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4章
54-1. ラヴィニエの常識講座 ロイド
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俺は大工ゴブリン謹製の木箱(革で補強有り)で燻製作りをしながら、思索に耽っていた。
この世界には、地球の文化を持ち込んだ先達がいた――その可能性があることを知った。
俺と有瓜がこの世界に飛ばされて、そろそろ一年だ。正確な暦があるわけではないので正確には分からないけれど、季節が一巡りしたのは確かだ。
俺たちは日本に帰ることができるのか? 帰るための方法を探さなくていいのか?
――ずっと目を逸らしてきた欲求と目が合ってしまった。
「というか、どうしてずっと、探そうとしてこなかったのかな」
そう呟いたら自然と、一緒に自嘲も零れた。
目が合ってしまったいまなら分かる。俺は怖かったのだ。
もしも探して、何も見つけられなかったら? もしも探して、帰る手立てがないと判明してしまったら? もしも――
「――もしも、一人だけ帰る方法を見つけてしまったら……うあぁ」
声に出してみたら、初めて気がついた。俺、そんなふうに思っていたのか……!
でも、確かにそうだ。もし、俺と有瓜のどちらかしか帰れない――いや、どちらか一人だけなら帰れるとなったら、俺はどうするのだろう?
「俺だけ帰る、は……ないな」
なら、有瓜を帰すか――
「……帰せるのか?」
この世界に俺一人だけ残る――そんなことに、俺は堪えられるのか?
「いや、一人じゃないだろ」
シャーリーだってアンだっている。ゴブリンたちもいる。村の連中とも関係良好だと思うし、ラヴィニエやユタカとも上手くやれるだろう。ユタカは仲間枠なのか微妙だけど。
……と強引に自分を納得させようとしても、やはり自分は誤魔化せない。
「独りだ」
有瓜がいなくなったら、俺はこの世界で独りになってしまう。有瓜も言っていたけれど、どれだけ寝食を共にする同志が増えようとも、この世界に家族は有瓜ただ一人なのだ。
「……って、赤ん坊はどうなるんだ?」
家族の子供は家族、で良いような気はするのだけど、父親はこの世界にしかいない生き物、ドラゴンだ。俺はその子を家族の範疇だと思えるのだろうか?
いや……どちらにしても、生まれてくる子供は俺から見たら甥に当たるわけだ。甥というのは普通一般でも、家族というよりも親戚だ。年に数回会うこともある、友人よりも遠い存在、だ。
「つまり、ただの知人程度にしか思えなくても普通……ってことで良いんだよ、なぁ?」
声に出して確認してみると、とても酷薄なことを言っているような気がしてくる。そういえば、とある国民的アニメの家族は、甥と叔父が兄弟同然に仲良くしていた。あれくらい仲良くするのが普通一般ということになるのだとしたら、俺はやはり酷薄なのか?
「ダイチとミソラは……ああ、うん……うん?」
家族と言われたら家族のような、でも有瓜と同じ枠かと言われたら違うわけで……正直、よく分からない。
家族だと思えばそう思えるし、やはり違うよなと思えば違うように思えてくる。考えれば考えるほど、一枚の鏡で自分の後頭部を確認しようとしてぐるぐる回転しているような居心地の悪さが強くなっていく。
「まだ実感がない。時間が経っていない。だって、まだ生まれて半年も経っていないんだぞ。というか言ってしまえば、まだ妊娠六ヶ月とかそのくらいなんだ。自分の中であいつらの立ち位置が定まってなくてもおかしくないだろ? うん、おかしくない」
自分に言い聞かせると、その通りだと言う気がしてくる。
ダイチとミソラが俺にとってどういう立ち位置になるのか、これからじっくり見定めていけばいい。たぶん、残念ながら、その時間はまだたっぷりとあるはずだ。
「内乱が終わらないことには調べようもないからな」
この世界に赤毛のアンを伝えた文豪について、彼が晩年を過ごしたというレーベン国で調べるにしても、同国での内乱が終わらないことには難しいだろう。内乱はもうじき終息するだろうとの見込みだから、その間に色々と準備をしておこう。そうしながら、赤ん坊たちのことを考えてみればいい。
「……いや、そうか?」
赤ん坊たちのことではない。
内乱が終わるまで待ったほうがいいって、本当にそうか? むしろ、混乱している今だからこそ、色んなところに潜り込んで調べるのに丁度いいのではないか?
「ああ……でも、そうか。俺っていま、山奥のド田舎暮らしなんだよな」
つまり、都会の常識を全く知らない田舎者だということだ。
人の集まる都市部に行こうというなら、都市部の常識を知っておかないといけない。いや、それ以前にこの世界の常識だ。
「シャーリーたちが知っているのは、村の常識だ。けど、それだとたぶん、というか間違いなく、不足している」
村人は基本的に、村から出ることがない。外の世界とは、たまにやってくる行商人の話すことが全てだ。そんな彼ら村人の常識しか知らないまま山を下りたら、俺は間違いなく悪目立ちするだろう。
お上りさんに見られて嘲笑されるくらいならいいけれど、なにせ封建社会のようだから、知らずにやってしまったことが原因でお手討ちなんてことが起きかねない。
「……うん。少なくとも教師役がいるんだから、行くのは教えてもらってからにするべきだ」
俺は燻蒸の番をゴブリンの一人に任せると、ラヴィニエを探しに出かけた。
●
「街の常識、ですか」
ラヴィニエは河原で、ゴブリンたちに剣の稽古をつけているところだった。
ちなみに彼女の服装は、有瓜たちと着回ししている簡素な貫頭衣だ。村の女性陣はその下に長いスカートを穿くのだけど、ここでは採用されておらず、みんな太腿の半ばあたりから下を露出させている。
俺からするとミニ丈のワンピースに見えなくもないのだけど、ラヴィニエからしたらスカートもズボンも無しだなんて有り得ないことだろう。でも、さすがは騎士と言うべきか、有瓜がその格好で普通に過ごしているのを見て、何も言わずに受け容れていた。
主君が下半身露出するのなら、臣も黙って下半身露出いたしましょう、の心構えだ。騎士道、大義である――とでも言ったところか。
そんなラヴィニエに木剣の持ち方や足の位置だとかを指導されながら素振りをしているゴブリンたちだが、剣の稽古というか戦闘訓練的なものについては、去年の晩秋あたりからの山賊退治と並行して、俺が主導で始めていたことだったりする。
あの頃はとにかく必死だったし、なぜか日に日に伸び続けていた身体能力を意識に馴染ませる必要もあって、とにかく身体を動かしていた。そうしたらゴブリンたちも一緒に運動するようになって、気がつけば格闘技や剣道の稽古みたいなことをするようになっていたのだった。
格闘技や剣道といっても、それっぽい、というだけの話だ。
剣道というのは、山賊の所持品だった剣が山ほど手に入ったので、それをそれっぽい感じで打ち合っていただけだ。格闘技というのもなんちゃってプロレスと言うべき適当なもので、治らない怪我はしないように気をつけながら取っ組み合いをしていただけだ。フォールをカウント2.9で返すのは、みんなとっても大好きだ。
プロレスごっこのほうは、飛びつき腕ひしぎ逆十字のできる忍者ゴブリンや、ブレーンバスターのできる戦士ゴブリンが出てくるくらいの成果があったけれど、実戦に役立っていたとは言い難かった。
結局、刃物を振りまわしてくる相手には、同じく刃物を振りまわして対処するほうが安全確実なわけで、ただお互いに剣を振りまわしていただけの剣道もどきのほうが、残念ながら実戦的だったりした。
まあ、実戦で役立つかは別として、プロレスごっこはゴブリンたちの琴線に触れたようだった。
山賊がめっきり沸かなくなってからこっち、とくに戦士ゴブリンたちは狩りとセックスとプロレスごっこが日課のようになっている。最近では負け方や悪役の美学に目覚める奴も出てきて、反則攻撃のルールを教えるべきかどうか考えていたりもした。
そんなところに現れたのが、女騎士ラヴィニエだ。
騎士として正規の剣術を学んできた彼女に、ゴブリンたちは剣術を教わるようになっていた。ただの棒振りとは一線を画した本物の剣術に、ゴブリンたちは大興奮だった。
一騎打ちにしろ集団戦にしろ、甲冑を着込んで正々堂々と戦うことを旨とした騎士の剣術は、とくに戦士ゴブリンの好みや特徴に能く合っていた。
重たい鎧を着込み、戦場で戦線維持することを想定しているためか、足を使って一撃離脱する動きなどはない。とにかく思いきり打ち込んで、鎧ごと叩き切る――そうでなくとも鎧の上から衝撃を通すことを目的とした剛の剣術だった。
長剣の他に鎧通しを用いた組み打ちの技術も少しだけあって、忍者たちはそちらを練習している。プロレス技と組み合わせが面白いらしい。コブラツイストを掛けながら脇腹をぐさりと刺すムーブを完成させているのを見たときは、別に関節を極める必要がないのに極めているところがプロレスっぽいかもな、とか思ってしまった。
そんなことを思っていたら、コブラツイストを掛けられているほうの忍者が手にした木刀(短剣サイズ)で相手の太腿にぐさりと刺す動きをして相討ちに取っていた。
そりゃまあ、そうなるわな。プロレスと剣術を組み合わせた全く新しい格闘技の確立は、まだ先のことになりそうだ。
閑話休題――。
街の常識を知りたいという俺の要請に、ラヴィニエは二つ返事で頷いてくれた。
「無論、構いませんとも。私が知っているかぎりのことをお話しいたしましょう」
「頼もしいね」
河原に整列したゴブリンたちが木剣で素振りするのを横目に見ながら、ラヴィニエは熟々と語ってくれた。
「まずは何から話しましょうか……ふむ、そうですね。まずはお金の話をしましょう。街へ行くのでしたら、それが一番大事でしょうから」
ラヴィニエがそう言って教えてくれたのは、この地方一帯で流通している通貨のことだった。
俺たちというか、俺たちが交流を持っている山村の連中だって、通貨を使っていた。村内では物々交換も多めなのだけど、外からやってくる行商人との取り引きには貨幣を使っている。また、村の猟師では危険すぎて踏み込めなかった危険地帯からゴブリンたちが頻繁に得物を狩ってくるようになったことで行商人との取引量、頻度が共に増えて、村内にも大量の貨幣が入り込んでいる。村内取り引きの主流が物々交換から通貨を介した売買になるのも、そう遠くないことかもしれない。
ともかくそうしたわけで、通貨のことなら改めて聞くまでもないんだ、と言いかけた俺が途中で口を閉じたのは、ラヴィニエが隣国レーベンでの通貨事情を話し始めたからだ。
「レーベンで使われている通貨は、基本的には我が国ファルケンと同等の価値です。銅貨一枚は銅貨一枚、銀貨二枚は銀貨二枚。ただし、我が国では銀貨と金貨の間に大銀貨というのがありますが、レーベンにはありません。その代わり、レーベンでは銀貨と金貨の間に小金貨が使われております」
「その言い方だと、大銀貨一枚は小金貨一枚と同じ、ってわけではないんだな?」
「はい。ファルケンの大銀貨一枚と四分の三が、レーベンの小金貨一枚の価値になります」
「一枚と四分の三……なんだよ、そこだけ面倒なのは」
「ええ、面倒なのです。ですが、両貨幣に含まれている金と銀の量と価値を比べると、その比率になってしまうのです。……この面倒な交換比率のおかげで、アルゴーネ領の財政官ほどの算術巧者はいないと言われているのです」
ラヴィニエは発言の後ろ半分を、苦笑いで語ってくれた。
それにしても不思議な話だ。大銀貨と小金貨の価値が違うところが、ではない。そのふたつしか違わないところが、だ。
地球でだって、国が違えば通貨が違う。通貨が違えば、価値も違う。一ドルあたり日本円で百円七銭五厘、みたいにとても細かく比率分けされている。不換紙幣と本位貨幣を同じように考えていいのか知らないけれど、それにしたって別国家が発効している通貨同士が概ね一対一で交換されているなんてことが普通なのだろうか? 地球でも中世の頃はそれが普通だった?
……いやいや、それだと大金持ちなイメージのある両替商が成り立たなくなってしまう。換金レートはやっぱりもっと細かかっただろうと思う。
あ……それか、もしかして、ラヴィニエが「だいたい一対一」で覚えているだけで、実際はもっと細かい交換比率なのかもしれない。「青い血は金勘定などせぬ!」みたいな風潮が貴族には蔓延しているのかもしれないぞ。
「……なんでしょうか、その目は。何かとても不快なものを感じるのですが」
「気のせいだろ、気のせい」
ラヴィニエの胡乱げな眼差しからさり気なく目を逸らしながら、ついでに話題も換えた。
「そういえば、言葉はどうなんだ? 通貨が違うのなら、言葉も違うんじゃないのか?」
「ああ、それはないです。同じです」
即答で言い切られた。
「へぇ、言葉は同じなのか……」
「同じと申しましても、地方毎の訛りはありますから、全く同じというわけではありませんが」
「ふむ……その訛りは文字や文法にも表れている?」
「外交や儀典は詳しくないので、伝聞になってしまうのですが……国によっては文字の形、発音の仕方、言葉の意味などが少しずつ違っているのだとか。そうした各国毎の訛りを正確に読み取ることが、外交官に求められる能力なのだと聞いたことがございます」
「ふぅん……」
俺はなるほどね、と頷きながら考えをまとめる。
ラヴィニエが言う訛りとは、英語、フランス語、イタリア語……みたいなことのような思える。大元になる言語と文字があって、それがこの大陸(?)に人と共に広がった。そして各地に根付いて、独自の発展をしていったということなのだろう。
そうすると、貨幣がほぼ等価値で交換されるのも、大元の貨幣があったからだったりして? 過去にこの大陸(?)を統一支配していた大国家があったりするのかも?
……といったことをラヴィニエに聞いてみたら、笑ってこう答えられた。
「ああ、ございますね。そういった伝説が」
なんでも伝説に語られる大昔において、この世界は神とその僕たちによって統治されていたのだという。現在の生き物の祖先は、神の僕たちの奴隷として生まれ、悩むことなく幸せに暮らしていた。けれども、僕たちは互いに殺し合ったり、自ら死んだりして、次第に数を減らしていった。そして最後の下僕がいなくなり、奴隷たちだけが残された。神の意志を感じ取れるのは僕たちだけだったので、奴隷たちは神がまだいるのかどうかも分からなくなった。この取り残された奴隷が、人間を始めとした生き物全ての先祖なのだ。
「――という伝説なのですが、とくに最後のところについては諸説紛々です」
神の奴隷とは人間のことであって、その他の生物は神に連なっていない化外の存在なのだという説。または、魔物だけは神の奴隷を先祖にしていない外来種であるので排除しなくてはならないのだという説。はたまた、神の奴隷とは人間と魔族以外の生き物のことであり、人間と魔族は神の僕の後継者の地位を争う存在だったが、人間が勝利したことで魔族は知性を失って魔物に成り果てたのだ――などという説まであるのだそうだ。
「そういえば、彷徨い月は神の僕が、神が創った本当の月を真似して作ったものだ――という言い伝えもありますね」
彷徨い月というのは、不規則に出たり消えたりするふたつ目の月のことをそう呼ぶのだそうだ。
「へぇ……あの月、彷徨い月っていうのか」
「ちなみに彷徨い月は、嘘の暗喩としてよく使われます」
「え……」
新たに知った単語に頷いていると、さらりと言われた。反射的に見やると、ラヴィニエはいい顔で頬笑んでいた。
つまり、いまのは「彷徨い月を組み込んだセンテンスは嘘、冗談という意味だ」ということで、つまり「ふたつ目の月を神の下僕が作ったという話は嘘」ということになるわけで……要するにどうやら、からかわれたらしい。すごく、分かりにくい。この婉曲な言いまわしが貴族的というやつなのだろう……たぶん。
「え、ああ……ええと、そうだ。ラヴィニエ、きみは騎士なんだよな。その騎士というのは、貴族の一員ということでいいのか?」
「実態は色々ですが、公的にはそうなりますね」
「またなんとも貴族的な言いまわしで……」
話題を換えようと思って適当に切り出した疑問だったけれど、返ってきた言葉もまた、悪い意味で適当だった。
ラヴィニエ曰く――歴史的なことを言えば、貴族すなわち騎士だったらしい。すなわち、最初期の貴族とは馬に跨がり、武器を携えて戦う者だった。それが時代を経るにつれて血筋や身分というものが固定化されるようになると、貴族は戦士から政治家、官僚へと性格を変えていく。
貴族の義務として参戦の義務は今でも残っているのだけど、その義務を自分たちから分離させて、騎士という最下級の貴族相当の身分として取り立てた平民に任せるようになったのだ。そうして生まれた騎士身分の家柄が、現在における騎士の大多数なのだという。
「ですが、騎士の責務を自分たち自身で負い続けている貴族家も少数ですが残っております。我がアーメイ家もそのひとつであります」
そう言ったときのラヴィニエは誇らしげだった――のだけど、すぐに暗い顔になってしまった。
「……ですが、宮廷政治に注力した家のほうが大きくなっているのが実情です。アーメイ家も巫覡の家系という特殊性がなかったなら、いまより一段も二段も零落していたことでしょう」
つまりは、武力よりも政治力がものを言う平和な時代が続いていたということか。騎士の業務を切り離して外部委託にした貴族らに先見性があったというべきなのだろう。視点を変えれば、そうした貴族らは自身の責務を投げ捨てた恥知らずどもだ、ということになるのだろうけど。
「まあ、つまりだ……この国、ファルケンにおける現在の騎士というのは、身分的には貴族だけども実質的には平民とほとんど変わらない者がほとんどだ――ってことか」
「はい、そういうことです」
俺のまとめに、ラヴィニエは小さく首肯した。なんとなく、小学校の先生に褒められたみたいな気分になった。
ラヴィニエとの距離感は、実のところ、未だに固まっていなかったりする。それというのも、ラヴィニエが俺よりも一歳か二歳ほど年上なのにコミュニティの新参者という立場だからだ。日本人の学生として培ってきた倫理観は、彼女を先輩として敬うように、と訴えてくるのだが、当のラヴィニエが謙った態度を崩さないものだから、俺もつられて下級生に対するような言動で応じてしまう。
実際的なことを考えれば、年齢よりも立場を優先するべきなのだから、年下の俺に対して謙っているラヴィニエのほうが正しいというのは理解しているのだけど、折に触れて教師や先輩からそれとなく指導されているような雰囲気を感じてしまうと、どうにも戸惑ってしまう。
身分社会の人間であるラヴィニエにとっては、年齢よりも身分や立場を優先するのはごく自然にできることなのだろうか? あるいは、年の功というやつなのかね――。
「従者様、いま何をお考えになりました?」
「えっ、なにも!」
「そうですか」
目だけ笑っていない笑顔のラヴィニエに、俺は首筋に汗を伝わせながら、こくこく頷いた。女性の年齢を邪推するべきでないのは、世界の別を問わない真理のようだった。
余計な前置きを挟んでいるうちに、ゴブリンたちの素振りが終わっていた。
この辺りの季候は日本に近くて、晩春から初夏に向かっている現在は梅雨時に差しかかりつつある。つまり、蒸し暑い。そんな中で素振りをしていたゴブリンたちは当然、全員汗だくだ。
「あっ……♥」
ゴブリンたちのほうから風が吹いてきた途端、大変残念なことに、ラヴィニエの発情スイッチが入ってしまった。
「まっ、待ってくれ……まだ川に入らないでくれ!」
ラヴィニエは俺が前にいることも忘れて、いまにも汗を流すために川へ入ろうとしているゴブリンたちのところへ駆けていった。
「……犬か」
つんのめりそうな勢いで駆けていくラヴィニエの尻に、見えない尻尾がぶんぶん振りまわされているのが見えた。
この世界には、地球の文化を持ち込んだ先達がいた――その可能性があることを知った。
俺と有瓜がこの世界に飛ばされて、そろそろ一年だ。正確な暦があるわけではないので正確には分からないけれど、季節が一巡りしたのは確かだ。
俺たちは日本に帰ることができるのか? 帰るための方法を探さなくていいのか?
――ずっと目を逸らしてきた欲求と目が合ってしまった。
「というか、どうしてずっと、探そうとしてこなかったのかな」
そう呟いたら自然と、一緒に自嘲も零れた。
目が合ってしまったいまなら分かる。俺は怖かったのだ。
もしも探して、何も見つけられなかったら? もしも探して、帰る手立てがないと判明してしまったら? もしも――
「――もしも、一人だけ帰る方法を見つけてしまったら……うあぁ」
声に出してみたら、初めて気がついた。俺、そんなふうに思っていたのか……!
でも、確かにそうだ。もし、俺と有瓜のどちらかしか帰れない――いや、どちらか一人だけなら帰れるとなったら、俺はどうするのだろう?
「俺だけ帰る、は……ないな」
なら、有瓜を帰すか――
「……帰せるのか?」
この世界に俺一人だけ残る――そんなことに、俺は堪えられるのか?
「いや、一人じゃないだろ」
シャーリーだってアンだっている。ゴブリンたちもいる。村の連中とも関係良好だと思うし、ラヴィニエやユタカとも上手くやれるだろう。ユタカは仲間枠なのか微妙だけど。
……と強引に自分を納得させようとしても、やはり自分は誤魔化せない。
「独りだ」
有瓜がいなくなったら、俺はこの世界で独りになってしまう。有瓜も言っていたけれど、どれだけ寝食を共にする同志が増えようとも、この世界に家族は有瓜ただ一人なのだ。
「……って、赤ん坊はどうなるんだ?」
家族の子供は家族、で良いような気はするのだけど、父親はこの世界にしかいない生き物、ドラゴンだ。俺はその子を家族の範疇だと思えるのだろうか?
いや……どちらにしても、生まれてくる子供は俺から見たら甥に当たるわけだ。甥というのは普通一般でも、家族というよりも親戚だ。年に数回会うこともある、友人よりも遠い存在、だ。
「つまり、ただの知人程度にしか思えなくても普通……ってことで良いんだよ、なぁ?」
声に出して確認してみると、とても酷薄なことを言っているような気がしてくる。そういえば、とある国民的アニメの家族は、甥と叔父が兄弟同然に仲良くしていた。あれくらい仲良くするのが普通一般ということになるのだとしたら、俺はやはり酷薄なのか?
「ダイチとミソラは……ああ、うん……うん?」
家族と言われたら家族のような、でも有瓜と同じ枠かと言われたら違うわけで……正直、よく分からない。
家族だと思えばそう思えるし、やはり違うよなと思えば違うように思えてくる。考えれば考えるほど、一枚の鏡で自分の後頭部を確認しようとしてぐるぐる回転しているような居心地の悪さが強くなっていく。
「まだ実感がない。時間が経っていない。だって、まだ生まれて半年も経っていないんだぞ。というか言ってしまえば、まだ妊娠六ヶ月とかそのくらいなんだ。自分の中であいつらの立ち位置が定まってなくてもおかしくないだろ? うん、おかしくない」
自分に言い聞かせると、その通りだと言う気がしてくる。
ダイチとミソラが俺にとってどういう立ち位置になるのか、これからじっくり見定めていけばいい。たぶん、残念ながら、その時間はまだたっぷりとあるはずだ。
「内乱が終わらないことには調べようもないからな」
この世界に赤毛のアンを伝えた文豪について、彼が晩年を過ごしたというレーベン国で調べるにしても、同国での内乱が終わらないことには難しいだろう。内乱はもうじき終息するだろうとの見込みだから、その間に色々と準備をしておこう。そうしながら、赤ん坊たちのことを考えてみればいい。
「……いや、そうか?」
赤ん坊たちのことではない。
内乱が終わるまで待ったほうがいいって、本当にそうか? むしろ、混乱している今だからこそ、色んなところに潜り込んで調べるのに丁度いいのではないか?
「ああ……でも、そうか。俺っていま、山奥のド田舎暮らしなんだよな」
つまり、都会の常識を全く知らない田舎者だということだ。
人の集まる都市部に行こうというなら、都市部の常識を知っておかないといけない。いや、それ以前にこの世界の常識だ。
「シャーリーたちが知っているのは、村の常識だ。けど、それだとたぶん、というか間違いなく、不足している」
村人は基本的に、村から出ることがない。外の世界とは、たまにやってくる行商人の話すことが全てだ。そんな彼ら村人の常識しか知らないまま山を下りたら、俺は間違いなく悪目立ちするだろう。
お上りさんに見られて嘲笑されるくらいならいいけれど、なにせ封建社会のようだから、知らずにやってしまったことが原因でお手討ちなんてことが起きかねない。
「……うん。少なくとも教師役がいるんだから、行くのは教えてもらってからにするべきだ」
俺は燻蒸の番をゴブリンの一人に任せると、ラヴィニエを探しに出かけた。
●
「街の常識、ですか」
ラヴィニエは河原で、ゴブリンたちに剣の稽古をつけているところだった。
ちなみに彼女の服装は、有瓜たちと着回ししている簡素な貫頭衣だ。村の女性陣はその下に長いスカートを穿くのだけど、ここでは採用されておらず、みんな太腿の半ばあたりから下を露出させている。
俺からするとミニ丈のワンピースに見えなくもないのだけど、ラヴィニエからしたらスカートもズボンも無しだなんて有り得ないことだろう。でも、さすがは騎士と言うべきか、有瓜がその格好で普通に過ごしているのを見て、何も言わずに受け容れていた。
主君が下半身露出するのなら、臣も黙って下半身露出いたしましょう、の心構えだ。騎士道、大義である――とでも言ったところか。
そんなラヴィニエに木剣の持ち方や足の位置だとかを指導されながら素振りをしているゴブリンたちだが、剣の稽古というか戦闘訓練的なものについては、去年の晩秋あたりからの山賊退治と並行して、俺が主導で始めていたことだったりする。
あの頃はとにかく必死だったし、なぜか日に日に伸び続けていた身体能力を意識に馴染ませる必要もあって、とにかく身体を動かしていた。そうしたらゴブリンたちも一緒に運動するようになって、気がつけば格闘技や剣道の稽古みたいなことをするようになっていたのだった。
格闘技や剣道といっても、それっぽい、というだけの話だ。
剣道というのは、山賊の所持品だった剣が山ほど手に入ったので、それをそれっぽい感じで打ち合っていただけだ。格闘技というのもなんちゃってプロレスと言うべき適当なもので、治らない怪我はしないように気をつけながら取っ組み合いをしていただけだ。フォールをカウント2.9で返すのは、みんなとっても大好きだ。
プロレスごっこのほうは、飛びつき腕ひしぎ逆十字のできる忍者ゴブリンや、ブレーンバスターのできる戦士ゴブリンが出てくるくらいの成果があったけれど、実戦に役立っていたとは言い難かった。
結局、刃物を振りまわしてくる相手には、同じく刃物を振りまわして対処するほうが安全確実なわけで、ただお互いに剣を振りまわしていただけの剣道もどきのほうが、残念ながら実戦的だったりした。
まあ、実戦で役立つかは別として、プロレスごっこはゴブリンたちの琴線に触れたようだった。
山賊がめっきり沸かなくなってからこっち、とくに戦士ゴブリンたちは狩りとセックスとプロレスごっこが日課のようになっている。最近では負け方や悪役の美学に目覚める奴も出てきて、反則攻撃のルールを教えるべきかどうか考えていたりもした。
そんなところに現れたのが、女騎士ラヴィニエだ。
騎士として正規の剣術を学んできた彼女に、ゴブリンたちは剣術を教わるようになっていた。ただの棒振りとは一線を画した本物の剣術に、ゴブリンたちは大興奮だった。
一騎打ちにしろ集団戦にしろ、甲冑を着込んで正々堂々と戦うことを旨とした騎士の剣術は、とくに戦士ゴブリンの好みや特徴に能く合っていた。
重たい鎧を着込み、戦場で戦線維持することを想定しているためか、足を使って一撃離脱する動きなどはない。とにかく思いきり打ち込んで、鎧ごと叩き切る――そうでなくとも鎧の上から衝撃を通すことを目的とした剛の剣術だった。
長剣の他に鎧通しを用いた組み打ちの技術も少しだけあって、忍者たちはそちらを練習している。プロレス技と組み合わせが面白いらしい。コブラツイストを掛けながら脇腹をぐさりと刺すムーブを完成させているのを見たときは、別に関節を極める必要がないのに極めているところがプロレスっぽいかもな、とか思ってしまった。
そんなことを思っていたら、コブラツイストを掛けられているほうの忍者が手にした木刀(短剣サイズ)で相手の太腿にぐさりと刺す動きをして相討ちに取っていた。
そりゃまあ、そうなるわな。プロレスと剣術を組み合わせた全く新しい格闘技の確立は、まだ先のことになりそうだ。
閑話休題――。
街の常識を知りたいという俺の要請に、ラヴィニエは二つ返事で頷いてくれた。
「無論、構いませんとも。私が知っているかぎりのことをお話しいたしましょう」
「頼もしいね」
河原に整列したゴブリンたちが木剣で素振りするのを横目に見ながら、ラヴィニエは熟々と語ってくれた。
「まずは何から話しましょうか……ふむ、そうですね。まずはお金の話をしましょう。街へ行くのでしたら、それが一番大事でしょうから」
ラヴィニエがそう言って教えてくれたのは、この地方一帯で流通している通貨のことだった。
俺たちというか、俺たちが交流を持っている山村の連中だって、通貨を使っていた。村内では物々交換も多めなのだけど、外からやってくる行商人との取り引きには貨幣を使っている。また、村の猟師では危険すぎて踏み込めなかった危険地帯からゴブリンたちが頻繁に得物を狩ってくるようになったことで行商人との取引量、頻度が共に増えて、村内にも大量の貨幣が入り込んでいる。村内取り引きの主流が物々交換から通貨を介した売買になるのも、そう遠くないことかもしれない。
ともかくそうしたわけで、通貨のことなら改めて聞くまでもないんだ、と言いかけた俺が途中で口を閉じたのは、ラヴィニエが隣国レーベンでの通貨事情を話し始めたからだ。
「レーベンで使われている通貨は、基本的には我が国ファルケンと同等の価値です。銅貨一枚は銅貨一枚、銀貨二枚は銀貨二枚。ただし、我が国では銀貨と金貨の間に大銀貨というのがありますが、レーベンにはありません。その代わり、レーベンでは銀貨と金貨の間に小金貨が使われております」
「その言い方だと、大銀貨一枚は小金貨一枚と同じ、ってわけではないんだな?」
「はい。ファルケンの大銀貨一枚と四分の三が、レーベンの小金貨一枚の価値になります」
「一枚と四分の三……なんだよ、そこだけ面倒なのは」
「ええ、面倒なのです。ですが、両貨幣に含まれている金と銀の量と価値を比べると、その比率になってしまうのです。……この面倒な交換比率のおかげで、アルゴーネ領の財政官ほどの算術巧者はいないと言われているのです」
ラヴィニエは発言の後ろ半分を、苦笑いで語ってくれた。
それにしても不思議な話だ。大銀貨と小金貨の価値が違うところが、ではない。そのふたつしか違わないところが、だ。
地球でだって、国が違えば通貨が違う。通貨が違えば、価値も違う。一ドルあたり日本円で百円七銭五厘、みたいにとても細かく比率分けされている。不換紙幣と本位貨幣を同じように考えていいのか知らないけれど、それにしたって別国家が発効している通貨同士が概ね一対一で交換されているなんてことが普通なのだろうか? 地球でも中世の頃はそれが普通だった?
……いやいや、それだと大金持ちなイメージのある両替商が成り立たなくなってしまう。換金レートはやっぱりもっと細かかっただろうと思う。
あ……それか、もしかして、ラヴィニエが「だいたい一対一」で覚えているだけで、実際はもっと細かい交換比率なのかもしれない。「青い血は金勘定などせぬ!」みたいな風潮が貴族には蔓延しているのかもしれないぞ。
「……なんでしょうか、その目は。何かとても不快なものを感じるのですが」
「気のせいだろ、気のせい」
ラヴィニエの胡乱げな眼差しからさり気なく目を逸らしながら、ついでに話題も換えた。
「そういえば、言葉はどうなんだ? 通貨が違うのなら、言葉も違うんじゃないのか?」
「ああ、それはないです。同じです」
即答で言い切られた。
「へぇ、言葉は同じなのか……」
「同じと申しましても、地方毎の訛りはありますから、全く同じというわけではありませんが」
「ふむ……その訛りは文字や文法にも表れている?」
「外交や儀典は詳しくないので、伝聞になってしまうのですが……国によっては文字の形、発音の仕方、言葉の意味などが少しずつ違っているのだとか。そうした各国毎の訛りを正確に読み取ることが、外交官に求められる能力なのだと聞いたことがございます」
「ふぅん……」
俺はなるほどね、と頷きながら考えをまとめる。
ラヴィニエが言う訛りとは、英語、フランス語、イタリア語……みたいなことのような思える。大元になる言語と文字があって、それがこの大陸(?)に人と共に広がった。そして各地に根付いて、独自の発展をしていったということなのだろう。
そうすると、貨幣がほぼ等価値で交換されるのも、大元の貨幣があったからだったりして? 過去にこの大陸(?)を統一支配していた大国家があったりするのかも?
……といったことをラヴィニエに聞いてみたら、笑ってこう答えられた。
「ああ、ございますね。そういった伝説が」
なんでも伝説に語られる大昔において、この世界は神とその僕たちによって統治されていたのだという。現在の生き物の祖先は、神の僕たちの奴隷として生まれ、悩むことなく幸せに暮らしていた。けれども、僕たちは互いに殺し合ったり、自ら死んだりして、次第に数を減らしていった。そして最後の下僕がいなくなり、奴隷たちだけが残された。神の意志を感じ取れるのは僕たちだけだったので、奴隷たちは神がまだいるのかどうかも分からなくなった。この取り残された奴隷が、人間を始めとした生き物全ての先祖なのだ。
「――という伝説なのですが、とくに最後のところについては諸説紛々です」
神の奴隷とは人間のことであって、その他の生物は神に連なっていない化外の存在なのだという説。または、魔物だけは神の奴隷を先祖にしていない外来種であるので排除しなくてはならないのだという説。はたまた、神の奴隷とは人間と魔族以外の生き物のことであり、人間と魔族は神の僕の後継者の地位を争う存在だったが、人間が勝利したことで魔族は知性を失って魔物に成り果てたのだ――などという説まであるのだそうだ。
「そういえば、彷徨い月は神の僕が、神が創った本当の月を真似して作ったものだ――という言い伝えもありますね」
彷徨い月というのは、不規則に出たり消えたりするふたつ目の月のことをそう呼ぶのだそうだ。
「へぇ……あの月、彷徨い月っていうのか」
「ちなみに彷徨い月は、嘘の暗喩としてよく使われます」
「え……」
新たに知った単語に頷いていると、さらりと言われた。反射的に見やると、ラヴィニエはいい顔で頬笑んでいた。
つまり、いまのは「彷徨い月を組み込んだセンテンスは嘘、冗談という意味だ」ということで、つまり「ふたつ目の月を神の下僕が作ったという話は嘘」ということになるわけで……要するにどうやら、からかわれたらしい。すごく、分かりにくい。この婉曲な言いまわしが貴族的というやつなのだろう……たぶん。
「え、ああ……ええと、そうだ。ラヴィニエ、きみは騎士なんだよな。その騎士というのは、貴族の一員ということでいいのか?」
「実態は色々ですが、公的にはそうなりますね」
「またなんとも貴族的な言いまわしで……」
話題を換えようと思って適当に切り出した疑問だったけれど、返ってきた言葉もまた、悪い意味で適当だった。
ラヴィニエ曰く――歴史的なことを言えば、貴族すなわち騎士だったらしい。すなわち、最初期の貴族とは馬に跨がり、武器を携えて戦う者だった。それが時代を経るにつれて血筋や身分というものが固定化されるようになると、貴族は戦士から政治家、官僚へと性格を変えていく。
貴族の義務として参戦の義務は今でも残っているのだけど、その義務を自分たちから分離させて、騎士という最下級の貴族相当の身分として取り立てた平民に任せるようになったのだ。そうして生まれた騎士身分の家柄が、現在における騎士の大多数なのだという。
「ですが、騎士の責務を自分たち自身で負い続けている貴族家も少数ですが残っております。我がアーメイ家もそのひとつであります」
そう言ったときのラヴィニエは誇らしげだった――のだけど、すぐに暗い顔になってしまった。
「……ですが、宮廷政治に注力した家のほうが大きくなっているのが実情です。アーメイ家も巫覡の家系という特殊性がなかったなら、いまより一段も二段も零落していたことでしょう」
つまりは、武力よりも政治力がものを言う平和な時代が続いていたということか。騎士の業務を切り離して外部委託にした貴族らに先見性があったというべきなのだろう。視点を変えれば、そうした貴族らは自身の責務を投げ捨てた恥知らずどもだ、ということになるのだろうけど。
「まあ、つまりだ……この国、ファルケンにおける現在の騎士というのは、身分的には貴族だけども実質的には平民とほとんど変わらない者がほとんどだ――ってことか」
「はい、そういうことです」
俺のまとめに、ラヴィニエは小さく首肯した。なんとなく、小学校の先生に褒められたみたいな気分になった。
ラヴィニエとの距離感は、実のところ、未だに固まっていなかったりする。それというのも、ラヴィニエが俺よりも一歳か二歳ほど年上なのにコミュニティの新参者という立場だからだ。日本人の学生として培ってきた倫理観は、彼女を先輩として敬うように、と訴えてくるのだが、当のラヴィニエが謙った態度を崩さないものだから、俺もつられて下級生に対するような言動で応じてしまう。
実際的なことを考えれば、年齢よりも立場を優先するべきなのだから、年下の俺に対して謙っているラヴィニエのほうが正しいというのは理解しているのだけど、折に触れて教師や先輩からそれとなく指導されているような雰囲気を感じてしまうと、どうにも戸惑ってしまう。
身分社会の人間であるラヴィニエにとっては、年齢よりも身分や立場を優先するのはごく自然にできることなのだろうか? あるいは、年の功というやつなのかね――。
「従者様、いま何をお考えになりました?」
「えっ、なにも!」
「そうですか」
目だけ笑っていない笑顔のラヴィニエに、俺は首筋に汗を伝わせながら、こくこく頷いた。女性の年齢を邪推するべきでないのは、世界の別を問わない真理のようだった。
余計な前置きを挟んでいるうちに、ゴブリンたちの素振りが終わっていた。
この辺りの季候は日本に近くて、晩春から初夏に向かっている現在は梅雨時に差しかかりつつある。つまり、蒸し暑い。そんな中で素振りをしていたゴブリンたちは当然、全員汗だくだ。
「あっ……♥」
ゴブリンたちのほうから風が吹いてきた途端、大変残念なことに、ラヴィニエの発情スイッチが入ってしまった。
「まっ、待ってくれ……まだ川に入らないでくれ!」
ラヴィニエは俺が前にいることも忘れて、いまにも汗を流すために川へ入ろうとしているゴブリンたちのところへ駆けていった。
「……犬か」
つんのめりそうな勢いで駆けていくラヴィニエの尻に、見えない尻尾がぶんぶん振りまわされているのが見えた。
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