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4章
58-2. 巫術の話と新作料理 ロイド
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料理の幅を手っ取り早く広げてくれるのは調味料だ。いくら香草と香辛料っぽいもので頑張ってみても、塩だけでは限界がある。
――ああ、そうそう。
異世界料理無双の代名詞であるマヨネーズ先輩は、鶏卵が手に入らないのでご登場願えていない。この世界にも鶏はいるそうだが、この辺りでは飼われていないという。もっとも、仮に鶏卵が手に入ったとしても、細菌が怖いので生のまま食べる度胸はないが。ラヴィニエから、殺菌の魔術があるらしいことを聞いているので、マヨネーズ先輩のことを考えるのは卵と殺菌魔術の両方が手に入ってからにしようと思っている。
ついでに言うと、アイスクリームは牛乳や生クリームがないのでシャーベットにしかならなず、シャーベットは既にあるとラヴィニエが教えてくれた。天ぷらなどの揚げ物も存在しているそうだ。というか、揚げ物は作るのも後片付けするのも面倒なので偶にしか作りたくない。
ゼリーはラヴィニエも知らなかったので、ゼリー無双はできるのかもしれない。でも、ゼラチンを煮詰めるのも馬鹿にならない手間がかかるし、フルーツゼリーに使えるまで臭味を取ろうとすると、今のところはユタカに踏ん張ってもらうしか方法がないときている。その製法上、無臭ゼラチンの生産性はとてもくて、これまた偶にしか作れない(ユタカにいっぱい作らせようとすると、女性陣の白い目で俺が死ぬ)。
といったわけで、簡単に作れる新しい味はないか――となると結局やはり、調味料が欲しくなるのだ。
「にしても……カレーっぽい香辛料はあるんだけど、あれも単品じゃ飽きが来るからなぁ」
正確には、クミンっぽい香辛料、か。
日本人がカレーと言われて思い浮かべる風味の大半はクミンだろう。でも、クミンだけではカレーにならないのだ。出汁を取らなかった味噌汁が味噌風味のお湯なのと同じように、クミンだけではカレー風味の何かにしかならいのだ。
そして、カレー風味は確かに美味しいのだけど……違うのだ。なまじ懐かしい味なだけに、俺が一番に欲しい味はこれじゃない、と本心を暴かれてしまうのだ。
「醤油……味噌……米……」
異世界召喚ものと言えば醤油と米を求めて大騒ぎする展開が定番だ。そういうのを読む度、現代の日本人は言うほど米を食ってないだろ、とツッコミを入れていたものだ。いまはその頃の自分をツッコミ倒したい。
白飯に大根おろしを載せて、醤油を垂らして掻っ込みたい。煎り胡麻と山葵と鰺のなめろうもあれば最高だけど、そこまで贅沢は言わない。白飯と醤油で我慢する。大根は類似のものがどこかで常食されているんじゃないかと期待している。
山葵は水の綺麗なところに育つというから、近くを流れる川の上流を探したら自生していたりしないかな、と思って探してみたこともあるけれど、さっぱり見つからなかった。
胡麻になると、山葵以上によく知らない。きっと菜の花みたいな植物の種なのだろう。でも山に生えているのか平野に生えているのかも不明だ。
魚に関しては、川魚ならいまでも食べられるけれど、俺は海の魚が食べたいのだ。同じ魚でも、川のものは味が淡泊だし、寄生虫が怖いから刺身でも食べていない。俺は刺身が食べたいのだ。
「あ、刺身にも醤油が必要だ」
そうだ、醤油だ。結局は醤油なのだ。
「だけど、発酵の文化がほとんどないっていうのがな……」
魔術が実在するこの世界において、だいたいのことは魔術で解決されている。それを実感する大半は社会基盤についてなのだけど、卑近なところでは俺たちも使っている魔法のトイレがそれだ。糞尿をあっという間に分解する魔法生物が、都市部の地下には下水代わりに満たされているのだそうだ。
行商人が出し物代わりにしている紙芝居も、魔法生物を使った紙が量産されているから出来るものだった。平地では都市部のみならず、農村にも本が出回っているのだという。
魔法生物の用途は飲食物の分野にも及んでいて、酒造にも魔法生物が使われている。樽に大麦や蜂蜜といった原材料と魔法生物を入れておけば、後は勝手に最適な発酵が始まって短時間で酒になるのだ。
ギルバートの村で作っている蜂蜜酒もこの方法で造られているのだが、村人たちは蜂蜜水を置いておくだけでも酒になることを知らなかった。
なお、酒造用の魔法生物も酢酸発酵までは行わないようで、酢を造るには自然の任せることになり、手間も時間もかかるし、失敗率も高くなる。そのため、酢は高級品という扱いになっているのだった。
こうしたインフラから酒造まで幅広く活用される魔法生物を自由に創造、使役する巫術を伝える巫覡の家系が王家なのだという。ラヴィニエがそう教えてくれた。
「王統とは即ち、魔法生物を支配する巫覡血統のことを指します。これはファルケン王国に限った話ではありません」
「それだと、他の血統が王位を奪うのは難しいってことか……いや、王家の血を取り込めばいいのか?」
「血の濃さが一定以上でなければ、巫覡の素質は受け継がれません」
「なるほど……でもそうなると、王族の子女は結婚相手を探すのに苦労しそうだな」
王家の血が入った子供は、王家の絶対的優位点である魔法生物支配の巫術そのものだ。そんな重要物件を他家にくれてやるのは、利点よりも難点のほうが大きすぎるように思う。
「ああ、それはある程度解決できる問題なのです。なぜならば、自身の血統に連なる巫覡の巫術を賦活させるか否かは当主が決められるからです」
「えっ、なんだよそれ!?」
ラヴィニエ曰く、巫覡家系の当主には、同血統の者に対して何のリスクも代償もなしに巫術の力をオンオフできるのだという。そして不活性にされた者の子供でも、活性状態のまま子を為したときと統計的に同じ確率で巫覡として生まれてくるけれど、その場合でも不活性状態で生まれてくるのだそうだ。
つまり、弑逆されそうになった王が血筋に連なる者全員の巫術をオフにしたまま死んでしまうと、その王家が継いできた巫術は事実上、消滅してしまうのだ。
「――という切り札が王には御座いますので、他家に子女を降嫁させることに不都合はまず無いのです」
「まず無いということは、少しはある?」
「王がお隠れになるとき、当主の座は自動的に、そのとき最も血の濃い者へと移ります。その移動先が王太子になるよう調整されているのですが、他家に出した子女の子供同士が婚姻を重ねることで、当主の座が他家に流出する可能性がありますね」
「……それはとてつもなく危険なのでは?」
「はい。ですので、王家係累の婚姻は……もっとはっきり言ってしまいますと肉体関係は、厳しく管理されているのです」
「なるほど」
「王族に限っては一切、婚前交渉も愛人を持つことも禁じられております」
「なるほど……」
王族以外は普通にいいのかよ、と思ったけれど、まあいいのだろう。
……うん? あれ?
「従者様、何か?」
「いや……さっき、一族の巫術は当主が任意で活性、不活性にできると言っていたよな?」
「はい」
「それは王族だけの話なのか? その他の巫覡の家系――つまり、ラヴィニエ自身にも言えることなのか?」
「ああ……」
俺が何を訊きたいのか理解したラヴィニエが、ふっと溜め息を漏らした。
「先ほど述べた当主の権限については全ての巫覡血統に当て嵌まることで御座います。巫覡血統ごとに異なるのは、巫覡の才を具えて生まれる子が男児と女児のどちらに多いか、くらいでしょう。――ですので、私の脱走がアーメイ家の当主である父上に伝わった時点で、私の巫術も停止されるはずです」
「その言い方だと、まだ停止されていないみたいに聞こえるんだけど……ラヴィニエがこっちに来てから、もうそれなりに経っているよな?」
「……父上は御屋形様に付いて王都に滞留しておられるので、報告がまだ伝わっていないのかもしれません」
「王都ってそんなに遠いのか?」
「……いえ」
「じゃあ、アーメイ家の御当主さんは娘の脱走を知って尚、巫術を止めずにいるということか」
「……おそらくは」
首肯したラヴィニエの顔は、いまにも泣きそうなほどの困り顔だった。
「父上は私が騎士団に戻ると信じているのでしょう……」
「……」
泣きそうに見えても、ラヴィニエはけして本当に涙を零しはしなかった。だから、俺は声ひとつ、かけられなかった。
●
……はて? どうして巫覡の話になったんだっけ?
……ああ、そうだ。料理の話だ。醤油の話だった。
醤油が欲しいけれど、そもそも発酵の文化が薄い。なぜならば、王家が各地の民に領主を通して下賜している魔法生物が万能過ぎるからだ――という話だった。
実際にその方法で酒を造っている村人たちに聞いてみたときの回答が、これだ。
「酒? んなもん、蜂蜜にぶよぶよの切り身を落として樽に詰めておきゃ、三日もすっと酒になってるぜ……え、酵母? 発酵させる生き物? なんだそりゃ……は、酒造りの原理? 自然に置いときゃ、ぶよぶよがなくても酒になるって……はっはっ! あんた、勘違いしてるぜ。そりゃ、酢の話だ。酒を置いときゃ、ぶよぶよがなくても酸っぱくなっちまう、って話だろ。ははっ!」
ぶよぶよとは、酒造用の魔法生物のことだ。形状がぶよぶよした手触りの玉なので、そう呼ばれているのだという。
このぶよぶよが大抵の発酵を肩代わりしてしまうので、人々にとっての発酵とは「食材にぶよぶよを入れること」しか意味しない。ぶよぶよを入れても反応しないものは発酵物ではないし、ぶよぶよ無しでの発酵はほとんどの場合、腐敗したとして処分されてしまうのだ。
ぶよぶよを使ったチーズ、漬け物(乾貨に近い?)は保存食としても流通しているので、行商人が村に持ってきたものを俺も見たことがある。それらは全て、家畜の乳や野菜にぶよぶよを投入して造られたものだった。
醤油も同じ方法で作れないのか、と思って行商人に尋ねてみたのだけど、望んでいた返事は得られなかった。
「麦にぶよぶよを入れてもエールになるだけでしょう。それと、ダイズ……豆ですか? 豆にぶよぶよを使った食べ物は生憎と扱ったことがないのですが、豆の漬け物ということでしょうか。珍味としては面白そうですね」
面白そうですね、と愛想笑いで言われてしまった。
……要するに、この世界では魔法生物を使った発酵食品しか造られていないので、そのレパートリーにない味噌や醤油は造られていませんよ、というわけだった。
だけど、酒から酢ができるのだから、この世界にも酢酸菌がいる。それならば、乳酸菌や麹黴だって、きっといるはずだ。
「……いるはずだけど、どうやったら見つけられるのかが分からん」
豆を煮て、塩で揉んで放置しておけばいい? だが、豆がない。それに、ただ放置しておいても普通に腐るだけの気がしてならない。
いやまあ、どのみち豆がすぐには手に入りそうにないのだから、少なくとも今は醤油を諦めるしかない。
「切り替えろ、俺。味噌醤油以外で新しい味、新しい料理だ」
ぱん、ぱん、と頬を両手で叩いて気合いを入れると、俺は思いの外長くなってしまった回想を振り払って、目の前の料理に意識を切り替えた。
この日の夕飯は、ぶよぶよ肉の塩蒸しになった。
ぶよぶよで肉を数時間ほど漬け込んでみたものを、大工ゴブリン謹製の蒸籠で蒸し焼きにしてみたのだ。
こいつは肉を漬けても作用するのか? また、たった数時間で変化が出るのか? ――と心配してたのが馬鹿らしくなるほど、魔法生物で漬けた肉はぶよぶよに柔らかくなった。肉の熟成も適度な頃合いまで進められたのか、旨味が深まり、さらに柑橘を思わせる仄かな酸味も加わっていた。おかげで、いつもと変わらない塩味なのに別物の美味しさに仕上がってくれた。
魔法生物、恐るべしだ。こんなお手軽なものがあったら、誰も自然発酵を試そうなんて思わないだろう。醤油の実存は絶望的だ。
ぶよぶよ肉の塩蒸しは我ながら美味しくできたけれど、素直に喜べない一品であった。
――ああ、そうそう。
異世界料理無双の代名詞であるマヨネーズ先輩は、鶏卵が手に入らないのでご登場願えていない。この世界にも鶏はいるそうだが、この辺りでは飼われていないという。もっとも、仮に鶏卵が手に入ったとしても、細菌が怖いので生のまま食べる度胸はないが。ラヴィニエから、殺菌の魔術があるらしいことを聞いているので、マヨネーズ先輩のことを考えるのは卵と殺菌魔術の両方が手に入ってからにしようと思っている。
ついでに言うと、アイスクリームは牛乳や生クリームがないのでシャーベットにしかならなず、シャーベットは既にあるとラヴィニエが教えてくれた。天ぷらなどの揚げ物も存在しているそうだ。というか、揚げ物は作るのも後片付けするのも面倒なので偶にしか作りたくない。
ゼリーはラヴィニエも知らなかったので、ゼリー無双はできるのかもしれない。でも、ゼラチンを煮詰めるのも馬鹿にならない手間がかかるし、フルーツゼリーに使えるまで臭味を取ろうとすると、今のところはユタカに踏ん張ってもらうしか方法がないときている。その製法上、無臭ゼラチンの生産性はとてもくて、これまた偶にしか作れない(ユタカにいっぱい作らせようとすると、女性陣の白い目で俺が死ぬ)。
といったわけで、簡単に作れる新しい味はないか――となると結局やはり、調味料が欲しくなるのだ。
「にしても……カレーっぽい香辛料はあるんだけど、あれも単品じゃ飽きが来るからなぁ」
正確には、クミンっぽい香辛料、か。
日本人がカレーと言われて思い浮かべる風味の大半はクミンだろう。でも、クミンだけではカレーにならないのだ。出汁を取らなかった味噌汁が味噌風味のお湯なのと同じように、クミンだけではカレー風味の何かにしかならいのだ。
そして、カレー風味は確かに美味しいのだけど……違うのだ。なまじ懐かしい味なだけに、俺が一番に欲しい味はこれじゃない、と本心を暴かれてしまうのだ。
「醤油……味噌……米……」
異世界召喚ものと言えば醤油と米を求めて大騒ぎする展開が定番だ。そういうのを読む度、現代の日本人は言うほど米を食ってないだろ、とツッコミを入れていたものだ。いまはその頃の自分をツッコミ倒したい。
白飯に大根おろしを載せて、醤油を垂らして掻っ込みたい。煎り胡麻と山葵と鰺のなめろうもあれば最高だけど、そこまで贅沢は言わない。白飯と醤油で我慢する。大根は類似のものがどこかで常食されているんじゃないかと期待している。
山葵は水の綺麗なところに育つというから、近くを流れる川の上流を探したら自生していたりしないかな、と思って探してみたこともあるけれど、さっぱり見つからなかった。
胡麻になると、山葵以上によく知らない。きっと菜の花みたいな植物の種なのだろう。でも山に生えているのか平野に生えているのかも不明だ。
魚に関しては、川魚ならいまでも食べられるけれど、俺は海の魚が食べたいのだ。同じ魚でも、川のものは味が淡泊だし、寄生虫が怖いから刺身でも食べていない。俺は刺身が食べたいのだ。
「あ、刺身にも醤油が必要だ」
そうだ、醤油だ。結局は醤油なのだ。
「だけど、発酵の文化がほとんどないっていうのがな……」
魔術が実在するこの世界において、だいたいのことは魔術で解決されている。それを実感する大半は社会基盤についてなのだけど、卑近なところでは俺たちも使っている魔法のトイレがそれだ。糞尿をあっという間に分解する魔法生物が、都市部の地下には下水代わりに満たされているのだそうだ。
行商人が出し物代わりにしている紙芝居も、魔法生物を使った紙が量産されているから出来るものだった。平地では都市部のみならず、農村にも本が出回っているのだという。
魔法生物の用途は飲食物の分野にも及んでいて、酒造にも魔法生物が使われている。樽に大麦や蜂蜜といった原材料と魔法生物を入れておけば、後は勝手に最適な発酵が始まって短時間で酒になるのだ。
ギルバートの村で作っている蜂蜜酒もこの方法で造られているのだが、村人たちは蜂蜜水を置いておくだけでも酒になることを知らなかった。
なお、酒造用の魔法生物も酢酸発酵までは行わないようで、酢を造るには自然の任せることになり、手間も時間もかかるし、失敗率も高くなる。そのため、酢は高級品という扱いになっているのだった。
こうしたインフラから酒造まで幅広く活用される魔法生物を自由に創造、使役する巫術を伝える巫覡の家系が王家なのだという。ラヴィニエがそう教えてくれた。
「王統とは即ち、魔法生物を支配する巫覡血統のことを指します。これはファルケン王国に限った話ではありません」
「それだと、他の血統が王位を奪うのは難しいってことか……いや、王家の血を取り込めばいいのか?」
「血の濃さが一定以上でなければ、巫覡の素質は受け継がれません」
「なるほど……でもそうなると、王族の子女は結婚相手を探すのに苦労しそうだな」
王家の血が入った子供は、王家の絶対的優位点である魔法生物支配の巫術そのものだ。そんな重要物件を他家にくれてやるのは、利点よりも難点のほうが大きすぎるように思う。
「ああ、それはある程度解決できる問題なのです。なぜならば、自身の血統に連なる巫覡の巫術を賦活させるか否かは当主が決められるからです」
「えっ、なんだよそれ!?」
ラヴィニエ曰く、巫覡家系の当主には、同血統の者に対して何のリスクも代償もなしに巫術の力をオンオフできるのだという。そして不活性にされた者の子供でも、活性状態のまま子を為したときと統計的に同じ確率で巫覡として生まれてくるけれど、その場合でも不活性状態で生まれてくるのだそうだ。
つまり、弑逆されそうになった王が血筋に連なる者全員の巫術をオフにしたまま死んでしまうと、その王家が継いできた巫術は事実上、消滅してしまうのだ。
「――という切り札が王には御座いますので、他家に子女を降嫁させることに不都合はまず無いのです」
「まず無いということは、少しはある?」
「王がお隠れになるとき、当主の座は自動的に、そのとき最も血の濃い者へと移ります。その移動先が王太子になるよう調整されているのですが、他家に出した子女の子供同士が婚姻を重ねることで、当主の座が他家に流出する可能性がありますね」
「……それはとてつもなく危険なのでは?」
「はい。ですので、王家係累の婚姻は……もっとはっきり言ってしまいますと肉体関係は、厳しく管理されているのです」
「なるほど」
「王族に限っては一切、婚前交渉も愛人を持つことも禁じられております」
「なるほど……」
王族以外は普通にいいのかよ、と思ったけれど、まあいいのだろう。
……うん? あれ?
「従者様、何か?」
「いや……さっき、一族の巫術は当主が任意で活性、不活性にできると言っていたよな?」
「はい」
「それは王族だけの話なのか? その他の巫覡の家系――つまり、ラヴィニエ自身にも言えることなのか?」
「ああ……」
俺が何を訊きたいのか理解したラヴィニエが、ふっと溜め息を漏らした。
「先ほど述べた当主の権限については全ての巫覡血統に当て嵌まることで御座います。巫覡血統ごとに異なるのは、巫覡の才を具えて生まれる子が男児と女児のどちらに多いか、くらいでしょう。――ですので、私の脱走がアーメイ家の当主である父上に伝わった時点で、私の巫術も停止されるはずです」
「その言い方だと、まだ停止されていないみたいに聞こえるんだけど……ラヴィニエがこっちに来てから、もうそれなりに経っているよな?」
「……父上は御屋形様に付いて王都に滞留しておられるので、報告がまだ伝わっていないのかもしれません」
「王都ってそんなに遠いのか?」
「……いえ」
「じゃあ、アーメイ家の御当主さんは娘の脱走を知って尚、巫術を止めずにいるということか」
「……おそらくは」
首肯したラヴィニエの顔は、いまにも泣きそうなほどの困り顔だった。
「父上は私が騎士団に戻ると信じているのでしょう……」
「……」
泣きそうに見えても、ラヴィニエはけして本当に涙を零しはしなかった。だから、俺は声ひとつ、かけられなかった。
●
……はて? どうして巫覡の話になったんだっけ?
……ああ、そうだ。料理の話だ。醤油の話だった。
醤油が欲しいけれど、そもそも発酵の文化が薄い。なぜならば、王家が各地の民に領主を通して下賜している魔法生物が万能過ぎるからだ――という話だった。
実際にその方法で酒を造っている村人たちに聞いてみたときの回答が、これだ。
「酒? んなもん、蜂蜜にぶよぶよの切り身を落として樽に詰めておきゃ、三日もすっと酒になってるぜ……え、酵母? 発酵させる生き物? なんだそりゃ……は、酒造りの原理? 自然に置いときゃ、ぶよぶよがなくても酒になるって……はっはっ! あんた、勘違いしてるぜ。そりゃ、酢の話だ。酒を置いときゃ、ぶよぶよがなくても酸っぱくなっちまう、って話だろ。ははっ!」
ぶよぶよとは、酒造用の魔法生物のことだ。形状がぶよぶよした手触りの玉なので、そう呼ばれているのだという。
このぶよぶよが大抵の発酵を肩代わりしてしまうので、人々にとっての発酵とは「食材にぶよぶよを入れること」しか意味しない。ぶよぶよを入れても反応しないものは発酵物ではないし、ぶよぶよ無しでの発酵はほとんどの場合、腐敗したとして処分されてしまうのだ。
ぶよぶよを使ったチーズ、漬け物(乾貨に近い?)は保存食としても流通しているので、行商人が村に持ってきたものを俺も見たことがある。それらは全て、家畜の乳や野菜にぶよぶよを投入して造られたものだった。
醤油も同じ方法で作れないのか、と思って行商人に尋ねてみたのだけど、望んでいた返事は得られなかった。
「麦にぶよぶよを入れてもエールになるだけでしょう。それと、ダイズ……豆ですか? 豆にぶよぶよを使った食べ物は生憎と扱ったことがないのですが、豆の漬け物ということでしょうか。珍味としては面白そうですね」
面白そうですね、と愛想笑いで言われてしまった。
……要するに、この世界では魔法生物を使った発酵食品しか造られていないので、そのレパートリーにない味噌や醤油は造られていませんよ、というわけだった。
だけど、酒から酢ができるのだから、この世界にも酢酸菌がいる。それならば、乳酸菌や麹黴だって、きっといるはずだ。
「……いるはずだけど、どうやったら見つけられるのかが分からん」
豆を煮て、塩で揉んで放置しておけばいい? だが、豆がない。それに、ただ放置しておいても普通に腐るだけの気がしてならない。
いやまあ、どのみち豆がすぐには手に入りそうにないのだから、少なくとも今は醤油を諦めるしかない。
「切り替えろ、俺。味噌醤油以外で新しい味、新しい料理だ」
ぱん、ぱん、と頬を両手で叩いて気合いを入れると、俺は思いの外長くなってしまった回想を振り払って、目の前の料理に意識を切り替えた。
この日の夕飯は、ぶよぶよ肉の塩蒸しになった。
ぶよぶよで肉を数時間ほど漬け込んでみたものを、大工ゴブリン謹製の蒸籠で蒸し焼きにしてみたのだ。
こいつは肉を漬けても作用するのか? また、たった数時間で変化が出るのか? ――と心配してたのが馬鹿らしくなるほど、魔法生物で漬けた肉はぶよぶよに柔らかくなった。肉の熟成も適度な頃合いまで進められたのか、旨味が深まり、さらに柑橘を思わせる仄かな酸味も加わっていた。おかげで、いつもと変わらない塩味なのに別物の美味しさに仕上がってくれた。
魔法生物、恐るべしだ。こんなお手軽なものがあったら、誰も自然発酵を試そうなんて思わないだろう。醤油の実存は絶望的だ。
ぶよぶよ肉の塩蒸しは我ながら美味しくできたけれど、素直に喜べない一品であった。
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