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水理編
9.嗤う月、輝く夜、記憶の底――誘う腕
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夜の途中は苦手だ。
耳が痛くなるくらいに静かで、横たわっている自分が死体のように感じられるから。
みんなが寝ている時に起きてしまうと、一人ぼっちで世界に残されているような気持ちになる。
ゆっくり起き上ったエディスは、息を長く吐き出しながら額に両手を当てた。水路を進んでいる船内は冷え込んでいて、誰かとくっついてでもいないと寝れないだろう。ドラゴンと一緒に寝ているフェリオネルやアイザックの方が温かい夜を過ごしているに違いない。
右側を見ると、背中を向けて寝ているレウが見えた。規則正しい寝息を立てている姿に安堵して、手を伸ばす。
昨日エディスが戻ってからも傍からいなくなるのではと不安だったのだろう、寝ていると見せかけて体は半覚醒状態のようだった。船に来るまでに体を休めていたといえど、極度の緊張や精神的な疲労が睡魔となって襲い掛かってきて敗北したのだろうと予測がつく。
頭を撫でようとして、起こしてしまうことに気が付いて手を引っ込める。
カタ、と音がしてエディスは腕を伸ばす。片腕で背後のレウを庇ったまま体を半転し、ベッドの上で膝立ちになって暗闇の中で目を凝らす。
(……あれは、腕だ)
僅かに開いた扉の隙間から、白い腕が出ていた。ひらひらと上下に動いているそれは、こちらを向こう側の暗闇へと誘いかけてきている。
女の手ではない。骨ばっていて爪先が細い手に、どこか見覚えがあった。
「――まさか」
床に足をつけて、緩慢に腕を振って歩き始める。壁に手をついて、扉を持って内側に引く。廊下に出たエディスを招く腕は壁の向こうから生えていた。曲がり角からふらふら、ひらひら。
どうしてか、嘲るようには見えず。児戯のように、これは悪戯を仕掛けているだけなのだと直感的に信じられた。
「待て」
呟いて、なるべく音を立てないために靴を脱いでから走り出す。これが誰にも見つかってはいけない行為だと気付いてからだ。
腕はどこまでも続き、それを追う。追いかけっこをさせられていると気付いていながらも、足は止まらない。
甲板に上がる扉が開く。星が瞬くそこから、両腕が突き出てくる。
――こちらにおいで
勢いを殺さず、腕を伸ばして暗晦に飛び込んでいく。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪む。荒波に揉まれるように体が宙を漂う。脳が揺さぶられて吐きそうだ。自分を形どる全てがあやふやになる。
波のような音が耳に入ってくる。
水だ。
俺は丸まって海中を漂っていた。四肢を縮め、目を閉じ、ただ波に体を任せるだけ。逆さまなのか正しいのかすら分からない。
けれど、不思議と苦しくはない。包む海は温かく、守られているとさえ感じられた。
なのに、俺の体はいつしか引き上げられていた。そこは逆さまの世界だ。にやにやと嗤う月、輝く夜、赤黒い色をした晴天が繰り返し、繰り返し流れ続ける。
ここでは、死も生も同じく命だった。
次いで、愛を見た。
生まれたばかりの赤子が、白いおくるみに包まれて泣いている。
腕に抱えている母も、それを覗きこんでいる父も微笑んでいて――”幸せ”がそこにはあった。
流れる銀に、瞬く金。見つめる二対の青。
それを知覚して、ようやく理解した。これは俺の記憶の底なのだと。
「エディスさん!!」
急に視界が開けた。いや、瞼を無理矢理開かされたといった方が正しい。
「うぅっ!」
いきなり光の中に放り込まれて、慣れない目を庇って顔を手で覆う。なにがと焦りながらも防御魔法を展開すると、小さな笑い声が聞こえた。
「僕が分かる? エディスさん」
安心して、とか細い声とともに頬に手が触れてくる。ぬるい熱に、エディスはお前かと目を細めて笑った。
「俺を呼んだのは、エドだったんだな」
久しぶりと口にすると、額に骨が当たる感触がした。目を開けると眩い程の金が目に入り込んでくる。
「エンパイア家にようこそ」
耳が痛くなるくらいに静かで、横たわっている自分が死体のように感じられるから。
みんなが寝ている時に起きてしまうと、一人ぼっちで世界に残されているような気持ちになる。
ゆっくり起き上ったエディスは、息を長く吐き出しながら額に両手を当てた。水路を進んでいる船内は冷え込んでいて、誰かとくっついてでもいないと寝れないだろう。ドラゴンと一緒に寝ているフェリオネルやアイザックの方が温かい夜を過ごしているに違いない。
右側を見ると、背中を向けて寝ているレウが見えた。規則正しい寝息を立てている姿に安堵して、手を伸ばす。
昨日エディスが戻ってからも傍からいなくなるのではと不安だったのだろう、寝ていると見せかけて体は半覚醒状態のようだった。船に来るまでに体を休めていたといえど、極度の緊張や精神的な疲労が睡魔となって襲い掛かってきて敗北したのだろうと予測がつく。
頭を撫でようとして、起こしてしまうことに気が付いて手を引っ込める。
カタ、と音がしてエディスは腕を伸ばす。片腕で背後のレウを庇ったまま体を半転し、ベッドの上で膝立ちになって暗闇の中で目を凝らす。
(……あれは、腕だ)
僅かに開いた扉の隙間から、白い腕が出ていた。ひらひらと上下に動いているそれは、こちらを向こう側の暗闇へと誘いかけてきている。
女の手ではない。骨ばっていて爪先が細い手に、どこか見覚えがあった。
「――まさか」
床に足をつけて、緩慢に腕を振って歩き始める。壁に手をついて、扉を持って内側に引く。廊下に出たエディスを招く腕は壁の向こうから生えていた。曲がり角からふらふら、ひらひら。
どうしてか、嘲るようには見えず。児戯のように、これは悪戯を仕掛けているだけなのだと直感的に信じられた。
「待て」
呟いて、なるべく音を立てないために靴を脱いでから走り出す。これが誰にも見つかってはいけない行為だと気付いてからだ。
腕はどこまでも続き、それを追う。追いかけっこをさせられていると気付いていながらも、足は止まらない。
甲板に上がる扉が開く。星が瞬くそこから、両腕が突き出てくる。
――こちらにおいで
勢いを殺さず、腕を伸ばして暗晦に飛び込んでいく。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪む。荒波に揉まれるように体が宙を漂う。脳が揺さぶられて吐きそうだ。自分を形どる全てがあやふやになる。
波のような音が耳に入ってくる。
水だ。
俺は丸まって海中を漂っていた。四肢を縮め、目を閉じ、ただ波に体を任せるだけ。逆さまなのか正しいのかすら分からない。
けれど、不思議と苦しくはない。包む海は温かく、守られているとさえ感じられた。
なのに、俺の体はいつしか引き上げられていた。そこは逆さまの世界だ。にやにやと嗤う月、輝く夜、赤黒い色をした晴天が繰り返し、繰り返し流れ続ける。
ここでは、死も生も同じく命だった。
次いで、愛を見た。
生まれたばかりの赤子が、白いおくるみに包まれて泣いている。
腕に抱えている母も、それを覗きこんでいる父も微笑んでいて――”幸せ”がそこにはあった。
流れる銀に、瞬く金。見つめる二対の青。
それを知覚して、ようやく理解した。これは俺の記憶の底なのだと。
「エディスさん!!」
急に視界が開けた。いや、瞼を無理矢理開かされたといった方が正しい。
「うぅっ!」
いきなり光の中に放り込まれて、慣れない目を庇って顔を手で覆う。なにがと焦りながらも防御魔法を展開すると、小さな笑い声が聞こえた。
「僕が分かる? エディスさん」
安心して、とか細い声とともに頬に手が触れてくる。ぬるい熱に、エディスはお前かと目を細めて笑った。
「俺を呼んだのは、エドだったんだな」
久しぶりと口にすると、額に骨が当たる感触がした。目を開けると眩い程の金が目に入り込んでくる。
「エンパイア家にようこそ」
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