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4章
53. 運命が翻った日 ルピス
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腰の前に出された両手には、一枚の板に穴を二つ開けた形の枷が嵌められている。
在りし日には陽光を浴びて輝く様子が「妖精が踊るようだ」と褒めそやされていた銀髪は、脂と垢と埃ですっかり黒ずんで、べたべたした汚い灰色になっている。
汚れているのは髪だけではない。かつては二日と空けずに湯浴みをして清めていた肌は荒れ地のようにがさつき、垢に塗れている。唇においても、言わずもがなだ。
侍女に鑢で磨いてもらうことのなくなった爪は歪に欠け割れて、隙間に黄色い垢を溜め込んでいる。身体と同じくらい汚れた襤褸から伸びた手足に走った引っ掻き傷は、痒さに堪えかねて割れた爪で掻き毟ったからだ。
麗らかな晩春の青空にはとても不似合いな、襤褸を纏った汚れた女――それが私だった。
麗らかな晩春の青空にはとてもとても不似合いな、処刑場へと引き摺られていく憐れな女――それが私だった。
王都の中央に位置する広場。
一年前までは多くの人々が行き交い、屋台の客引きや旅芸人の長口上が飛び交っていた。
一ヶ月前までは打ち棄てられた屋台の残骸が、逃げ遅れた旅芸人の死体に寄り添っていた。
そして今日は、一年前よりずっと多くの群衆が私の登場を待ち焦がれて、唸りを上げていた。
――ああ、怖い。ああ、滑稽だわ。
みんな、そんなに見たいのかしら? 衰弱しきった憐れな小娘が処刑人の手に掛かるところを。
私は泣けばいいかしらね。死ぬのは嫌だと泣いて喚いて、このひとたちに憐れがましく縋ってあげればいいのかしらね?
きっとそれを望んでいるひともいるでしょう。でも、してあげない。だって私は、憐れな小娘ではないのだもの。
「……ふ、ふっ」
私は、私の処刑を観るために集まった群衆に向けて、傲然と笑ってみせる。野卑な言葉で私を罵っていた群衆が、驚いたように押し黙る。
あら、分かっているじゃない。そうよ、これから女優が台詞を放つのだから、観客は静かにしなければ。
「竜を畏れぬ不敬な者どもに告げよう――!」
ああ、よかった。私の声、ちゃんと出ているわ。きっと今朝の食事がいつもより少しだけ豪華で、水よりも濃いスープと石よりも柔いパンだったからね。
見るからに弱り切っている私が朗々と喋り出すとは思っていなかったのか、群衆は狼狽えているようだ。私と目が合った最前列の男は、ぎくりと肩を震わせていた。
「不敬なる者どもよ、この身体は爪の先から髪の毛一本に至るまで全て、竜に捧げられしものよ。それに傷を付けんとする蛮行を、竜はけして許すまい。ここにいる者全員に、等しく、絶対に、罰を下すだろう」
私の演説に、群衆の顔はますます強ばっていく。
きっと彼らは、安全なところから私の首が切り落とされるのを見物しているつもりだったのでしょう。でも、私の言葉で思ってしまったのでしょう。
ここは安全な観客席ではない。ここにいたら、自分たちにも危害が及んでしまうかもしれない、と。
――ああ、愚かね。私の言葉を本気にしている。
この身体が竜のもの? わたしを殺したら、竜が復讐しにくる? ――そんなわけがない。
そんなことがあるのなら、竜はとっくに私を助けていたはずだ。劣悪な牢獄に囚われた私を助けに来てくれていたはずだ。それ以前に、私が捕えられる前に助けてくれていたはずだ。
つまり、私に竜の加護など、ない。私はただの王女だ。私を殺しても竜が復讐しにくることはない。いやそもそも、私は竜を見たこともない。そして一度だって、私は竜を見たことがある、などと宣ったことはない。
それなのに気がつけば、私は竜の祝福を賜ったのだと言われるようになっていた。その理由に心当たりはあったし、否定すれば罰を免れない者がいることにも察しがいっていたけれど、そういったことは二の次、三の次だ。私が周囲の評価を黙って受け容れた一番の理由は、特別な存在として扱われることが気持ち良かったからだ。
近しい者の保身から始まった嘘が、いつしかさらに多くを巻き込み、戦乱の炎になった。私はその火を、小さな火種であるうちに消さなくてはならなかったのに放置した。
私を信じて戦い、死んだ者がいる。私を信じた者と戦い、殺された者がいる。私のせいで多くの命が失われた。私はその責任を取らなければならない。最期まで、彼らの信じた私、彼らを戦いに駆り立た存在でなければならない。
私を信じた者も否定した者も、等しく価値あるもののために争い、死んだのだ。けして、つまらない嘘のために、ではないのだ!
「竜を畏れぬ不心得者どもよ、私を信じぬ愚か者どもよ――私を殺すがいい。そして怯えて暮らすがいい。愚か者ども、竜の火に焼かれよ!」
――ああ、本当に愚かなのは、最期まで嘘を吐くしかできない私ね。
戦乱が始まってからの一年間、いえそれよりもずっと前から吐き続けてきた嘘も、これが最後だ。この嘘が最後の見せ場だ。処刑場に立たされてなお傲岸不遜で在り続けた魔女の最期をもって、嘘を畏れに変えてみせよう――!
けれども、私の目論見は頓挫した。
私が人生最後になるはずだった口上を言い放った直後、遠くの山並みから恐ろしき咆吼が轟き、巨大な火の玉が空を焦がしたのだった。
私の台詞に合わせたかのように打ち上げられた火球を呆然と見上げながら、私は、まるで本物の舞台みたいだわ、と思った。
在りし日には陽光を浴びて輝く様子が「妖精が踊るようだ」と褒めそやされていた銀髪は、脂と垢と埃ですっかり黒ずんで、べたべたした汚い灰色になっている。
汚れているのは髪だけではない。かつては二日と空けずに湯浴みをして清めていた肌は荒れ地のようにがさつき、垢に塗れている。唇においても、言わずもがなだ。
侍女に鑢で磨いてもらうことのなくなった爪は歪に欠け割れて、隙間に黄色い垢を溜め込んでいる。身体と同じくらい汚れた襤褸から伸びた手足に走った引っ掻き傷は、痒さに堪えかねて割れた爪で掻き毟ったからだ。
麗らかな晩春の青空にはとても不似合いな、襤褸を纏った汚れた女――それが私だった。
麗らかな晩春の青空にはとてもとても不似合いな、処刑場へと引き摺られていく憐れな女――それが私だった。
王都の中央に位置する広場。
一年前までは多くの人々が行き交い、屋台の客引きや旅芸人の長口上が飛び交っていた。
一ヶ月前までは打ち棄てられた屋台の残骸が、逃げ遅れた旅芸人の死体に寄り添っていた。
そして今日は、一年前よりずっと多くの群衆が私の登場を待ち焦がれて、唸りを上げていた。
――ああ、怖い。ああ、滑稽だわ。
みんな、そんなに見たいのかしら? 衰弱しきった憐れな小娘が処刑人の手に掛かるところを。
私は泣けばいいかしらね。死ぬのは嫌だと泣いて喚いて、このひとたちに憐れがましく縋ってあげればいいのかしらね?
きっとそれを望んでいるひともいるでしょう。でも、してあげない。だって私は、憐れな小娘ではないのだもの。
「……ふ、ふっ」
私は、私の処刑を観るために集まった群衆に向けて、傲然と笑ってみせる。野卑な言葉で私を罵っていた群衆が、驚いたように押し黙る。
あら、分かっているじゃない。そうよ、これから女優が台詞を放つのだから、観客は静かにしなければ。
「竜を畏れぬ不敬な者どもに告げよう――!」
ああ、よかった。私の声、ちゃんと出ているわ。きっと今朝の食事がいつもより少しだけ豪華で、水よりも濃いスープと石よりも柔いパンだったからね。
見るからに弱り切っている私が朗々と喋り出すとは思っていなかったのか、群衆は狼狽えているようだ。私と目が合った最前列の男は、ぎくりと肩を震わせていた。
「不敬なる者どもよ、この身体は爪の先から髪の毛一本に至るまで全て、竜に捧げられしものよ。それに傷を付けんとする蛮行を、竜はけして許すまい。ここにいる者全員に、等しく、絶対に、罰を下すだろう」
私の演説に、群衆の顔はますます強ばっていく。
きっと彼らは、安全なところから私の首が切り落とされるのを見物しているつもりだったのでしょう。でも、私の言葉で思ってしまったのでしょう。
ここは安全な観客席ではない。ここにいたら、自分たちにも危害が及んでしまうかもしれない、と。
――ああ、愚かね。私の言葉を本気にしている。
この身体が竜のもの? わたしを殺したら、竜が復讐しにくる? ――そんなわけがない。
そんなことがあるのなら、竜はとっくに私を助けていたはずだ。劣悪な牢獄に囚われた私を助けに来てくれていたはずだ。それ以前に、私が捕えられる前に助けてくれていたはずだ。
つまり、私に竜の加護など、ない。私はただの王女だ。私を殺しても竜が復讐しにくることはない。いやそもそも、私は竜を見たこともない。そして一度だって、私は竜を見たことがある、などと宣ったことはない。
それなのに気がつけば、私は竜の祝福を賜ったのだと言われるようになっていた。その理由に心当たりはあったし、否定すれば罰を免れない者がいることにも察しがいっていたけれど、そういったことは二の次、三の次だ。私が周囲の評価を黙って受け容れた一番の理由は、特別な存在として扱われることが気持ち良かったからだ。
近しい者の保身から始まった嘘が、いつしかさらに多くを巻き込み、戦乱の炎になった。私はその火を、小さな火種であるうちに消さなくてはならなかったのに放置した。
私を信じて戦い、死んだ者がいる。私を信じた者と戦い、殺された者がいる。私のせいで多くの命が失われた。私はその責任を取らなければならない。最期まで、彼らの信じた私、彼らを戦いに駆り立た存在でなければならない。
私を信じた者も否定した者も、等しく価値あるもののために争い、死んだのだ。けして、つまらない嘘のために、ではないのだ!
「竜を畏れぬ不心得者どもよ、私を信じぬ愚か者どもよ――私を殺すがいい。そして怯えて暮らすがいい。愚か者ども、竜の火に焼かれよ!」
――ああ、本当に愚かなのは、最期まで嘘を吐くしかできない私ね。
戦乱が始まってからの一年間、いえそれよりもずっと前から吐き続けてきた嘘も、これが最後だ。この嘘が最後の見せ場だ。処刑場に立たされてなお傲岸不遜で在り続けた魔女の最期をもって、嘘を畏れに変えてみせよう――!
けれども、私の目論見は頓挫した。
私が人生最後になるはずだった口上を言い放った直後、遠くの山並みから恐ろしき咆吼が轟き、巨大な火の玉が空を焦がしたのだった。
私の台詞に合わせたかのように打ち上げられた火球を呆然と見上げながら、私は、まるで本物の舞台みたいだわ、と思った。
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