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逃亡編

7.夜陰に混じって

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 短い夢を見ていた。
 夢の中でエディスはレウの膝に頭をのせて寝かせてもらっていた。普段は不愛想な彼も夢の中だと刺々しさが取れるのか、エディスの髪を指で梳いていて……その優しい手つきがあまりに心地よくて、泡沫のように漂ってしまう。
「あなたは、この人が本当に王子だと思いますか」
 レウの声に胸が跳ねた。もしかして、疑われているのだろうか。
 それは嫌だと思った。この数年、常に傍にいた部下に疑心を持たれているなんて夢でも面白くはない。そもそも、レウが疑わしい相手を上官に選ぶような愚鈍な男ではないという確信があった。
「そうだね、その可能性も考慮しておかないといけない」
 この国ではなにがあるか分からないから、と冷ややかな色を含んだ声が応える。これはエドワードだろう。
「何年で中央に戻れるのでしょうか」
 レウに我慢を強いる旅に出てしまった。これで彼も中央には戻れず、昇級も見込まれない。それどころか数年単位で給料も貰えないのだ。エディスは今になってから、もっと彼に生家であるバスターグロス家について訊いておくべきだったと後悔した。
「長くて三年。騒ぎがあれば二年足らずで戻らなければならないんじゃないかな」
 許しておかれはしないだろうねと、嘲笑するような声音にレウが落胆の息を吐く。
 ごめん、と心の中で呟いた。ごめん、起きたらちゃんと本物に言うからと今は声にはしないけれど。
「王の血を継いでいなかったら、お前はどうするの」
「どうとは……?」
「北の大地に置き去りにでもするのかって訊いているんだよ。分からない?」
 一笑に付されたレウからの視線を感じた。あまりに長い間――とエディスは感じた――見つめられ、身じろぎをしそうになるのを我慢する。
 彼は、縮こまって眠るエディスの手を取って「置いて行ったりしません」と堅い声音で、恐れげもなく言った。
「抱えて、どこになりと行きます」
 俺はもうこの人に誓いましたからという言葉に、胸が熱くなる。握られているレウの手と胸が繋がって、心さえ結ばれるのではないかと錯覚しそうになった。
「そう……お前、いいね。愛人にでもしてもらえば?」
「それこそ冗談みたいな話ですよ」
 俺じゃこの人には勿体ないと、木々の囁きのようにレウが笑った――気が、した。

 ガタン、ゴトンとさざ波のように規則的な音を立てて列車が進んでいく。
 うっすらと目を開けたエディスは、すっかり枕にしてしまっていたシュウの膝から起き上る。それで、ああやっぱりあれは夢だったのだと呟きを落とした。レウがあんな風に自分を想ってくれているはずがない。
 瞼を擦って、向かい側の席にレウの姿を認めると安堵の息を漏らす。生まれ育った中央を出るのは、これが二度目だ。感傷に包まれて、それであんな都合のいい夢を見たのだろう。
 今度は命令ですらない、自分が生まれた理由を知るための旅。
「……寝ないのか」
 起き上って辺りを見渡すと、反対側の一人席に腰かけているエドワードに気が付いて声を掛けた。
 深い山の緑と雪――北に近づいてきたのだろう。大きな車窓から見えている紺の空には紫がかった雲が掛かっている。星が宝石のように映るのは、窓枠に肘を突いて空を眺めていたエドワードの瞳が美しかったからだろうか。
「寝ずの番のつもりとか……」
 こちらを振り返ったエドワードの青い瞳は、ランプの光を纏ってさらに輝いていた。
「元々寝付きが悪いだけだよ」と彼はやんわりと微笑んで、手に持っていた万年筆を置く。
「起きちゃったんだ。明るかったかな」
 首を振るが、その時になってようやくエドワードの前にある机に書類が置かれているのに気が付いて「邪魔したかな」と身を引く。
「ううん、そろそろ終わりにしようかと思っていたから……あなたと話がしたいな」
 嬉しい申し出に、じゃあと唇を湿らせて「そっちに行ってもいいか」と誘いかける。エドワードに快諾されたことで、彼が座っている席の横にあるコンパートメントに移動した。
「エドは、シルクの幼馴染なんだよな」
「そうだね、小さい頃から一緒に遊んだよ」
 やはりシルクの婚約者だったのだと確信した。家柄的にも、幼い頃から交流していたという事実からして……。
 二人が大人になって結婚していたら、さぞかし華やかな夫婦ができただろう。それを見れなかったことが悔やまれる。
「軍でシルクが迷惑掛けたよね」
 エドワードは苦々しい笑みを浮かべて、首を触った。
「なんか、急に入りたいとか言ってきて……止めても無駄なので好きにすれば? って言ってしまったんだ。こんなことになるなんて思わなかったけど、あれは軽はずみな言葉だったなぁ」
 青い瞳が悲しみや怒りで満たされているのではと。エディスは案じて彼に目線を向ける。
「だけどね。シルクは楽しそうだったから、それでいいんです」
 人は死ぬ生き物だしと零すエドワードの顔は、自分よりも一歳年下の少年だとは思えない程に大人びていた。
「彼女が軍に入った時から、こうなることを考えていなかったんじゃない。僕も……シルクだってね」
 印象的だと思った、どこか違和感さえ覚えた笑顔。決まったように同じ顔で笑うのだ、この子どもは。
 同じ角度に上げた口端、目の細め具合、眉の下げ方ですら。恐らく、幼少の頃から何度も鏡の前で試行を繰り返し、練り上げた賜物だ。
 箱庭に押し込められていた彼らは、多くのことを考えた。小さな箱の中ででも生き方を選んだ。どうすれば箱から出れるのかと、時折会いに来る人のことを大事にしていたのだと……エディスにも理解ができる。
「けれど、あなたたちは違ったんですね」
 無邪気にそう言うエドワードの目は、悪戯をする子どものような光も含んでいた。けっして面白がっているような風ではなかったが、エディスは少し座りが悪くなる。
「そうだな。俺はシルクが死ぬなんて思ってなかった。そんな世界なんかないって……今も、」
 今この時だって思っている。
 何故なら、自分はシルクの死に顔さえ見ていない。シルクが死んだと頭の底で理解できていない。墓の下にだって、本当はシルクの骨は入っていないんだろうと疑って生きている。
「シルクは帰ってこないんですよ。笑ってもくれやしない」
 だが、目の前の少年はこともなげにそう言う。彼は、シルクの最期を見たのだろうか。
「……シルクは、笑っていたのか」
 エディスの問いに、エドワードはなんのことかと訝しむように眉を寄せ、口をきゅっと上に結ぶ。それから、死に顔のことかと気付くと、なんてことを訊くのかと暗い笑みを浮かべた。
「人助けをしたのに、笑って死なないとでも?」
 あなたなら理解していると思った。そう言いたげな言葉に、エディスは沈痛な面持ちになる。
「僕、軍関係者の葬儀にも参列したんだよね」
 一瞬、時が止まったかのように感じられた。
 を、あの醜態をこの少年が見ていたというのか!?
「わ、悪かった!」
 謝罪が口を突いて出た。だが、エドワードはえぇ? と眉を顰めると「どうして謝るの?」と不可思議そうな顔になる。
「顔なんか見えてなかったし、騒がしかったから退場してもらったんだけど……あの人、エディスさんじゃなかったじゃない」
 自分ではない……ということは、シトラスのことだろうか。あれだけ派手に騒げば目にもつく。
「いや、俺も一緒になって騒いでた口だから……」
 頭を振るってもう一度謝罪の言葉を口にすると、エドワードはため息とともに「呆れた」と吐き捨てた。
「ねえ、エディスさん。手を出して」
 唐突な願いに動揺したエディスが「手? え、なんで?」と訊くとエドワードは答えずに早くしてと命じてきた。
 焦れたのか立ち上がったエドワードが、手を差し出してくる。エディスがおずおずと手を伸ばすと、それを両手で握って頬に押し当てて「冷たい」と目を細める。そう言うエドワードの手は温かくて、二人の熱が混じっていく。
「冷たい、夜のシーツみたいな手だ」
 どんな風にシルクと話をしたのだろう。どんな風に二人で過ごしたのだろう。自分が奪ってしまった過去が辛く、悔しかった。
「だけどもう、どんなにこの手で殺したとしても彼女は帰ってきてくれないんだ……!」
 過去へは帰れない。どんなに想っても、願っても現在か未来にしか行きつけない。
「そうだよ。でも、それだけで戦うことを止めるの?」
 それこそ命への冒涜だと言い放ったエドワードの燃える瞳に、囚われる。人を食うような発言や顔付きばかりする少年だが、実は情熱的なのかもしれないと感じた。
「シルクがあなたに掛けた願いがなにかを考えるのが、弔いになる」
 エドワードが眉を寄せて、苦し気に笑う。その微笑みがあまりにもシルクのものとはかけ離れていたから、ついには涙が零れ出ていってしまう。
「ええ? なんで泣くの。もう、困った人だなあ……」
 エドワードは眉を下げ、エディスの頬を流れる涙を拭う。まるで子どもにでもなったような気分で、恥ずかしい。けれど、この少年にはこんな姿を見せてもいいと思えた。
「そんなに泣くと、またキスするよ」
 泣き顔が可愛くて困ると言ったエドワードの唇が眦に触れる。
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