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三章/夏歌えど、冬踊らず
森に解ける灰・六
しおりを挟む机の上を片付け終わり、さて社を出ようという段になって、秘書の間部がキョロキョロし始めた。
本郷大樹はそれに気づいて、思わず噴き出しそうになる。笑いそうなのを堪えたために、不機嫌そうな仏頂面になった。
間部は視界の端に大樹の不機嫌な顔を見つけ、ますます焦った様子で辺りを見回している。きっと、せっかちな大樹が待たされることに苛立っているとでも思っているのだろう。
勤続二十八年になる熟練秘書の間部征爾は、端正な佇まいの男だ。
すっきりとした長身は、若い頃から長距離走を続けていたせいで、五十代になった今も無駄肉を寄せ付けない。
手足がすらりと長く、やや骨張った手は指と爪の形が抜群に良い。体型に合わせた上物のスーツは地味な色味を選ぶことが多いが、それがまた足の長さや肌の白さを引き立たせて、何とも言えない品があった。
若い頃は誰もが思わず振り返るような男前だったが、それは今もあまり衰えを見せない。少し窶れた感じの頬のラインが、いっそ若い頃より艶めかしいくらいだ。
茶色みがかった切れ長の目と細い鼻梁、それに薄めの唇が、全体の雰囲気を冷淡そうに見せて、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
ところが、これが笑うと打って変わって人懐こい印象になり、そのギャップが堪らない魅力なのだ。
スケジュール管理は万全、取引先への根回しも完璧、無理だと思えるアポイントも人脈を駆使して難なく取り付けてくる。
完全無欠の隙なし秘書だ。――表向きは。
「間部、帰るぞ」
せっかく片付けた引き出しの中まで覗く間部に、ついに大樹は笑いを堪えきれなくなった。
顔を上げた間部が何か言いかけるより早く、大樹は自らの頭の上を指さして教えてやる。間部が『アッ!』という顔をした後、ばつの悪そうな表情で頭上に乗せていた眼鏡を下ろした。近頃使い始めた老眼鏡だ。
もうこんな物を使う年齢になったのだなと、大樹は感慨深く思い返す。
大樹が初めて間部に会ったのは一五歳の時。間部が当時は珍しかった男性秘書となったばかりのことだった。
「社長をお迎えに上がりました。秘書課の間部と申します」
そのころ、大樹の登校時間と父親の出社時間はちょうど重なっていた。
玄関を出た大樹は、ちょうどインターフォンを押そうとしていた背の高い青年と目が合った。
こんな朝早くからなんだという疑問が顔に出たのか、青年は深々と頭を下げ、大人にするのと同じように丁寧に名乗った。
秘書と言えば、小綺麗な若い女の仕事だと思っていた大樹は、間違えても女には見えない青年をまじまじと見つめた。
昨日まで迎えに来ていた女性秘書とは随分雰囲気が違う。
人を寄せ付けないような白く冷たい顔、威圧的なほど硬い仕草。後から思えば、これが間部の秘書デビューの日だったのだから、緊張していたのだろうが、第一印象はすこぶる悪かった。
生意気盛りの中学生だった大樹は、この澄まし顔の男前秘書をからかってやることにした。
「今度の愛人は男かよ。親父もまったく見境なしだな」
大樹の言葉に青年が大きく目を見開いた。茶色がかった淡い色の虹彩が綺麗だと、大樹は思った。
見惚れて言葉を失った大樹の脳天に、その直後、遠慮のない拳骨が落ちてきた。
「こら、大樹! お前がそんなんだから、秘書を変えたんだぞ!」
鞄を抱えて後ろから出てきたのは当の父親だ。
「……いってぇ!」
頭を押さえて呻く大樹の姿に、青年が思わずといった様子で笑った。屈託のない、子供のような顔で。
冷たく酷薄そうに見えた顔が、笑った途端驚くほど人懐こい印象に変わり――この瞬間、大樹の運命の相手は決まってしまったのだ。
初めて出会った少年の日、すでに間部は妻帯者だった。
想いは一生黙っておくしかないと覚悟していた大樹の元に、だが、運命は予想もしない形で転がってきた。突然の病で妻を亡くした間部が、隙だらけの無防備な姿で大樹の前に落ちてきたのだ。
為し崩しに関係を始めてもう数年が経つ。
大樹の方は恋人同士のつもりでいるのだが、間部はどうやらこれは秘書としての務めの一環だと、自分自身に言い聞かせているらしい。
隙がなさそうに見えて、どこかぽっかりと抜け落ちたところも、間部の可愛いところだ。
「……コンタクトにしたらどうだ。何処に行ったか探さなくて済むし」
駐車場を並んで歩きながら、大樹はさりげなく言ってみた。
綺麗に年齢を重ねた間部の顔が、眼鏡に邪魔されてよく見えないのが惜しいからだ。
フレームレスのシャープな眼鏡は老眼鏡には見えないし、怜悧な顔立ちの間部にはいかにも有能秘書という雰囲気でとても似合っている。
けれど、あの綺麗な虹彩がレンズ越しにしか見えないのは勿体ない。
それにキスしたいと思った時に、いちいち眼鏡を取り上げる一手間が面倒だ。コンタクトなら、今までと同じようにいつでも隙を見てキスできる。
「いえ……その……」
大樹の提案に、間部が難しい顔をした。
眉間に皺を寄せて考え込む顔は、何か重大な事情でもあるかのようだ。
考え込むようなその表情が禁欲的な色気を帯びて、大樹の少々精力が過ぎる下半身を刺激した。
「――異物を入れるのが、どうしても嫌なので」
やがて重々しく発された間部の言葉に、大樹は一瞬ポカンとなった。
異物は嫌だと言うが、間部は体力の許す限り大樹が誘う大抵のプレイに応じてくれる。まだ後ろであまり感じなかった頃には、いわゆる大人の玩具も色々と試したが、それほど拒絶された覚えはない。
むしろ新しいことを経験するのに積極的なのではないかと思ったほどだ。
――尻の中に異物を入れるのは好きな癖に……。
思わずバカげた光景が脳裏に浮かんだ。
嫌がる間部を押さえつけ『いいじゃないか、初めての時は誰だって痛いもんだ』とか言いながら、コンタクトレンズを目に入れてやるのだ。粘膜を抉じ開けて、本来入る余地のないところに、異物を押し込む。
間部は痛くて涙を流すかもしれないが、慣れたらそのうち『もっと入れて下さい、気持ちいいです』とか言い出すかもしれない。
恥ずかしいことや苦しいことを口では嫌がるが、体の方は善がっているのが丸わかりなので、間部はちょっとMの気があると大樹は思っている。
好きな相手を虐めたくなる自分とは好相性だ。
『これも秘書の務めですから』などと言って冷たく澄ました間部が、首まで真っ赤に染めながら『大樹さん、もう許してください……』なんて口にすると、大樹の下半身は堪らなくなる。
もちろん許すはずがない。バリバリ発奮するに決まっている。
「よし!」
大樹は予定を変更した。
「間部、今日も残業だ」
「えっ!?」
週に三日ほどはノー残業デーにしようと思っていたが、この火急の時にそんなことは言っていられない。今すぐ異物を入れられる気持ちよさを間部に再認識させねば。
間部の手から車のキーを奪い取り、運転席へと向かう。
昨日も残業だったので、よほど予想外だったのだろう。間部は素っ頓狂な声をあげてうろうろしている。断る口実を探しているようだ。
大丈夫、心配するな。短時間で済ませるし、体力もあまり消耗しないプレイを考えるつもりだ。
そう言って安心させてやりたいが、嘘になる可能性もあるので用心深い大樹は口にしない。
その代わり逃げ口上を封じるために眼鏡を取り上げて、大樹は車の影で恋人の唇を奪った。
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