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「アンジェリア」

 スクールの校門を出たところで名前を呼ばれた。当然のようにわたしは振り返って「はい?」と答える。後ろに立っていたのは、ぼさぼさの白髪混じりの髪にまず目が行く、おばあさんだった。年の頃はよくわからないけれど、わたしのお父様よりも、ずっと年上に見えた。

 ――どなたかしら? このおばあさん……。

 わたしの名前を知っているということは、どこかで出会ったことがある上に、わたしから名乗った可能性すらある。けれどもいくらわたしの記憶の箱を捜しても、こんなおばあさんの知り合いはいないと返ってくる。

 わたしの祖父母ではないと言い切れたけれども、遠い親戚のどなたかという可能性はあった。そうなると、粗相はできないと感じて、おばあさんを無碍にするのは憚られる。

 ……だから、わたしはまったくの無防備だった。

「きゃあ!」

 逡巡するわたしに、おばあさんは素早く近寄ったかと思うと、次の瞬間には隣にいたエリーが悲鳴を上げた。わたしはエリーのいる方向を見れなかった。なぜか、猛烈に腰のあたりが痛くなったからだ。ひんやりとしたかと思うと、次は燃えるように熱く感じられて、自然と冷や汗と脂汗が浮かんでくる。

 わたしはその場に立っていられなくなって、スクールの指定鞄を取り落とし、膝を折ってうずくまった。そこにエリーが駆け寄ってくるのは足音でわかった。

 そのうちに、なにか、周囲が大騒動となっているのは音でわかった。わかったけれども、痛みが強くて目が開けていられない。

「動いちゃダメ!」

 エリーの手がわたしの肩に触れるのがわかった。

 ――なに? いったい、なにがあったの?

 エリーにそう聞きたかったけれども、そうこうしているうちにじわじわと体が麻痺して行くような感覚が広がって――わたしは同じようにじわじわと意識が遠のいて行くのを感じた。

 ……次に目を覚ましたとき、わたしは見知らぬ場所に寝かされていた。最初はパニックを起こしかけたが、冷静に周囲を見回せば、どうもここは病院のベッドらしいということがわかる。そうなればわたしの身に急に起こった「腹痛」も一安心――と思ったところで、腰のあたりの痛みがぶり返した。

「アンジェリア!」
「アン!」

 カーテンの向こうにはどうやら人がいたらしく、わたしの呻き声を聞いて勢いよくやってくる。顔を出したのはお父様と、ザカライアさんだった。見知った顔を見つけられて、わたしはホッと安堵する。

「お父様……ザカライアさん……」
「アンジェリア、大丈夫……ではないよね? けれど、意識が戻ってよかった……」

 わたしが寝ているベッドへと近づいたザカライアさんの目は、ちょっとだけ赤く充血していた。夫であるザカライアさんを心配させてしまったと思うと、それだけでわたしの心の中に罪悪感めいた感情が生まれる。

 ザカライアさんがこんな様子では、お父様も随分とわたしのことを心配したことだろう。お父様はわたしには優しくて、ちょっぴり過保護なところがあるから。

 ……そう思ってお父様を見たが、お父様なぜか目を泳がせて、気まずそうな顔をしていた。その顔を見て、わたしは直感的に嫌なものを感じた。そしてそう感じた自分におどろき、戸惑いつつも、わたしのそばにいるザカライアさんに問うた。

「わたし、どうしちゃったのかしら? 急に腰のあたりが痛くなったの……そう、それで……エリーは?」

 先ほど起こった状況を思い出している内に、エリーはどうしたのか気になった。

「彼女なら先に帰したよ。随分とアンジェリアのことを心配していた。元気になったらまた会えるよ」
「そう……心配させちゃったのね。でも、『元気になったら』って? わたし、病気になってしまったの?」

 優しい声で諭すように話すザカライアさんに、わたしはまだ上手く状況が飲み込めず、矢継ぎ早に質問する。ザカライアさんはそれに不快そうな顔をすることもなく――しかし、どこか痛ましげにわたしを見たので、そんなに重病なのかと心配になった。

 ザカライアさんはゆるく首を横に振って、再び口を開いた。

「落ち着いて聞いて欲しいんだけれど……」
「わたし、落ち着いているわ」
「いや、落ち着いて聞いてはいられないと思うんだが……。とにかく、君は――刺されたんだ」
「……刺された?」
「そう。幸いにも内臓までは傷つかなかったし、ここに搬送するのが早かったから大事には至らなかったけど……体に傷は残ってしまうかもしれない、と」

 ザカライアさんはわたしの体に傷が残ることについては、一番言いにくそうに口にした。

 しかしわたしはと言えば、急に自分が「刺された」なんて聞いておどろいてしまって、それどころではない。

「……あの、おばあさん……?」

 思い出したのは、わたしに声をかけた見知らぬおばあさん。あの瞬間はよく思い出せなかったが、おばあさんが急に近づいたかと思った次には、わたしは痛みを感じていた。となれば、あのおばあさんがわたしを刺したのだろうか?

 なぜ? どうして? あのおばあさんはいったい何者なの? ……混乱するわたしを、ザカライアさんはやはり痛ましげな目で見ていた。

 ザカライアさんがその内になにか言おうとしたのか軽く口を開いた。けれどもそこに偶然かわざとか、かぶせるように、今まで黙っていたお父様が言葉を発した。

「『おばあさん』だなんて言うんじゃないよ、アン。お母様の顔を忘れたのかい?」

 わたしははじめ、お父様がなんと言ったのか、まったく理解できなかった。しかしじわじわと、あのとき意識を手離すまでの時間のように、じわじわと理解が及んで行くにつれ、驚愕に叫び出した気持ちになった。

「お母様……? あの、あの方が?」

「あのおばあさんが」と言えばまたお父様に叱られてしまうような気がして、わたしは言い直す。そんなところに気を回す程度の余裕がまだ自分にはあるのだなと思うと、ちょっとおかしくて、変な笑いがこぼれそうになった。

 わたしの記憶の中のお母様は、いつだって身綺麗にして、ブルネットだって美しかった。見た目だけならお母様は、どこに出しても恥ずかしくない「素敵な奥様」だったのだ。……そんなお母様と、あのおばあさんがイコールで結びつかない。

 わたしは戸惑いの目をお父様に向けた。

「お母様が……わたしを?」

 早く答えを聞きたいような、絶対に知りたくないような、不思議な気持ちにわたしの心は支配されていた。戸惑っているのはお父様も同じように見えた。……そう、同じようにお母様の凶行に心を痛めているように、見えた。

 やがてお父様は重々しく首肯して答える。

「そうだ」

 わたしは――なんだか今すぐこの場で泣き叫びたいような気持ちになった。お母様に愛されていたなんて、微塵も思ってはいなかったけれど、まさかわたしを刺すほどに憎んでいたとまでは思っていなかったのだ。

「いつかお母様とは和解できる」なんていう夢は見たことがなかったけれど、けれどもそれはそれとして、実の母親が我が子へ凶行に及ぶほど憎まれていたのだという事実は、単純に辛かった。

 わたしは言葉が言葉にならなくて、じっと戸惑いの目でお父様を見た。そんなわたしに、お父様は――。

「……アン、彼女も可哀想な人なんだ。どうか、許してやってくれないか?」

 お父様は、猫撫で声で優しくわたしに問いかける。

 わたしはお父様の言葉を聞いて、頭が真っ白になった。

 お父様は、わたしに優しくて、ちょっぴり過保護で――そして、絶対的なわたしの味方、だと思っていた。そのわたしの中の「常識」が根底から覆されたことで、わたしはパニックに陥った。

 声を出そうとしても、声が出ない。「そんなことできない。許せない」そんな気持ちと、もしそんなことを口にすればお父様に怒られて――見放されるかもしれないという恐怖が同居したままに、わたしは口を閉ざさざるを得なかった。しかし、その胸中はせわしなくざわめく。

 ――どうしよう。どうしよう。どうしたらいいの? なんとかしなくちゃ。わたしが、わたしがなんとか――。

「ウィンバリーさん。失礼ながら、アンジェリアがこんなにも怯えているのに、父親である貴方は……それに気がつかないのですか?」

 凛とした、それでいて明らかな怒気を含んだ声が、パニックに陥っていたわたしの意識を現実へと引き戻した。

「ザカライアさん……」

 お父様の言葉を聞いて、たったひとり、吹雪の中に取り残されたような気持ちになっていたけれど――わたしのそばには彼が……ザカライアさんがいた。
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