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前編

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 ――その日、ウォルターは生涯のを見つけた。つがいは、ひどくみすぼらしい姿をしていた。およそ一年前の話である。

 場所は娼婦を虐待しているとの噂があった娼館で、ウォルターたちが捜査のために踏み込んだまさにその日、彼女は家族に売られてやってきたところだったのだ。

 名前すらなかった彼女をひと目見て、ウォルターは首のうしろがちりちりと焼けつくような、毛が逆立つような感覚を覚えた。そして瞬時に悟ったのだ。彼女こそ、己の生涯のつがい――伴侶とするべき存在なのだと。

 かつてヒトが獣だった時代から続く旧家「狼」の血筋に連なるウォルターは、しかし己の中に流れる獣の血など意識したことはなかった。それは理性の時代である今の世ではずいぶんと薄くなっていたし、本能にかまけたり、ましてや振り回されるなどということは、この時代においては基本的には忌避すべきことだろう。

 だから、ウォルターはつがいだなんだのという言葉そのものすら、獣の時代のまさに名残――というか残滓で、今の理性の時代においては馬鹿馬鹿しいものだとすら思っていた。

 けれども運命のいたずらとでも言うべきか。ウォルターは己の抗いがたい「運命」を見つけた。

 しかしその運命はあまりに痛々しい姿をしていた。見知らぬ男たちに踏み込まれても、おびえる様子も見せず、ただ無気力で無感情的な瞳を向ける。枯木のような四肢に、年齢に見合わぬかさついた肌、艶のない髪……。その様子は、ウォルターも一瞬言葉に詰まるほど陰惨のひとことだった。

 それでもウォルターは彼女に声をかけた。彼女の悲惨な様子に心臓が引き裂かれそうな感覚を押さえつけて、膝を折り、安心させるように柔らかい声で。……けれども彼女の瞳にはなんの感情も浮かびはしなかった。恐怖も、怒りも、安堵さえも、彼女の中にはないようだった。

 彼女は――ウォルターのつがいは、他の娼婦たちと共に一度に保護されて場所を移された。よほど公私混同して、彼女だけを早々に連れて帰りたいとウォルターは思ったが、鋼鉄の意思で我慢した。

 田舎などの出で、騙されて連れてこられて働かされていた娼婦たちの素性を逐一調べ上げる過程で、もちろんウォルターのつがいである彼女の身元も判明した。

 彼女は、今は無爵のさる元貴族の娘だった。娘とは言っても庶子で、貴族年鑑には名前が載らないような素性だった。それでも元貴族の家柄である父親の家で暮らしていたことがわかった。

 しかしその生活が幸福とは程遠い場所にあったことは、彼女を見ればわかる。

 彼女の母親は、恐らく娘の将来を思って彼女の父親に預けたようだ。しかし父親は母親に養育費を要求した。母親がその要求をどう思ったのかはわからない。しかし呑んだことはたしかだ。母親は昼となく夜となく働き続けて、その果てに体を壊して亡くなった。

 彼女の父親は正真正銘のひとでなしだった。母親が存命のころから、養育費を受け取っていながら彼女を虐待していたのだから。彼女が娼館に売られたのは、彼女の母親が亡くなったからだった。「養育費」が送られなくなれば、もはや用済みということなのだろう。

 そのことはすべて明るみに出て、彼女の父親は当局によって起訴され、面目を失った。刑を受けることよりも、後者のほうが社交界への返り咲きを狙っていた父親にとっては辛いことだったかもしれないが、ウォルターにはどうでもいいことだった。

 ウォルターの最大の関心ごとはつがいである彼女のことだ。

 起訴を免れた彼女の異母姉には、念には念を入れて手切れ金を渡し、もう二度とウォルターとそのつがいにはかかわらないとの誓約書と言質を取った。

 それからウォルターはほとんど攫うようにして彼女を屋敷に連れて帰った。

 彼女の名前を決めたのは、将来的にウォルターの家へ輿入れさせるために、同じ獣の時代からの旧家に養女として籍を置いてもらうことになってからだった。

「むかし……おかあさんが持たせてくれたハンカチに花の刺繍があって……」

 見た目の年齢に見合わぬたどたどしい口調で、彼女は「その花の名前がいい」と控えめに告げてきた。「ずっとむかし。すぐに捨てられちゃったからあんまりおぼえてないけど」と続いた言葉には、ウォルターでなくとも胸が締めつけられた。

 彼女は生まれてからしばらくは母親と暮らしていたので、確実に彼女個人を示す名前はあったはずだった。しかし洗礼を受けておらず、台帳に記載がなかったことと、長い虐待生活の中で彼女自身が己の名前を忘却してしまっていたこと。母親が故人であるために、彼女の最初の名前を知るすべはなかった。

 ウォルターは執事に植物図鑑を持ってこさせて、小柄な彼女を自らの膝に座らせてから共にページをめくる。

 しばらくして、彼女の名前が決まった。

 マリーゴールド。太陽のように橙の花弁を広げる花の名。そこから、彼女の名前は「マリー」に決まった。

「それじゃあ……これからよろしく、マリー」

 彼女――マリーは、ウォルターが手を差し出すと、ぎこちないながらも覚えたばかりの握手で応えてくれた。
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