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第1部
第1話
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『“数多の戦の英雄”シャラ・カラノック、神竜チャズザーを弑し奉る』は、都市国家ラスチェクで一番人気の舞台劇だ。
未だあたしがお腹の中にいた10年前、母様がラスチェク公の地位を取り戻した戦いの顛末を描いた物語。
もう、何回観たのか覚えていないくらい上演されている。
舞台の上では、燃え滾る炎さながらに紅いドラゴンが咆哮し、観客たちの鼓膜を震わせていた。
ドラゴンに挑むシャラ・カラノックを演じているのは、角張った顎が目立つ女優。
母様役はこの役者の十八番になっている。
娘としては、もう少し実像へ寄せた美形を配役して欲しいところだ。
とは言え、何十段もの客席がある円形劇場では、前方の席以外から顔なんて満足に見えるものではない。
役者にもっとも必要とされるのは、劇場中へ響き渡る声なのだろう。
小柄で顔立ちも本物とは似つかない母様役だけれど、たしかに舞台の上では英雄に見えている。
バードの言の葉には、現実を超えた世界へと観衆を誘う、魔法の力が宿っているのだ。
母様役が被る兜の、三日月形をした牡牛の角飾り。
その周りを、ゆったりと旋回する黒い拳大の球体。
ゆらめきながら宙を漂う球には、操る糸などは見当たらない。
陽光の下でも昏いそれは、闇を凝縮した塊に見える。
勿論、レッド・ドラゴンも、ゆらめく球体――チェセンタの至宝も呪文で作り出された幻であって本物ではない。
「知ってる? 本当のチャズザーはあの何倍も大きいんですって。条件作動虚像の呪文では30立方フィートまでの幻しか作れないんだよ」
あたしは家庭教師のネサレテ・グレイス先生から聞きかじった蘊蓄を口にした。
都市国家ヘプティオス出身の哲学者で数学者、医師でもあるネサレテ先生は、頭の中に図書館が入っているのでは、と真剣に勘繰りたくなるすごい人なのだ。
「さっきからうるさいなぁ。静かにしてくれよ。ここからが一番の見せ場なんだ」
恋人のナリア・チェスが小声でたしなめてくる。
彼女にもたれかかっておしゃべりを続けるあたしへの態度はかなりそっけない。
あたしだって、舞台と同じ高さにある貴賓席にいるときは、公女にふさわしい振る舞いを心がけている。
だけど、母様のご不在で一般の観覧席にいる今日は、人の目を気にする必要なんてないのだ。
「お尻が痛くなってきちゃった。膝の上に乗っていい?」
舞台前方の半円形の平土間を囲む最前列は、一般とは言っても、豪華な背もたれが付いた貴族のための特別席。
それでも、大理石の座席へ直に腰かけるのは、天鵞絨の茵付きの貴賓席と違いかなり硬く座り心地が悪い。
舞台を見上げ続けているのも思いのほか首がつらいのだ。
「はぁ? 何言ってるんだよ。自分の重さを考えてくれ」
何ですって!?
そんなに痩せてる方じゃないけど、言い方ってものがあるでしょ。
がぶっ。あたしは、ナリアの肩に軽く噛みついた。
「痛てっ! やめろよ! 君の牙は本当に鋭いんだぞ」
オークの血を引いているあたしには、下唇からちょっとだけ突き出す牙が生えている。
別に本気で噛んだわけじゃなくても多少は痛いかもしれない。
「構ってくれないきみがいけないんだからね」
ナリアは少し涙目になって噛まれた痕をおさえている。
大げさだなぁ。
あくまで抵抗する構えなら、少し揺さぶりをかけてやろう。
彼女の耳たぶをぺろっと舐めると、短く切り揃えられた黒髪がさらさらとあたしの顔をくすぐった。
間近で見る彼女の琥珀色の頬は紅く染まっている。
「いつも私が君のペースに付き合うと思うなよ」
ナリアはむんっと口を引き結び、腕組みをしたまま背筋を伸ばした。
視線は舞台の上から動かない。
「じゃあ、これはどう?」
あたしはナリアの筋肉質な右腕を取って、両脚の間に挟み込んだ。
簡単に抜けないよう、ぎゅっと太ももを閉じる。
彼女の肌が当たっている感触が太ももの内側に、薄い絹一枚を通して、もっと敏感なところにも伝わってきた。
「こんな場所で何考えてるんだ……みんなに見られちゃうだろ……」
「誰も他の客席なんて見てないよ」
答えるあたしの声は少しかすれていた。
今日は何にも邪魔されず、一日中ナリアといちゃいちゃするんだ。
ご馳走をいっぱい食べて、聖デュオニソス修道会のワインを飲んじゃったりして。
お酒に酔えば、いつもよりもっと大胆になれちゃうかも。
明日の朝は思いっきりお寝坊しよう。
起きたら一緒にご飯を食べて、またお昼寝するんだ。
ふふ、幸せだなぁ。
「ヴィムル・バーディス・カラノック公女閣下、ラスチェク公がお召しでございます」
いつの間にか足元に男が跪いていた。
腕に革紐を巻いているのは奴隷の証だ。
いきなり邪魔が入ってしまった。
「あーあ。母様がお呼びなんですって。行かなくちゃ」
あたしはナリアの手を掴んで席を後にした。
「ラスチェク公がお呼びなのは君なんだろ? 私は遠慮して……おい! ちょっと! 引っ張るなよ!」
なんか言っているけど、無視して観客席の間の階段を駆け上がって行く。
「もうっ! 何で止まるの!?」
途中でナリアが立ち止まったおかげで、あたしは躓いてしまう。
前の階段へ片手をつき、みっともなく転ぶ羽目だけは何とか回避した。
むっとして振り向くと、ナリアは、チェセンタの至宝から放たれた黒い光を受け消滅するチャズザーの幻像に見とれていた。
チャズザーの幻は光の粒になり、陽光の中へ溶けていく。
お芝居は何度だって再演されるけれど、本当にあの光で命を奪われた者は魂すら残らない。
アンサー帝国の植民地だったチェセンタを独立へ導き、王となったチャズザーは90年間統治したのち神位に昇った。
その後、レッド・ドラゴンの姿で何度も地上に降臨している。
そんな神竜ですら、もはやどの次元界にも存在していないのだ。
未だあたしがお腹の中にいた10年前、母様がラスチェク公の地位を取り戻した戦いの顛末を描いた物語。
もう、何回観たのか覚えていないくらい上演されている。
舞台の上では、燃え滾る炎さながらに紅いドラゴンが咆哮し、観客たちの鼓膜を震わせていた。
ドラゴンに挑むシャラ・カラノックを演じているのは、角張った顎が目立つ女優。
母様役はこの役者の十八番になっている。
娘としては、もう少し実像へ寄せた美形を配役して欲しいところだ。
とは言え、何十段もの客席がある円形劇場では、前方の席以外から顔なんて満足に見えるものではない。
役者にもっとも必要とされるのは、劇場中へ響き渡る声なのだろう。
小柄で顔立ちも本物とは似つかない母様役だけれど、たしかに舞台の上では英雄に見えている。
バードの言の葉には、現実を超えた世界へと観衆を誘う、魔法の力が宿っているのだ。
母様役が被る兜の、三日月形をした牡牛の角飾り。
その周りを、ゆったりと旋回する黒い拳大の球体。
ゆらめきながら宙を漂う球には、操る糸などは見当たらない。
陽光の下でも昏いそれは、闇を凝縮した塊に見える。
勿論、レッド・ドラゴンも、ゆらめく球体――チェセンタの至宝も呪文で作り出された幻であって本物ではない。
「知ってる? 本当のチャズザーはあの何倍も大きいんですって。条件作動虚像の呪文では30立方フィートまでの幻しか作れないんだよ」
あたしは家庭教師のネサレテ・グレイス先生から聞きかじった蘊蓄を口にした。
都市国家ヘプティオス出身の哲学者で数学者、医師でもあるネサレテ先生は、頭の中に図書館が入っているのでは、と真剣に勘繰りたくなるすごい人なのだ。
「さっきからうるさいなぁ。静かにしてくれよ。ここからが一番の見せ場なんだ」
恋人のナリア・チェスが小声でたしなめてくる。
彼女にもたれかかっておしゃべりを続けるあたしへの態度はかなりそっけない。
あたしだって、舞台と同じ高さにある貴賓席にいるときは、公女にふさわしい振る舞いを心がけている。
だけど、母様のご不在で一般の観覧席にいる今日は、人の目を気にする必要なんてないのだ。
「お尻が痛くなってきちゃった。膝の上に乗っていい?」
舞台前方の半円形の平土間を囲む最前列は、一般とは言っても、豪華な背もたれが付いた貴族のための特別席。
それでも、大理石の座席へ直に腰かけるのは、天鵞絨の茵付きの貴賓席と違いかなり硬く座り心地が悪い。
舞台を見上げ続けているのも思いのほか首がつらいのだ。
「はぁ? 何言ってるんだよ。自分の重さを考えてくれ」
何ですって!?
そんなに痩せてる方じゃないけど、言い方ってものがあるでしょ。
がぶっ。あたしは、ナリアの肩に軽く噛みついた。
「痛てっ! やめろよ! 君の牙は本当に鋭いんだぞ」
オークの血を引いているあたしには、下唇からちょっとだけ突き出す牙が生えている。
別に本気で噛んだわけじゃなくても多少は痛いかもしれない。
「構ってくれないきみがいけないんだからね」
ナリアは少し涙目になって噛まれた痕をおさえている。
大げさだなぁ。
あくまで抵抗する構えなら、少し揺さぶりをかけてやろう。
彼女の耳たぶをぺろっと舐めると、短く切り揃えられた黒髪がさらさらとあたしの顔をくすぐった。
間近で見る彼女の琥珀色の頬は紅く染まっている。
「いつも私が君のペースに付き合うと思うなよ」
ナリアはむんっと口を引き結び、腕組みをしたまま背筋を伸ばした。
視線は舞台の上から動かない。
「じゃあ、これはどう?」
あたしはナリアの筋肉質な右腕を取って、両脚の間に挟み込んだ。
簡単に抜けないよう、ぎゅっと太ももを閉じる。
彼女の肌が当たっている感触が太ももの内側に、薄い絹一枚を通して、もっと敏感なところにも伝わってきた。
「こんな場所で何考えてるんだ……みんなに見られちゃうだろ……」
「誰も他の客席なんて見てないよ」
答えるあたしの声は少しかすれていた。
今日は何にも邪魔されず、一日中ナリアといちゃいちゃするんだ。
ご馳走をいっぱい食べて、聖デュオニソス修道会のワインを飲んじゃったりして。
お酒に酔えば、いつもよりもっと大胆になれちゃうかも。
明日の朝は思いっきりお寝坊しよう。
起きたら一緒にご飯を食べて、またお昼寝するんだ。
ふふ、幸せだなぁ。
「ヴィムル・バーディス・カラノック公女閣下、ラスチェク公がお召しでございます」
いつの間にか足元に男が跪いていた。
腕に革紐を巻いているのは奴隷の証だ。
いきなり邪魔が入ってしまった。
「あーあ。母様がお呼びなんですって。行かなくちゃ」
あたしはナリアの手を掴んで席を後にした。
「ラスチェク公がお呼びなのは君なんだろ? 私は遠慮して……おい! ちょっと! 引っ張るなよ!」
なんか言っているけど、無視して観客席の間の階段を駆け上がって行く。
「もうっ! 何で止まるの!?」
途中でナリアが立ち止まったおかげで、あたしは躓いてしまう。
前の階段へ片手をつき、みっともなく転ぶ羽目だけは何とか回避した。
むっとして振り向くと、ナリアは、チェセンタの至宝から放たれた黒い光を受け消滅するチャズザーの幻像に見とれていた。
チャズザーの幻は光の粒になり、陽光の中へ溶けていく。
お芝居は何度だって再演されるけれど、本当にあの光で命を奪われた者は魂すら残らない。
アンサー帝国の植民地だったチェセンタを独立へ導き、王となったチャズザーは90年間統治したのち神位に昇った。
その後、レッド・ドラゴンの姿で何度も地上に降臨している。
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