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1章
27-1. 聖誕祭 ロイド
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最初は、春を迎える祝いのお祭りに、やりそびれていた有瓜、シャーリー、アンの誕生祝いと、新年祭をまとめてやろうという企画だった。
でもそこに、
「義兄さんの誕生日を仲間外れにしちゃ悪いですよね」
という有瓜のひと声があって、俺の誕生祝いもそこに加わった。
さらに、
「だったら、ゴブリンたちも仲間外れにしちゃ悪いんじゃないのか?」
俺がとくに何も考えずに言ったその返事から、ゴブリンたち全員の誕生祝いも加えられることになった。
こうなるともう、何のお祝いか分からなくなる。結局、色々と引っくるめて「俺たち全員の新しい門出を祝う会」ということになった。なお、祭りの名称については紛糾中のままである。俺は個人的に、聖誕祭かな、と思っている。お祝いするためだけのお祝いという感じが、日本的な聖誕祭だな、と思うからだ。
名称のことは別にして、ゴブリンたちも俺たち(というか有瓜)の召喚あるいは勧請を祝うことには大賛成で、祭りの準備は総出で行われた。そのおかげで、祭りの準備は俺が想定していたよりもずっと早く進んだ。
そういえば準備を進めるなかでひとつ、重要だけどとくに緊急性のない事実を姉妹二人に伝え忘れていたことが明らかになった。
「あの、お二人に聞きたかったんですけど……」
アンがそう言って俺たちに切り出してきた。
「どうした?」
「これまでは聞かないほうがいいのかと思って聞かないでいたんですけど、この前の話でロイドさんのほうから、まるで当然のことのように話題に出していたので、もう思い切って聞くんでけど……」
そんな長い前置きをして告げられたのは、
「ロイドさんとアルカさんは、どうしてゴブリンさんたちと一緒に暮らしていたんですか? この前、祭壇から出てきた、って言ってましたけど、それってどういう意味なんですか?」
「え……あ、あれ? 俺たち、その話してなかった……か?」
唖然とした顔で聞き返した俺に、アンは申し訳なさそうに首肯した。
――という一幕があったりもしたが、準備そのものは悪戦苦闘、四苦八苦しつつも、しかして急調で進んだのだった。
そしていよいよ訪れた開催当日は、季節が冬から春へと塗り替わっていることをはっきり感じさせる好天気だった。とはいっても、祭りを催すのは洞窟最深部の祭壇なので、天気はあまり関係なかったりする。
最近は洞窟内の浅いところにもシャーリーとアンのために灯明(油皿に芯を差した簡易アルコールランプのようなもの)が置かれるようになっていたけれど、あくまでも浅いところを薄らと照らすだけだった。
最初はその灯明を洞窟深部までずらりと並べて光の道を作ろうとしたのだけど、そんなの大量の灯明を用意できなかったために断念。結局、ゴブリン数名に松明を持たせて、みんなで奥まで移動することにした。
同様の理由から、祭壇の明りも灯明ではなく、松明を鍋に入れて作った即席の篝で代用している。要するに、俺と有瓜が最初にここへ召喚されたときと同じ照明状況だ。けれども、揺らめく炎の明りに照らし出される光景は、あのときとは確かに違っていた。
あのときのゴブリンたちに、戦士とそうでないものの外見的な違いはほとんどなかった。少なくとも、何も知らなかった俺たちがぱっと見で見分けられるような体格差はなかった。それがいまは、戦士と忍者ではプロレスラーと中学生くらいの差があって、違いは一目瞭然だ。シャーリーとアンの二人が増えているという変化は、言わずもがなだ。
一方で、俺と有瓜の姿はあのときと大して変わっていない。最近は村から頂戴してきた貫頭衣に毛皮をまとった装いで過ごしていたのだけど、今日は二人とも懐かしの制服姿だ。大分くたびれてしまったけれど、制服の生地や縫製、それにデザインは、姉妹にとってもゴブリンらにとっても非日常的で、祭りの装束にこれ以上相応しいものはないと言われたからだった。
「うぅ……寒いです……」
半袖ブラウスと丈の短いプリーツスカートで、腕も足もほぼ剥き出しの有瓜は、自分を抱き締めてぶるぶるっと身を震わせる。いちおう肩に毛皮を羽織って、腰にも毛皮を巻いているのだけど、気休めにしかなっていないようだった。
祭壇がなまじ広くて天井も高いため、篝火をいくつも焚いているのに肌寒さは拭えていなかった。
「始まるまで火のそばにいるといい」
「そうさせてもらいます」
「……いや、俺も一緒に温まる」
俺も有瓜と一緒に篝のそばまでいって、身体を温めた。
「あー……これ、焼き芋したくなりますね」
「すごいな、おまえ。俺はこれから歌うのかと思うと、緊張で食欲なんか沸かないぞ」
「あ、わたしだって緊張くらいしてますよ。でも、緊張とお芋は別腹なんですぅ」
「緊張が胃に来ないタイプか。初めて知ったよ」
「兄妹の仲が深まりましたね♥」
「は……」
有瓜の笑顔に俺は一瞬鼻白んだけれど、すぐにいまのが俺の緊張を解すための軽口だったのだと気がついた。妹に気遣われているようじゃ、兄の威厳は形無しだな……っと、もうとっくに形無しだったか。
「……有瓜はすごいな」
「まあ、そこそこに」
「そうか」
有瓜が冗談めかして笑うから、俺もつられて少し笑った。
俺たちがこうして緊張を解しつつ出番待ちしている間にも、ゴブリンたちは祭壇に運んできた食事の配膳や、楽器の設置や音の確認に――と奔走していた。なお、夜目の利かない姉妹二人は、別の篝火に当たって大人しくしていた。
楽器は前述した通りの太鼓――的なものと、その他の細々した打楽器だ。
このあたりでは革というと毛を残したまま鞣した、いわゆる毛皮が一般的だが、毛を処理してツルツルにした革もそれなりに用いられていた。けれども、そうした革は太鼓の皮としては柔らかすぎていた。そこで村人たちに頼んで、物置や納屋で眠っていた古くなって乾燥した革を集めて譲ってもらい、その中から運良く張りと粘りを残したまま硬くなっているものを選び出したのだった。
ちなみにその対価として差し出したのは、冬の間にゴブリンたちが狩っていた剣角鹿の男性器で作った塩漬けだ。これと同格の精力剤と言われている大牙猪の睾丸がいかに強力なものなのかは、実際に体験した有瓜が村人たちに証言してくれた。もっともその証言がなくとも、あの物騒な鹿の睾丸と陰茎は高価な精力剤として有名だったようで、村人たちは二つ返事で古い革の束と男性器の塩漬けを交換してくれたのだった。
さて――祭壇の準備が整った。祭りの始まりだ。
今更だけど祭壇がどういう場所なのかというと、石のようでも金属のようでもある質感の真っ平らな床をした円筒形のドームだ。壁や天井は自然の岩肌が剥き出しになっているけれど、巨大マンホールのような円盤状の床は明らかに人工物だ。だからこそ、ここを広場ではなく祭壇と呼んでいるのだ。
俺たちは祭壇の中央付近――俺と有瓜が現れた辺り――を囲むように車座になって胡座を掻いた。篝火は、その俺たちのさらに外側を囲むように配置されている。
俺たちが作った輪の中央には有瓜が一人、蹲っている。篝火の明りは届いているけれど、たぶん熱までは届いていないので寒いと思われる。だけど、さっきまで火の傍でさえ寒さを訴えていた有瓜なのに、いまは石ころのように蹲ったまま身動ぎひとつしないでいる。
輪の中心にいる有瓜の沈黙が波紋のように広がってくる。俺たちは固唾を呑むことさえ忘れて、次の瞬間をじっと待った。
音が消えていく。
身動ぎ、呼吸、瞬き――肉体に起因する全ての音が消えて、火の燃える音がやけに大きく響いたその瞬間、有瓜が動いた。
蹲っていた姿勢から一気に跳ね上がる。村との交流が始まって以来、やっと手入れされるようになった黒髪が舞い上がり、短いスカートが翻る。その髪とスカートが重力に従うよりも早く、有瓜は次のステップを踏んで、この空間に全身で音楽を刻み始めた。
有瓜の動き出しに遅れること三拍の後、用意していた太鼓と、それに類したものを前にして身構えていたゴブリンたちが、事前に練習していた通りのタイミングでそれぞれの楽器に手を叩きつけて、リズムを打ち鳴らし始めた。
丁度良い皮がそれしか手に入らなかったために、ひとつしかない大太鼓(あるいはコンガ。樽に皮を張ったもの)を手で叩いて鳴らす、低くて膨らみのある響き。桶をひっくり返しただけのものを手で鳴らす、少し高くて短い響き。素焼きの壺を指で細かく叩く、雨垂れのような響き――。
一定のリズムを保持して連なりながら祭壇を満たしていく響きの重なり。それは確かに音楽だった。
広大な空間に刻まれるリズムと舞いに、俺は忘我の面持ちで見とれていたけれど、瞬間、有瓜と目が合った。それで、はっと我に返った俺は、ぎりぎり遅れずに歌い始めた。
最初の一声は驚いて飛び出しただけの調子外れなものだったけれど、声を出したことで躊躇いが吹っ切れた。後はもう、リズムが満ちたなかに自分の声が響いていく高揚感に導かれるまま、腹の底から声を張り上げて歌った。
俺が歌ったのは、とある昭和の唱歌だ。俺たちが通っていた高校では、体育祭や文化祭の最後にその唱歌を合唱するという仕来りがあって、そのせいで生徒は全員、その唱歌を通して歌えるのだった。
祭りで歌うのには悪くないだろうと思っての選曲だったけれど、実際その通りだった。
音楽堂のような祭壇に響く、原始的な打楽器の響き。そこに、独特のどこか物悲しい曲調をした唱歌が重なると、まるでこの祭壇全体がひとつの巨大な音楽機械なのだというような錯覚に陥るほどだった。
自分という存在が音楽に溶けていく。
身体という空洞から響き出る音が周囲のリズムに溶け、渾然となって空間を満たす心地よさはいっそ官能的でもあり、俺はこのときを生涯忘れないだろうと確信できるほどに神懸かっていた。
有瓜の舞いもまた、神懸かっていた。いや、有瓜の舞いがあったからこそ、俺たちの響かせる歌や音も神々しいものに昇華されたのだろう。
有瓜は夏用の制服に素足という寒そうな出で立ちで踊っている。振り付けは「アドリブ過多のオリジナルです」だということだが、ときに大きく跳ねるように、ときに緩りと流れるように舞う姿からは、微塵の戸惑いも感じられない。もし有瓜から聞いていなかったから、最初からそういう型の踊りなのだと当然のように思っていたことだろう。
巫女という肩書きに相応しい、優美にして幽玄な一差しだった。
俺の歌が終わる。間に合わせの太鼓やその他の音色も、高い天井に残響を転がしながら止んでいく。そして有瓜が、最初と同じように蹲って動きを止めた。
全ての音と動きが消えて、篝火の揺らめきだけが陰影に小波を打たせている。
ゴブリンたちは歓声ひとつ上げない。息をするのも憚れる静謐のなか、唯々、滂沱たる涙を流していた。
その光景を俺は最初、それも当然か、と素直に受け取った。
――それから一拍遅れて、驚いた。
ゴブリンたちが泣いているのだ。それも、痛みや恐怖からではなく、感動に胸を打たれて泣いているのだ。
歯に衣着せない言い方をすれば、俺はゴブリンたちに芸術を愛でる心があるとは思っていなかった。もっと即物的な生き物だと決めつけていた。有瓜を巫女として崇拝しているのだって、端的に言うなら「ヤらせてくれるから」だと思っていた。
だけどいま、泣いているゴブリンたちの表情を見れば、自分の思い込みが間違いだったのだと、ごく自然に認められた。
彼らには芸術を解する心がある。感動に打ち震えて涙する心がある。彼らは――ゴブリンは人の似姿をした怪物ではない。ゴブリンという人種の、人なのだ。
べつにこれまでも彼らのことを怪物扱いしてきたつもりはないけれど、それでも、彼らと自分は全く違う生き物だ、と無意識に思っていた。
その無意識が、いま、切り替わった。有瓜が切り替えたのだ。
「……有瓜、すごいな」
口を衝いたのは、そんな一言だ。
確かに俺も歌ったし、ゴブリンたちが即席の太鼓を叩いたりもした。でも、そんなのはどっちもただの舞台装置だ。その全てが、有瓜の神秘性を引き立たせるための添え物でしかなかった。
俺は――いや、全員が有瓜に見とれていた。舞いはとうに終わって有瓜は顔を伏せて蹲っているきりだけど、誰もが目を離せずにいた。
はらりと落ちた髪の一房にすら、誰かが息を呑む。いや、俺か? 俺が息を呑んだのか?
ごくりと誰かの喉が鳴る。はっと誰かが息を呑む。ほぅ、と誰かが吐息を漏らす。いや、全部俺か? 自分の意識が身体から三分の一くらい前のめりに抜け出しているみたいで、自分がいまどうなっているのか分からなくなっている。
熱に浮かされたような――とは、こういう感覚のことを言うのか。
「あ……」
有瓜はほとんど吐息のような声を漏らすと、ゆっくりと揺らめくように顔を上げていく。そのさり気ない所作から目が離せない。
「あ、あぁ……も……」
唇から染み出る掠れた声が、何かを訴えている。彷徨う視線は何かを探し求めている。
「も……もう、我慢できない……」
視線が俺たちを見つけた。
「お願い……身体、熱いの……来て」
潤んだ瞳、気怠げに開かれた唇から漏れる湿った吐息と、ちらり覗く桃色の舌。
そのときようやく、祭壇を満たしていた神々しさがいつの間にか、噎せるような淫靡さに変容していたことに気づいた。
この場はもう有瓜の胎内だ。有瓜の吐息ひとつで、空気の色は如何様にも変わる。俺たちもまた、この場に漂う空気のひとつ。有瓜の瞬きひとつで、心の有り様が変わる――。
先ほどまで胸を満たしていた畏敬の念は、身を焦がすような劣情に塗り替えられていた。
「ね……早くぅ……」
聞いただけで、耳の奥を羽毛で撫でまわされるような官能が走る。脳髄が蕩け、腰が砕けそうになる。股間に全身の血が注ぎ込まれる。
――いやいや、待て待て。
劣情の本流に身投げする寸前、崖っぷちで俺は踏み止まった。
相手は有瓜だぞ。義理とはいえ、妹だぞ。この世界ではたった二人きりの家族だぞ。肌を重ねてしまった後も、家族でいられるのか?
「……!」
理性の発した問いは、沸騰していた脳に針となって冷たく刺さった。
股間は変わらずに劣情の解放を求めて疼いているけれど、意識は戻ってきた。夢から覚めたような――と言うほどはっきりはしていないけれど、夢から覚めようとする思考が働く程度には覚醒していた。
眠気を押して早起きしようとしているような感覚だ。少しでも気力を手放せば、再び劣情の水底に身体は沈んでしまうだろう。
目を覚ませない。でも覚まさなくては――。
俺がそうして葛藤していた僅かな時間の内に、ゴブリンたちは有瓜に殺到していた。ゴブリンたちは股間を刺激する淫蕩な空気を、無抵抗で胸いっぱいに吸い込んでいたようだった。
「――あっ! あっ……ふああぁ♥」
ゴブリン過密地帯の中心から、有瓜の蜜を滴らせるような蕩け声がする。声だけで姿は見えないけれど、どういうことになっているのかは容易に想像できた。そしてまた、有瓜が望んでこうなったのだということも。
「有瓜……おまえ、そんなにセックス我慢できなかったのか……」
俺の義妹はあんなに神秘的な舞いを踊りながら、ずっと発情していたのかと思ったら――
「……ふ……ふふっ」
なぜか安堵の笑いが込み上げてくるのだった。
でもそこに、
「義兄さんの誕生日を仲間外れにしちゃ悪いですよね」
という有瓜のひと声があって、俺の誕生祝いもそこに加わった。
さらに、
「だったら、ゴブリンたちも仲間外れにしちゃ悪いんじゃないのか?」
俺がとくに何も考えずに言ったその返事から、ゴブリンたち全員の誕生祝いも加えられることになった。
こうなるともう、何のお祝いか分からなくなる。結局、色々と引っくるめて「俺たち全員の新しい門出を祝う会」ということになった。なお、祭りの名称については紛糾中のままである。俺は個人的に、聖誕祭かな、と思っている。お祝いするためだけのお祝いという感じが、日本的な聖誕祭だな、と思うからだ。
名称のことは別にして、ゴブリンたちも俺たち(というか有瓜)の召喚あるいは勧請を祝うことには大賛成で、祭りの準備は総出で行われた。そのおかげで、祭りの準備は俺が想定していたよりもずっと早く進んだ。
そういえば準備を進めるなかでひとつ、重要だけどとくに緊急性のない事実を姉妹二人に伝え忘れていたことが明らかになった。
「あの、お二人に聞きたかったんですけど……」
アンがそう言って俺たちに切り出してきた。
「どうした?」
「これまでは聞かないほうがいいのかと思って聞かないでいたんですけど、この前の話でロイドさんのほうから、まるで当然のことのように話題に出していたので、もう思い切って聞くんでけど……」
そんな長い前置きをして告げられたのは、
「ロイドさんとアルカさんは、どうしてゴブリンさんたちと一緒に暮らしていたんですか? この前、祭壇から出てきた、って言ってましたけど、それってどういう意味なんですか?」
「え……あ、あれ? 俺たち、その話してなかった……か?」
唖然とした顔で聞き返した俺に、アンは申し訳なさそうに首肯した。
――という一幕があったりもしたが、準備そのものは悪戦苦闘、四苦八苦しつつも、しかして急調で進んだのだった。
そしていよいよ訪れた開催当日は、季節が冬から春へと塗り替わっていることをはっきり感じさせる好天気だった。とはいっても、祭りを催すのは洞窟最深部の祭壇なので、天気はあまり関係なかったりする。
最近は洞窟内の浅いところにもシャーリーとアンのために灯明(油皿に芯を差した簡易アルコールランプのようなもの)が置かれるようになっていたけれど、あくまでも浅いところを薄らと照らすだけだった。
最初はその灯明を洞窟深部までずらりと並べて光の道を作ろうとしたのだけど、そんなの大量の灯明を用意できなかったために断念。結局、ゴブリン数名に松明を持たせて、みんなで奥まで移動することにした。
同様の理由から、祭壇の明りも灯明ではなく、松明を鍋に入れて作った即席の篝で代用している。要するに、俺と有瓜が最初にここへ召喚されたときと同じ照明状況だ。けれども、揺らめく炎の明りに照らし出される光景は、あのときとは確かに違っていた。
あのときのゴブリンたちに、戦士とそうでないものの外見的な違いはほとんどなかった。少なくとも、何も知らなかった俺たちがぱっと見で見分けられるような体格差はなかった。それがいまは、戦士と忍者ではプロレスラーと中学生くらいの差があって、違いは一目瞭然だ。シャーリーとアンの二人が増えているという変化は、言わずもがなだ。
一方で、俺と有瓜の姿はあのときと大して変わっていない。最近は村から頂戴してきた貫頭衣に毛皮をまとった装いで過ごしていたのだけど、今日は二人とも懐かしの制服姿だ。大分くたびれてしまったけれど、制服の生地や縫製、それにデザインは、姉妹にとってもゴブリンらにとっても非日常的で、祭りの装束にこれ以上相応しいものはないと言われたからだった。
「うぅ……寒いです……」
半袖ブラウスと丈の短いプリーツスカートで、腕も足もほぼ剥き出しの有瓜は、自分を抱き締めてぶるぶるっと身を震わせる。いちおう肩に毛皮を羽織って、腰にも毛皮を巻いているのだけど、気休めにしかなっていないようだった。
祭壇がなまじ広くて天井も高いため、篝火をいくつも焚いているのに肌寒さは拭えていなかった。
「始まるまで火のそばにいるといい」
「そうさせてもらいます」
「……いや、俺も一緒に温まる」
俺も有瓜と一緒に篝のそばまでいって、身体を温めた。
「あー……これ、焼き芋したくなりますね」
「すごいな、おまえ。俺はこれから歌うのかと思うと、緊張で食欲なんか沸かないぞ」
「あ、わたしだって緊張くらいしてますよ。でも、緊張とお芋は別腹なんですぅ」
「緊張が胃に来ないタイプか。初めて知ったよ」
「兄妹の仲が深まりましたね♥」
「は……」
有瓜の笑顔に俺は一瞬鼻白んだけれど、すぐにいまのが俺の緊張を解すための軽口だったのだと気がついた。妹に気遣われているようじゃ、兄の威厳は形無しだな……っと、もうとっくに形無しだったか。
「……有瓜はすごいな」
「まあ、そこそこに」
「そうか」
有瓜が冗談めかして笑うから、俺もつられて少し笑った。
俺たちがこうして緊張を解しつつ出番待ちしている間にも、ゴブリンたちは祭壇に運んできた食事の配膳や、楽器の設置や音の確認に――と奔走していた。なお、夜目の利かない姉妹二人は、別の篝火に当たって大人しくしていた。
楽器は前述した通りの太鼓――的なものと、その他の細々した打楽器だ。
このあたりでは革というと毛を残したまま鞣した、いわゆる毛皮が一般的だが、毛を処理してツルツルにした革もそれなりに用いられていた。けれども、そうした革は太鼓の皮としては柔らかすぎていた。そこで村人たちに頼んで、物置や納屋で眠っていた古くなって乾燥した革を集めて譲ってもらい、その中から運良く張りと粘りを残したまま硬くなっているものを選び出したのだった。
ちなみにその対価として差し出したのは、冬の間にゴブリンたちが狩っていた剣角鹿の男性器で作った塩漬けだ。これと同格の精力剤と言われている大牙猪の睾丸がいかに強力なものなのかは、実際に体験した有瓜が村人たちに証言してくれた。もっともその証言がなくとも、あの物騒な鹿の睾丸と陰茎は高価な精力剤として有名だったようで、村人たちは二つ返事で古い革の束と男性器の塩漬けを交換してくれたのだった。
さて――祭壇の準備が整った。祭りの始まりだ。
今更だけど祭壇がどういう場所なのかというと、石のようでも金属のようでもある質感の真っ平らな床をした円筒形のドームだ。壁や天井は自然の岩肌が剥き出しになっているけれど、巨大マンホールのような円盤状の床は明らかに人工物だ。だからこそ、ここを広場ではなく祭壇と呼んでいるのだ。
俺たちは祭壇の中央付近――俺と有瓜が現れた辺り――を囲むように車座になって胡座を掻いた。篝火は、その俺たちのさらに外側を囲むように配置されている。
俺たちが作った輪の中央には有瓜が一人、蹲っている。篝火の明りは届いているけれど、たぶん熱までは届いていないので寒いと思われる。だけど、さっきまで火の傍でさえ寒さを訴えていた有瓜なのに、いまは石ころのように蹲ったまま身動ぎひとつしないでいる。
輪の中心にいる有瓜の沈黙が波紋のように広がってくる。俺たちは固唾を呑むことさえ忘れて、次の瞬間をじっと待った。
音が消えていく。
身動ぎ、呼吸、瞬き――肉体に起因する全ての音が消えて、火の燃える音がやけに大きく響いたその瞬間、有瓜が動いた。
蹲っていた姿勢から一気に跳ね上がる。村との交流が始まって以来、やっと手入れされるようになった黒髪が舞い上がり、短いスカートが翻る。その髪とスカートが重力に従うよりも早く、有瓜は次のステップを踏んで、この空間に全身で音楽を刻み始めた。
有瓜の動き出しに遅れること三拍の後、用意していた太鼓と、それに類したものを前にして身構えていたゴブリンたちが、事前に練習していた通りのタイミングでそれぞれの楽器に手を叩きつけて、リズムを打ち鳴らし始めた。
丁度良い皮がそれしか手に入らなかったために、ひとつしかない大太鼓(あるいはコンガ。樽に皮を張ったもの)を手で叩いて鳴らす、低くて膨らみのある響き。桶をひっくり返しただけのものを手で鳴らす、少し高くて短い響き。素焼きの壺を指で細かく叩く、雨垂れのような響き――。
一定のリズムを保持して連なりながら祭壇を満たしていく響きの重なり。それは確かに音楽だった。
広大な空間に刻まれるリズムと舞いに、俺は忘我の面持ちで見とれていたけれど、瞬間、有瓜と目が合った。それで、はっと我に返った俺は、ぎりぎり遅れずに歌い始めた。
最初の一声は驚いて飛び出しただけの調子外れなものだったけれど、声を出したことで躊躇いが吹っ切れた。後はもう、リズムが満ちたなかに自分の声が響いていく高揚感に導かれるまま、腹の底から声を張り上げて歌った。
俺が歌ったのは、とある昭和の唱歌だ。俺たちが通っていた高校では、体育祭や文化祭の最後にその唱歌を合唱するという仕来りがあって、そのせいで生徒は全員、その唱歌を通して歌えるのだった。
祭りで歌うのには悪くないだろうと思っての選曲だったけれど、実際その通りだった。
音楽堂のような祭壇に響く、原始的な打楽器の響き。そこに、独特のどこか物悲しい曲調をした唱歌が重なると、まるでこの祭壇全体がひとつの巨大な音楽機械なのだというような錯覚に陥るほどだった。
自分という存在が音楽に溶けていく。
身体という空洞から響き出る音が周囲のリズムに溶け、渾然となって空間を満たす心地よさはいっそ官能的でもあり、俺はこのときを生涯忘れないだろうと確信できるほどに神懸かっていた。
有瓜の舞いもまた、神懸かっていた。いや、有瓜の舞いがあったからこそ、俺たちの響かせる歌や音も神々しいものに昇華されたのだろう。
有瓜は夏用の制服に素足という寒そうな出で立ちで踊っている。振り付けは「アドリブ過多のオリジナルです」だということだが、ときに大きく跳ねるように、ときに緩りと流れるように舞う姿からは、微塵の戸惑いも感じられない。もし有瓜から聞いていなかったから、最初からそういう型の踊りなのだと当然のように思っていたことだろう。
巫女という肩書きに相応しい、優美にして幽玄な一差しだった。
俺の歌が終わる。間に合わせの太鼓やその他の音色も、高い天井に残響を転がしながら止んでいく。そして有瓜が、最初と同じように蹲って動きを止めた。
全ての音と動きが消えて、篝火の揺らめきだけが陰影に小波を打たせている。
ゴブリンたちは歓声ひとつ上げない。息をするのも憚れる静謐のなか、唯々、滂沱たる涙を流していた。
その光景を俺は最初、それも当然か、と素直に受け取った。
――それから一拍遅れて、驚いた。
ゴブリンたちが泣いているのだ。それも、痛みや恐怖からではなく、感動に胸を打たれて泣いているのだ。
歯に衣着せない言い方をすれば、俺はゴブリンたちに芸術を愛でる心があるとは思っていなかった。もっと即物的な生き物だと決めつけていた。有瓜を巫女として崇拝しているのだって、端的に言うなら「ヤらせてくれるから」だと思っていた。
だけどいま、泣いているゴブリンたちの表情を見れば、自分の思い込みが間違いだったのだと、ごく自然に認められた。
彼らには芸術を解する心がある。感動に打ち震えて涙する心がある。彼らは――ゴブリンは人の似姿をした怪物ではない。ゴブリンという人種の、人なのだ。
べつにこれまでも彼らのことを怪物扱いしてきたつもりはないけれど、それでも、彼らと自分は全く違う生き物だ、と無意識に思っていた。
その無意識が、いま、切り替わった。有瓜が切り替えたのだ。
「……有瓜、すごいな」
口を衝いたのは、そんな一言だ。
確かに俺も歌ったし、ゴブリンたちが即席の太鼓を叩いたりもした。でも、そんなのはどっちもただの舞台装置だ。その全てが、有瓜の神秘性を引き立たせるための添え物でしかなかった。
俺は――いや、全員が有瓜に見とれていた。舞いはとうに終わって有瓜は顔を伏せて蹲っているきりだけど、誰もが目を離せずにいた。
はらりと落ちた髪の一房にすら、誰かが息を呑む。いや、俺か? 俺が息を呑んだのか?
ごくりと誰かの喉が鳴る。はっと誰かが息を呑む。ほぅ、と誰かが吐息を漏らす。いや、全部俺か? 自分の意識が身体から三分の一くらい前のめりに抜け出しているみたいで、自分がいまどうなっているのか分からなくなっている。
熱に浮かされたような――とは、こういう感覚のことを言うのか。
「あ……」
有瓜はほとんど吐息のような声を漏らすと、ゆっくりと揺らめくように顔を上げていく。そのさり気ない所作から目が離せない。
「あ、あぁ……も……」
唇から染み出る掠れた声が、何かを訴えている。彷徨う視線は何かを探し求めている。
「も……もう、我慢できない……」
視線が俺たちを見つけた。
「お願い……身体、熱いの……来て」
潤んだ瞳、気怠げに開かれた唇から漏れる湿った吐息と、ちらり覗く桃色の舌。
そのときようやく、祭壇を満たしていた神々しさがいつの間にか、噎せるような淫靡さに変容していたことに気づいた。
この場はもう有瓜の胎内だ。有瓜の吐息ひとつで、空気の色は如何様にも変わる。俺たちもまた、この場に漂う空気のひとつ。有瓜の瞬きひとつで、心の有り様が変わる――。
先ほどまで胸を満たしていた畏敬の念は、身を焦がすような劣情に塗り替えられていた。
「ね……早くぅ……」
聞いただけで、耳の奥を羽毛で撫でまわされるような官能が走る。脳髄が蕩け、腰が砕けそうになる。股間に全身の血が注ぎ込まれる。
――いやいや、待て待て。
劣情の本流に身投げする寸前、崖っぷちで俺は踏み止まった。
相手は有瓜だぞ。義理とはいえ、妹だぞ。この世界ではたった二人きりの家族だぞ。肌を重ねてしまった後も、家族でいられるのか?
「……!」
理性の発した問いは、沸騰していた脳に針となって冷たく刺さった。
股間は変わらずに劣情の解放を求めて疼いているけれど、意識は戻ってきた。夢から覚めたような――と言うほどはっきりはしていないけれど、夢から覚めようとする思考が働く程度には覚醒していた。
眠気を押して早起きしようとしているような感覚だ。少しでも気力を手放せば、再び劣情の水底に身体は沈んでしまうだろう。
目を覚ませない。でも覚まさなくては――。
俺がそうして葛藤していた僅かな時間の内に、ゴブリンたちは有瓜に殺到していた。ゴブリンたちは股間を刺激する淫蕩な空気を、無抵抗で胸いっぱいに吸い込んでいたようだった。
「――あっ! あっ……ふああぁ♥」
ゴブリン過密地帯の中心から、有瓜の蜜を滴らせるような蕩け声がする。声だけで姿は見えないけれど、どういうことになっているのかは容易に想像できた。そしてまた、有瓜が望んでこうなったのだということも。
「有瓜……おまえ、そんなにセックス我慢できなかったのか……」
俺の義妹はあんなに神秘的な舞いを踊りながら、ずっと発情していたのかと思ったら――
「……ふ……ふふっ」
なぜか安堵の笑いが込み上げてくるのだった。
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