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第二部

いつ消えてもいいように

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「あの人にストーカー?」
 たまたま報告書をと持ってきたフロイードに声を掛けたレウは柳眉を片方だけ下げ、顎に手を当てた。フロイードを見据え、「珍しいことじゃねえだろ」と言い、なにか特別なことでもあるのか問うた。
「まあそうなんスけどねー、なんとなく。てか、エディスは今何処にいるんスか?」
 この人の勘は当てになる。ただのストーカーならまだいいが、ストーカーじゃなかった場合ーー例えば、あの人の私兵になることを拒んだ元反軍または革命軍だったりした場合、危険度が一気に上がるだろう。
 そう簡単にやられる人だとは全く思わないが、だからといって許しておけることではない。フロイードが言っているのもそういうことだろう。
「さっき外に出て行ったな……」
 危機感が足りない。やはり止めるか同行すべきだったと今更後悔が襲ってくる。
「いつ帰ってくるんスか」
「分からねえな。用事か?」
「んーん、そういうわけじゃないッスよ」
 気にしないでいいッスと手を前に持ってきて振るフロイードに、レウは嘆息した。
「あの~、勘ぐるのも程々にしてほしいんスけどぉ。僕、エディスの友だちッスからね」
 誕生日おめでとうって先に言いに来ただけなんで! と顔の前に突き出された指を、背を仰け反らして避ける。
「当日は彼氏に譲ろうかな~って気遣いなんスけど」
 エディスも任務なんて入れてと目くじらを立てるフロイードに、レウは呆気に取られながらも頷く。「彼氏じゃなくて愛人だ」と訂正するのは忘れずに。
「はあ……は? あー……まぁ、それを指摘するのはエディスにしてもらうとして。これ、代わりに渡しといてくださいッス」
 いつものコーヒーとプレゼントだと重量のある紙袋を受け取ると、「最近評判の歌劇、魔法を使うシーンがあるらしいッスよ」と有用な情報まで与えられる。
 それに言葉を返す前に踵を返したフロイードに、慌てて礼を述べる。エディスの趣味に合わせるとデートらしいコースが浮かばず難航していたのを気づかれていたのだろう。
「……恥ずかしいな」
 危機感の足りない主を迎えに行くことにする。どうせ気分転換がてらの見回りだろうから、すぐに帰ってくるに違いない。

 ーー帰ってきた。
 窓から見下ろした門扉の傍らの衛兵に片手を上げて挨拶しながら通り抜ける。目立つ銀髪は、こういう時ばかりは頼りになった。
 玄関扉を潜って廊下を足早に進んでくるエディスの腕を掴み、執務室の中に引きこむ。間近に迫った青い目が大きく見開かれたのを見ながら口づける。銀の睫にくすぐられ、瞼が伏せられるとこちらも目を閉じた。
 この人の唇は甘やかで、柔らかいと思う。
 これまで、になった女もいる。懸想していると気付いた時には慌てて恋仲になれるような女を捜したが、遅かった。
 なにせ、この顔だ。どこを捜してもこの人以上に整った顔の人間がいたら見てみたい。資料や本を片手に考えに耽っている時はいっそ恐ろしい程に美しいのに、一たび目が合えばころころと表情が変わる。
 手にしっくり収まる小さな頭はいつだって艶やかな髪で撫でると心地が良かったし、くびれた腰だってすんなりと手に馴染んだ。丸くて小さい尻が膝に乗り上げてきて、体に密着してくるといつだって胸が跳ねてうるさかった。この人にいつ気が付かれるかと危ぶんだくらいに。
 遂には部隊の奴らに連れていかれた商売女に乗っかられた瞬間に興ざめした時には、頭を抱えた。
 これが上官ならな――と、末恐ろしいことが頭をよぎったせいだ。
「急になんだ……っ?」
 たかがキスひとつで腰がくだけそうになっているのが可愛いと思う。首に唇を押し付けて吸うと、小さく声が漏れるのがたまらなく色っぽい。
 両手で尻を掴んで揉むと途端に慌てて身をよじる。相も変わらず、俺から迫ると恥ずかしがって逃げようとするのがじれったくて、追い詰めてやりたくて。その衝動を抑え込むのにも限界が近づいてきた。
 後二日。たったそれだけなのに、この人のことだと思えば噛み含んで大切にしたくなる。
「れ、れう……その、脚」
 どけて、とたどたどしく口から出てきた言葉に下を向く。股の間に足を挟み込まれたエディス様は、身長に差があるせいで踵が浮いてしまっている。縋りつくように両肩に手を置いている彼を揺さぶると、駄目だと言いながらも首に腕が回された。
 腰が跳ね、開いた唇からとろりとした唾液がのった赤い舌が見える。これで誘っているわけではないのだから困ったものだ。
「気持ちいいから困ってんのか」
 耳をかぷかぷと甘噛みすると、背中がのけ反る。目の縁から溢れそうになっている涙を吸ってから解放してやると、床に座り込んでしまう。腕を掴んで引っ張り上げようとするが、か細い声で待ってと首を振られた。
 こんなに敏感で、よく貞操が守れたなといっそ感心する。この人に不埒な手が触れないように守っていたのも俺なんだが。
「さて、少々質問しても?」
 片膝を立てて座って訊ねると、この状態で? と言いたげに睨んでくるご主人様に、そうだよと顎を掴んで上向ける。
「ストーカーはどうした」
 眉が寄って開かれそうになった口に食らいついて、きゅうと喉が鳴るまで空気を搾り取ってやると息絶え絶えになって床に両手を突く。肩が上下し、甘い痺れに震えながら「いる、けど……っ」と涙に濡れた目で見つめてくる。
「危ないだろ、少しは外出を慎めよ」
 フレイアムに任務を下ろせばいいと提案すると、エディス様はぽかんと上手く酸素が回っていない顔で首を傾げた。
「危ないって、猫だぞ……?」
 茶ぶちの子猫で、一週間前から正門辺りで会うと擦り寄ってくるようになってと説明されるが到底信じられず見つめていると、「アーマーに訊いてくれれば」と困ったように眉尻が下がる。
 前にもこんな顔をさせたことがあった。そう、あれは戦艦の客室で父親との思い出を口にさせてしまった時のことだ。
 不意にでも見せようとしない弱みをようやく見せてくれた瞬間だったが、彼の心をひどく傷つけた行為でもあり――
「悪い、不安で」
 なのに、今度は無理矢理体に聞こうとしてしまった。
 子猫が相手なら、動物が好きなこの人なら警戒心が和らぐのは当然のことだ。むしろ、可愛らしいストーカーとの遭遇を心待ちにしていただろう。それを詰るだなんて、愛人として出過ぎた行為だ。
「なにを不安に思うことがあるんだ」
 俺の頬に手を当てて心配そうに見つめてくるこの人だって忘れていやしないだろうに、わざと知らないふりをしている。
「アイツが迎えに来る」
 南の海で出会ったという男は、この人に向かって「奪いに行く」と言ったという。”奪う”その意味が計りかねるが、ろくでもない計画だろうな。なにせ、八歳や十三歳の子どもを狙ってのことだ。そりゃまあ、この人は十三歳でも人目を惹き付ける容姿をしていたけれど。
 中に巣食う程に執着をしている男が、期日を忘れるはずがない。必ず約束通りやって来て、俺が知らないこの人を暴いて二度と自分の目の届かない所に閉じ込めてしまうだろう。
「あー……そうだな」
 だというのに、この人は腕組みをして渋い顔をするだけだ。元来疑い深い性格なのにお人好しというか、好意を向けられると途端に断れなくなる。
 それはきっと生い立ちによるもので、疑い深いのではなく人を信じていたいのだろうと気付いてからはーー口を挟むのも三回に一回程度にするようにしていた。
「そろそろ決着つけねえとな」
 元気だといいがなあと親戚に対するような口ぶりで語るので、思わず顔を見返してしまう。
「あ、そうだ! 郵便に出しといてほしいのがあったんだった」
 急ぎなんだと執務机に駆け寄って大量の手紙を手に戻ってきたので面食らった。
 呆れた。呆れたが、はぐらかしているのではなく、大したことのように感じていない様子だったので「まぁたアンタは」とため息が出ていく。
「ソイツに聞きたいこともあるし、来るならさっさと来いって感じなんだよな。あ、多分身元不明の怪しい奴じゃないと思うぞ」
 誤解してはいけない。俺はこの人の愛人であって、恋人ではないことを己が身に染み込ませなくては。
「留守の間頼んだぜ」
「はいはい、分かってます」
 憮然とした気持ちを向けると、彼は苦笑いを浮かべて頭に手を伸ばしてくる。子どもの撫で方を知らない手はさらりと髪の上を滑るだけで、ささくれだった精神が落ち着いていくのを感じた。
「帰ったら祝わせろよ」
 大人しくなと言いつけると、エディス様ははにかんで「分かったよ」と俺の体に腕を回して軽く締め付けてから体を離す。
「行ってくる」
 そう告げて昨夜にまとめておいた荷物を手に出ていってしまう。

 翌朝、どこを捜してもあの人の姿はなくーーまるで予期されていたかのように片付けられた執務室に、眉を寄せる。
「……どこに行かれてしまったんですか」
 答えが返ってくるはずもない部屋で、レウはひっそりと目を閉じた。
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