血の防壁は、チャズザーがチェセンタ王に即位する証として創り出した三種の王の聖遺物の一つだ。
残る最後の王の聖遺物、シンバーの王錫は都市国家エレボスの君主が所有しているらしい。
無数の都市国家や小公国が存在するチェセンタには、母様を含めて何人も”チェセンタの統治者”を名乗る君主が存在している。
けれど母様は、「チェセンタ人は常に競い合って自分たちの文化を築き上げてきた。一つの国としてまとまるなど、我々の気質には不向きなんだ」といつも言っている。
そもそも、生まれたときから欲しいものがすべて揃っているせいなのか、同じ立場の存在が誰もいないせいなのか、あたしには”競い合う”という行動がよく分からない。
だから、母様に他の都市国家を征服して”チェセンタの女王”になって欲しいとは思わないけれど、三種の王の聖遺物に飾られた姿を夢想することはある。
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