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三章/夏歌えど、冬踊らず
森に解ける灰・四
しおりを挟む「臣籍降嫁、ですか?」
緊張の滲む声で問いかけたのは、付き添っている騎士団長のカッツェだった。
ディルタスはそれに大きく頷きながら、手を叩いて後ろに控えていた従者に人を呼びにやらせる。
従者が慌てた様子で謁見の間を出ていくのを見守って、ディルタスは玉座の上で足を組み直した。
「そなたは平民の出身だと聞いているが、皇室の伝統的な婚姻制度は知っているだろうな?」
カッツェの問いかけには応えず、皇帝は青く澄んだ目で、まっすぐにグレウスを見据えてきた。
グレウスはごくりと唾を飲む。
皇室には、さまざまな特有の決まりごとがある。
最も有名なものは、皇位継承者を決める選定儀式と、その後継者争いに敗北した皇族の臣籍降嫁だろう。
魔導皇の血を引く皇子たちは、自身の魔力の強さを示すため、ニ十歳を迎える夜に聖教会の大聖堂へと足を運ぶ。
大聖堂に保管されている選定の宝珠に手をかざし、自身の魔力を用いて光らせるためだ。
ある一定以上の光を放つことができれば、皇族として城に残ることになる。
たとえ皇帝の座に就くことが無くとも、貴族院に進んで政治に関与したり、聖教会に所属して魔法の研究者となる道が残される。
一方、基準を満たさない場合には、無能の烙印を押されて皇室から除籍されることになる。母方の姓を名乗った後、遠からず臣下の元へと嫁ぐことになるのだ。――それを、臣籍降嫁と言う。
臣籍降嫁の際には、劣等な血を後世に残さないために同性の貴族と婚姻することが定められていた。
――そして現在。
無能とされながらも、嫁ぎ先が決まらずに王城に居座り続けている皇族は、たった一人しか残されていない。
「ま……まさか、オルガ・ユーリシス、殿下……」
上擦った声で騎士団長のカッツェが呟いた。
貴族社会と縁のないグレウスも、警護対象である皇族の構成くらいは頭に入っている。
皇弟オルガ・ユーリシスは先帝の八番目の皇子であり、現在の皇帝であるディルタスの異母弟だ。
二十歳の時の選定儀式で基準に達さず、皇室からは除籍されて母方のユーリシス姓を名乗っているが、いまだ降嫁せずに十年も王城に留まっている変わり者だ。
除籍されて皇室の公式行事にも参列しないので、その姿形はあまり知られていない。
年齢は確か三十歳。グレウスより四つ年上になるはずだ。
その皇弟を、皇室の婚姻制度に則って妻として与えようと、皇帝は言うのだ。
「夏至の事件の折――そなたは我が身を投げ出して、皇室の者を爆発から守ったと聞いている。それほどの忠義の者ならば、褒賞として臣籍降嫁を受けるに相応しいと判断した」
「そ……」
何と言っていいかわからず、グレウスは声を詰まらせた。
皇族の降嫁を受けるのは、臣下としてこれ以上ない栄誉だ。家としての格は上がり、降嫁する皇子の持参金や年金で懐も潤う。
功績を上げた貴族の家に皇族が嫁してくることは、この国では最も伝統的な褒賞の一つだ。
しかし相手は年上の同性で、しかも――。
「お、俺……いえ、私は騎士としての務めを果たしただけですので、褒賞をいただくわけには参りません」
確かにディルタスの言うように、グレウスは背後の皇族を庇うために爆薬の前に身を投げ出した。
夏の祭典ということもあって、背後の貴人たちは薄物姿だった。ほんの少しでも炎や破片が飛べば、彼らは無事では済まなかっただろう。命をなげうつつもりはなかったが、警護の任を果たすためにはそれしか方法がなかった。
確かに功績ではあるが、しかしあの日の近衛騎士たちは、全員同じように身を盾にして責務を果たしたはずだ。
むしろ警護を指揮して被害を最小限に留めた騎士団長や、名誉の負傷で騎士団を脱退した副団長の方が、褒賞を受けるには相応しいのではないか。
第一グレウスは平民で、身分の隔てがありすぎる。
「ご存じのように、俺は平民です。その上、魔力もからっきし無い『無能者』ですので……」
申し訳なさそうに、グレウスは口を開いた。
皇族が成人と同時に選定を受けるのと同様、グレウスのような平民も、ある程度の年齢になれば街の教会へ行き、珠に触れて魔力の多寡を調べることができる。
平民の多くはごくわずかな魔力しか持たないが、強い魔力を持っていると判明すれば、聖教会で魔法の修行を積む道が拓かれることもある。
グレウスも思春期になると、期待に胸を膨らませて教会へ行ったものだった。
だが宝珠は完全に沈黙し、道端の石ころのように少しも光らなかった。むしろ色が暗くなったかと思うほどだ。
あの時の失望感は今でも忘れられない。
珍しいくらいの完全な『無能者』だと、教会の司祭が同情するように教えてくれた。
実家の鍛冶屋では、ごく簡単な火の魔法が使われていた。グレウスの両親は、平民ではあるが多少の魔力を持っていたようだ。
そんな親の姿を見て、自分はもっとすごい力を持っているのではないかと期待していただけに、現実を受け入れるのは辛かったことを思い出す。
結局グレウスは家業を継ぐことを諦めて、見習い騎士の募集に応じた。
「魔力がない、か。……こればかりは本人に自覚がなければ、どうしようもない」
肩を竦めて意味深な言い方をした後、皇帝は軽く後ろを振り返った。先ほど出ていった従者がちょうど戻ってきたところだった。
従者は皇帝の傍らに跪き、何やら小声で報告する。
皇帝はそれを聞くと、鷹揚な仕草で頷いた。
「そなたを指名したのは、我が弟だ。褒賞を辞退するというのなら、直接本人に言うがいい」
その言葉とともに、従者が恭しい様子で扉を開く。
扉の向こうから現れた貴人の姿に、グレウスは思わず無礼も忘れて息を呑んだ。
滑るような所作で謁見の間に入ってきたのは、黒づくめのローブに身を包んだ麗人だった。
すらりと伸びた長身に、卵型の優美な頭部。肌は透き通るように白く、豊かに背を覆った髪は闇より深い漆黒だった。
憮然として前を向いた顔は冷たく理知的で、同じ人間だとは思えないほど完璧な美貌だった。
白い額、細く弧を描いた眉。高く通った鼻梁と、その下の形良い薄い唇。
何よりも印象的なのは、その両目だ。
――眦鋭い切れ長の瞳。
黒々とした長い睫毛に縁どられた両目は、朝焼けのような神秘的な赤だった。
「オルガ・ユーリシス。我が弟だ」
静かに歩み寄ってきた皇弟は、玉座に座る異母兄の傍らで足を止めると、跪く二人の騎士を見下ろした。
グレウスは声もなく、顔を上げて貴人を見つめる。
なんという異様な姿だろうか。
闇色のローブで足首までを覆い、長く伸ばした髪も夜の色。
威厳に満ちたその姿は、まるで伝説に語られる古代の魔王のようではないか。
冴え冴えとした黒衣の麗人が隣に立つと、当代一の魔導師である皇帝がひどく凡庸に見えた。
二人を見比べると、隣に佇む黒衣の主こそが真の支配者であり、玉座に座った皇帝は傀儡に過ぎないような気さえしてくる。
見るだけでも圧倒されるような気品が、黒衣の全身から滲み出ていた。
皇帝ディルタスが、隣の異母弟を見ないまま口を開いた。
「皇族を妻に迎える者が一介の騎士というわけにもいくまい。そなたに近衛騎士団副団長の地位を用意しよう。身分も釣り合いが取れるように、当代限りの侯爵位を与える」
信じがたいほどの大出世が、なんでもないことのように告げられた。
現実とも思えない話に茫然とするうちに、皇帝は断る隙も与えず言葉を続ける。
「挙式は聖教会大聖堂にて、一か月後に執り行うと決めた。そのつもりで準備しておくように」
皇帝が重々しく命じる。
その声を聞きながら、グレウスは魂を抜き取られたかのように、上座の貴人を見つめ続けていた。
緊張の滲む声で問いかけたのは、付き添っている騎士団長のカッツェだった。
ディルタスはそれに大きく頷きながら、手を叩いて後ろに控えていた従者に人を呼びにやらせる。
従者が慌てた様子で謁見の間を出ていくのを見守って、ディルタスは玉座の上で足を組み直した。
「そなたは平民の出身だと聞いているが、皇室の伝統的な婚姻制度は知っているだろうな?」
カッツェの問いかけには応えず、皇帝は青く澄んだ目で、まっすぐにグレウスを見据えてきた。
グレウスはごくりと唾を飲む。
皇室には、さまざまな特有の決まりごとがある。
最も有名なものは、皇位継承者を決める選定儀式と、その後継者争いに敗北した皇族の臣籍降嫁だろう。
魔導皇の血を引く皇子たちは、自身の魔力の強さを示すため、ニ十歳を迎える夜に聖教会の大聖堂へと足を運ぶ。
大聖堂に保管されている選定の宝珠に手をかざし、自身の魔力を用いて光らせるためだ。
ある一定以上の光を放つことができれば、皇族として城に残ることになる。
たとえ皇帝の座に就くことが無くとも、貴族院に進んで政治に関与したり、聖教会に所属して魔法の研究者となる道が残される。
一方、基準を満たさない場合には、無能の烙印を押されて皇室から除籍されることになる。母方の姓を名乗った後、遠からず臣下の元へと嫁ぐことになるのだ。――それを、臣籍降嫁と言う。
臣籍降嫁の際には、劣等な血を後世に残さないために同性の貴族と婚姻することが定められていた。
――そして現在。
無能とされながらも、嫁ぎ先が決まらずに王城に居座り続けている皇族は、たった一人しか残されていない。
「ま……まさか、オルガ・ユーリシス、殿下……」
上擦った声で騎士団長のカッツェが呟いた。
貴族社会と縁のないグレウスも、警護対象である皇族の構成くらいは頭に入っている。
皇弟オルガ・ユーリシスは先帝の八番目の皇子であり、現在の皇帝であるディルタスの異母弟だ。
二十歳の時の選定儀式で基準に達さず、皇室からは除籍されて母方のユーリシス姓を名乗っているが、いまだ降嫁せずに十年も王城に留まっている変わり者だ。
除籍されて皇室の公式行事にも参列しないので、その姿形はあまり知られていない。
年齢は確か三十歳。グレウスより四つ年上になるはずだ。
その皇弟を、皇室の婚姻制度に則って妻として与えようと、皇帝は言うのだ。
「夏至の事件の折――そなたは我が身を投げ出して、皇室の者を爆発から守ったと聞いている。それほどの忠義の者ならば、褒賞として臣籍降嫁を受けるに相応しいと判断した」
「そ……」
何と言っていいかわからず、グレウスは声を詰まらせた。
皇族の降嫁を受けるのは、臣下としてこれ以上ない栄誉だ。家としての格は上がり、降嫁する皇子の持参金や年金で懐も潤う。
功績を上げた貴族の家に皇族が嫁してくることは、この国では最も伝統的な褒賞の一つだ。
しかし相手は年上の同性で、しかも――。
「お、俺……いえ、私は騎士としての務めを果たしただけですので、褒賞をいただくわけには参りません」
確かにディルタスの言うように、グレウスは背後の皇族を庇うために爆薬の前に身を投げ出した。
夏の祭典ということもあって、背後の貴人たちは薄物姿だった。ほんの少しでも炎や破片が飛べば、彼らは無事では済まなかっただろう。命をなげうつつもりはなかったが、警護の任を果たすためにはそれしか方法がなかった。
確かに功績ではあるが、しかしあの日の近衛騎士たちは、全員同じように身を盾にして責務を果たしたはずだ。
むしろ警護を指揮して被害を最小限に留めた騎士団長や、名誉の負傷で騎士団を脱退した副団長の方が、褒賞を受けるには相応しいのではないか。
第一グレウスは平民で、身分の隔てがありすぎる。
「ご存じのように、俺は平民です。その上、魔力もからっきし無い『無能者』ですので……」
申し訳なさそうに、グレウスは口を開いた。
皇族が成人と同時に選定を受けるのと同様、グレウスのような平民も、ある程度の年齢になれば街の教会へ行き、珠に触れて魔力の多寡を調べることができる。
平民の多くはごくわずかな魔力しか持たないが、強い魔力を持っていると判明すれば、聖教会で魔法の修行を積む道が拓かれることもある。
グレウスも思春期になると、期待に胸を膨らませて教会へ行ったものだった。
だが宝珠は完全に沈黙し、道端の石ころのように少しも光らなかった。むしろ色が暗くなったかと思うほどだ。
あの時の失望感は今でも忘れられない。
珍しいくらいの完全な『無能者』だと、教会の司祭が同情するように教えてくれた。
実家の鍛冶屋では、ごく簡単な火の魔法が使われていた。グレウスの両親は、平民ではあるが多少の魔力を持っていたようだ。
そんな親の姿を見て、自分はもっとすごい力を持っているのではないかと期待していただけに、現実を受け入れるのは辛かったことを思い出す。
結局グレウスは家業を継ぐことを諦めて、見習い騎士の募集に応じた。
「魔力がない、か。……こればかりは本人に自覚がなければ、どうしようもない」
肩を竦めて意味深な言い方をした後、皇帝は軽く後ろを振り返った。先ほど出ていった従者がちょうど戻ってきたところだった。
従者は皇帝の傍らに跪き、何やら小声で報告する。
皇帝はそれを聞くと、鷹揚な仕草で頷いた。
「そなたを指名したのは、我が弟だ。褒賞を辞退するというのなら、直接本人に言うがいい」
その言葉とともに、従者が恭しい様子で扉を開く。
扉の向こうから現れた貴人の姿に、グレウスは思わず無礼も忘れて息を呑んだ。
滑るような所作で謁見の間に入ってきたのは、黒づくめのローブに身を包んだ麗人だった。
すらりと伸びた長身に、卵型の優美な頭部。肌は透き通るように白く、豊かに背を覆った髪は闇より深い漆黒だった。
憮然として前を向いた顔は冷たく理知的で、同じ人間だとは思えないほど完璧な美貌だった。
白い額、細く弧を描いた眉。高く通った鼻梁と、その下の形良い薄い唇。
何よりも印象的なのは、その両目だ。
――眦鋭い切れ長の瞳。
黒々とした長い睫毛に縁どられた両目は、朝焼けのような神秘的な赤だった。
「オルガ・ユーリシス。我が弟だ」
静かに歩み寄ってきた皇弟は、玉座に座る異母兄の傍らで足を止めると、跪く二人の騎士を見下ろした。
グレウスは声もなく、顔を上げて貴人を見つめる。
なんという異様な姿だろうか。
闇色のローブで足首までを覆い、長く伸ばした髪も夜の色。
威厳に満ちたその姿は、まるで伝説に語られる古代の魔王のようではないか。
冴え冴えとした黒衣の麗人が隣に立つと、当代一の魔導師である皇帝がひどく凡庸に見えた。
二人を見比べると、隣に佇む黒衣の主こそが真の支配者であり、玉座に座った皇帝は傀儡に過ぎないような気さえしてくる。
見るだけでも圧倒されるような気品が、黒衣の全身から滲み出ていた。
皇帝ディルタスが、隣の異母弟を見ないまま口を開いた。
「皇族を妻に迎える者が一介の騎士というわけにもいくまい。そなたに近衛騎士団副団長の地位を用意しよう。身分も釣り合いが取れるように、当代限りの侯爵位を与える」
信じがたいほどの大出世が、なんでもないことのように告げられた。
現実とも思えない話に茫然とするうちに、皇帝は断る隙も与えず言葉を続ける。
「挙式は聖教会大聖堂にて、一か月後に執り行うと決めた。そのつもりで準備しておくように」
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