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南部編ー後半ー

5.ご主人様は見た!

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 昔、悪魔と呼ばれた少年がいた。夕焼けのような温かみがある橙の髪に赤紫の目をした、整った顔立ちの少年だ。
 彼が大人になっていく過程を描くならこんな顔だろう――そう思える姿かたちの男がこちらを見下ろしている。
「あれ、ミスティカお嬢さんの家ッスよ!」
 エディスの後ろから身を乗り出したジェネアスがこらあと拳を振りかざす。それに誰だと訊ねると、「知らないんスか? マーチさん……あ、反軍の副リーダーなんスけどね。彼が好きな人らしいッスよ。なんでもピアノが得意らしくて~」と矢継ぎ早に飛んでくる。
 それにドールがどこまで調べたんだと目を見張らしていたが、ため息を吐くことで堪えた。
「誰だぁ? あのキザなの」
 その代わりに不審者の方を知り合いなのかと訊いてきて、エディスは「アンタだって知ってるはずだ」と答える。なにせ、彼を殺そうとしたのは反軍なんだから。
「おい、裏切りってなんだよ」
「おい? 俺の、あの可愛いエディスが俺を“おい”扱いするなんて……」
 裏切った心当たりが一切ないエディスは、なにやら強烈に衝撃を受けているらしいドゥルースと思わしき青年に「俺は軍属だぞ」と叫ぶ。すると「軍……軍人⁉︎」と頭を抱えられてしまう。
「エディス、本当に知り合いなんスか? なんも知らないみたいッスけど」
 他人の空似ってやつかと言うジェネアスに、その可能性は低いと首を振る。離れていても分かる程に濃い闇の魔力が、彼がドゥルースたる証明だ。
「海辺で、君を見つけた」
 海辺という単語に、胸が跳ねる。まさか、あの狂った女に会いに行ったことを示唆しているのかと固唾を呑んで次の言葉を待つ。
「すぐに君だと分かった。だから迎えに行こうとーーまた、二人で暮らそうと」
 そう思ったんだと言うドゥルースに、エディスは曖昧な相槌を打つ。
 思っていたのなら、なんで今になるまで声を掛けてこなかったんだ? 自分の敵である反軍のリーダーの娘が傍にいたから? 疑問が、喜びを遮っていく。
「だけど、君は俺の知らない男とキスをしていた!!」
 目を大きく見開き、全身の毛を逆立てた猫のように固まる。ドールはエディスを向いて「君まだ子どもだろ……変質者にでも襲われたのか?」と案じるような顔つきになった。
 ジェネアスに「この間のことじゃないッスか。こういうのは素直に言った方がいいッスよ」と背中を突かれ、「えっ、そうなの⁉︎」と聞こえていたらしいリスティーがキッチンから身を乗り出してくる。周りから心配やからかいの言葉を受けたエディスは「ほっといてくれよ!」と耳まで真っ赤にして叫ぶ。
「俺が誰とキスしてたって俺の勝手だろ!!」
 小さな声が肩口でして、エディスは首を捻って斜め後ろに視線を送る。
「それ、言っちゃ駄目なやつッスよ……エディス」
 理由を訊ねる前に、またも地面が揺れた。それどころか大気にすら僅かな振動を感じる。見ると、ドゥルースの周りに黒混じりの紫煙が漂っていた。
「……君は、俺の帰りを待ってくれていなかった。それは確かな裏切りだ」
 待っていたよ、それどころか人だって殺した!!  分かってほしいだなんて思わない。だが、あの頃もーー今も。ドゥーを慕う気持ちは変わっていないことを、どう信じてもらえばいいのか。彼が厭う、この口で。
「俺は、軍も反軍もーーこの国の全てを滅ぼす! そして、君を手に入れる」
 エディスはジェネアスをリスティーがいる方へ押しやり、次いでドールの周囲に魔法のシールドを張る。後方でリスティーの声が聞こえてきたので、親友の身の安全は保証されたに違いない。
 誰かの想い人の家を土足で踏みつけておいて、愛を語る男を睨みつける。
「魔力が毒になるというのも嘘だったのか!」
「ああ、そうかもな!!」
 その目で確かめてみろよと紋章を描き、術を展開するとドゥルースは「よくそこまで薄汚く染まったものだ」と叫んだ。その声が、あの時“死なないで”と自分に縋っていた子どもの声とあまりに被さり、エディスは眉間に皺を寄せる。
 互いに同時に発動した魔法が正面からぶつかりあい、霧散した。ドゥルースの表情はこちらからは見えない。だが、次の手を出してこないところを見ると、少なくとも衝撃は受けたはずだ。
 この間に避難してくれと願うエディスを前に、ドゥルースは慟哭した。まるで遠吠えのようなそれに、エディスがさらに強固なシールドを周囲の人がいるであろう所にシールドを張った瞬間、吹き飛ばされる。暴風雪が吹き荒れて去っていくような感覚に、悲鳴ひとつ上げることもできず、ただ流れにみを任せた。
 柔らかなシールドを自分の周りに貼っていたエディスは家から離れた所に落下する。すぐに身を起こすと、目と鼻の先の距離に群青の毛並みを持つ狼が降り立った。ーー極寒の地で暮らす狼の王者、その成熟した姿に違いない。
「アリィード……!」
 汗ばむような暑さが消え失せ、息まで凍りそうなくらいだ。
 ゆうに三メートルは越える体躯を持つアリィードが歯を剥き出しにして、唸り声を上げる。どうしてか恐れはなかった。それどころか、胸を満たすのは郷愁ばかり。
 このまま、お前を抱きしめられたらいいのにと、そう願ってしまいたい気持ちを押し殺しきれなかった。再会を喜びあうことが許されない、悲しみを帯びたエディスの目を見たアリィードの足が直前で止まる。頭を下げてきたアリィードの舌が、エディスの眦を舐めていく。冷ややかな感触だけを残し、去っていく狼の姿にエディスは「アリィード! 約束する!」と叫ぶ。
「お前の主人と、必ず仲直りするから!」
 いつかきっと分かり合えるはずだ。泣いているのか、怒っているのか、それとも笑っているのか。顔が見えるくらいに近くに行けば、俺の気持ちもーードゥルースの気持ちも。そう信じてエディスは彼が最も信頼する魔獣に誓いを刻み込んだ。
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