読切怪奇談話集(仮)

やなぎ怜

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とある幽体離脱

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 ある夏が終わりかけの、それでもまだまだ暑い夜に尿意で目覚めた。

 自室を出て廊下の先にあるトイレで用を足して帰ってきたら、まだ自分がベッドで寝ていた。

「は?」と思ってねぼけまなこから一気に目が覚めた。

 でも何度見てもベッドの上では自分が寝ている。

 薄いタオルケットを腹のあたりにだけかけた自分が、ベッドの上で寝ている。

「はあ?」と思って声に出そうとしたら、声が出ない。

 どういうことなのか、なにが起こったのか、わけがわからなかった。

 どうもいわゆる「幽体離脱」とやらをしているらしいとわかったのは、意を決してベッドの上にいる「俺に見える人間」に触れようとしたとき。

 これが、触れなかった。

 地に足を踏みしめている感覚はあったのに、なぜか他の物は触れられない。

 ベッドの上にいる俺の体も触れなければ、ベッドにも触れなかった。

 でも今の俺の体が二階にある自室からすり抜けて落ちる、ということはなかった。

 幽体というものは宙に浮いているもので、そしてその気になれば物に触れられるとオカルト好きな俺は思っていたんだが、まったくそんなことはなかった。

 どうにも幽体離脱をしたらしいと、オカルト脳で合点した俺は、「じゃあ肉体に戻ればいいじゃん」と思った。

 思ったはいいが、どうしても戻れなかった。

 そもそもどうやれば戻れるのかすらわからない。

 仮にスマホが触れたとしても、この回答はネットのどこを探しても載ってはいないハズだ。

 自己流でどうにか肉体の「中」を目指して悪戦苦闘した末に、俺は「どうやっても戻れない」という事実に打ちのめされた。

「俺は死ぬんだろうか?」。そう思うと肉体もないのに急に冬にでも放り出されたような寒さを覚えた。

 それでもあきらめきれなくて、何度も肉体に戻ろうとチャレンジしていたら、いつの間にか空が白んで朝が近づいてきた。

 俺はうっすらと「朝になれば戻れる可能性もあるのではないか」と思っていた。

 思っていた、というかすがるように願っていた。

 でもその期待を裏切られるのが怖くて、それはあまり考えないようにしていた。

 けれども、というか、やはり、というか。太陽が顔を出して朝を迎えても俺はベッドの上にある自分の肉体を見下ろしていた。

 ここにきてゾゾーッと鳥肌が立つ感覚があった。でも、感覚だけだった。

 朝を迎えて、あせりは夜の何倍にもなったが、やはり事態はなにも変わらなかった。

 俺は相変わらず幽体のままで、俺の肉体はベッドの上にあった。

「やばいやばいやばい」とあせりだけが強くなる。

 午後の講義に行くためにセットしたスマホのアラームが鳴ったのは、一〇時になったときだ。

 俺が起きた。

「は?」と思った。もう何度思ったかわからないが、恐らくは最大級の「は?」が出た。

 もぞもぞとしばらく足や腕をベッドの上で動かして、顔を枕から上げてバイブするスマホを見て、アラームを止めた。

 いつもの俺とほぼ同じ動きだった。

 俺は「は?」と思いながら、呆然と俺の肉体を見下ろしていた。

 俺の意識……中身は今ベッドの横で立っているのに、俺のガワであるハズの肉体は動いている。

 俺の中身がここにある以上、俺の肉体の中はカラッポのハズなのに。

 意味がわからなかった。

 じゃ、ここにいる俺はなんなんだ?

 そう考えだすと震えが止まらなかった。

 俺の肉体は慣れた様子でベッドから起きあがって、かたわらに置いてあった水筒で水を飲んだ。

 いつもの俺と同じだった。

 俺は俺がなんなのかわからなくなりそうで、とにかくそれが怖くて怖くて仕方なかった。

 俺、もとい俺モドキはいつもの俺と同じように一階へと降り、リビングに向かう。

「家族なら……」そんな目論見はあっけなく崩れ、俺モドキは家族と不自然でない短い会話を交わすと大学へ行った。

 迷う様子もなく電車に乗って大学へ行って、出くわした友人と普通に話をする。

 会話の内容はバイト先の話とか、また合コンやってよとか……とりとめのがないものだった。

 俺は必死で俺モドキのそばをついて回ったが、俺に気づく人間はいなかった。

 オカルト脳だから霊感のある人間が気づいて……とかいう展開を妄想したが、そんなことはまったくなかった。

 俺モドキも一切俺を見なかったし、そもそも俺が見えてはいないようだった。そもそも俺には霊感などないどころか、怖い思いをしたこともない零感だ。

 俺モドキが動き出したときから、薄々俺はなにか別のモノが俺の肉体を奪ったのだと考えるようになっていた。

 けれども当たり前だが俺モドキの正体はさっぱりわからない。

 俺「モドキ」と呼んではいたものの、あれは本当に正真正銘本物の「俺」なのではないかと何度も考えて、心が折れそうになった。

 でもそうだとすれば、ここで意識を持つ「俺」はいったいなんなのかという疑問が残る。

 その疑問だけを支えに、「俺」は「俺」なんだという意識を持って、俺モドキについてまわって一週間が過ぎた。

 だれも俺モドキが「俺」じゃないことには気づかなかったし、見ていても俺モドキは「俺」そのものに見えた。

 俺モドキは下手すれば俺より真面目に大学へ通って、バイトで働いて……という生活を勤勉にこなしていた。

 俺モドキは相変わらず俺が見えていないようだった。

 不意を突いて俺モドキの前へ現れても、俺モドキはまったくおどろかないことから、俺はそう結論づけて無駄な行いをやめた。

 恐らく幽体であろう俺は、なにもできなかった。

 本当になにもできなかった。

 街へ出てもだれも俺の姿なんて見ていなかったし、ポルターガイスト現象を起こすなんて夢のまた夢だった。

 どれだけ意識を集中させても、頑張っても、血管が切れそうな錯覚を覚えるほどに力を入れても、俺はなにもできなかった。

 俺は次第に俺モドキへの憎しみを募らせた。

 今までだれかにイラついても、楽天家のケがある俺はだれかを深く恨んだことなんてなかった。

 だというのに一日中俺モドキへの呪詛を頭に浮かべて、どうにか俺モドキを呪えないか考えた。

 今思えば本当にあのときはおかしくなりかけていた。

 それでもときおりフと我に返って、「こうやって幽霊って悪霊になって行くのかな」と思うと怖かった。

「俺」がいったいなんなのか分からなくなって行くのも怖かった。

 だれも俺モドキが「俺」じゃないことに気づかないのが悲しく、腹立たしかった。そして怖かった。

 こうやって俺モドキは「俺」に成り代わって、「俺」はだれにも認識されずにそんな世界で永遠を過ごすのかと思うと、怖くて怖くて仕方なかった。

 とにかく四六時中さらされる、あらゆる恐怖で俺はどうにかなりそうだった。

 過ぎた時間はたったの一週間だったが、もう一年はそうしているような気さえした。

 恐怖に飲み込まれれば本当に「終わり」だというのはなんとなく感じていて、その謎の確信だけが俺の正気を支えていた。

 そして忘れもしない、肌寒い夜の日。

 その日の昼に、俺モドキは出しっぱなしにしていた扇風機を片づけた。

 忘れもしないその日の夜に、俺は俺の肉体を取り戻した。

 意味もなく「いける」と思った。なぜだか「チャンスだ」と思った。

 俺は必死になって、俺の肉体へと飛び込み選手のようにぶつかった。

 そしてスマホのアラーム音で目が覚めた。

 俺は間違いなく「俺」で、肉体を持っていた。手足を動かせた。スマホに触れた。

 俺は「俺」の肉体に戻ってきた。


 俺は精神疾患だかなんだかのせいで、しばらく現実を現実と認識していなかった。あるいは、一時的に脳がバグっていた。

 それが現実的な回答じゃないかと思う。

 俺はそう思うことで、ここ数週間の出来事を忘れようと思った。

 けれどもやはり考えてしまう。

 あの数週間のあいだ、俺に成り代わっていた俺モドキは、俺が肉体を取り戻したあと、どこへ行ったのだろうか?

 もしかしたら、あのときの俺のように俺のそばで俺を見ているのかもしれない。

 そしてまるで「俺」のように振る舞っていた俺モドキ。

 俺モドキはずっとそばで俺を見ていたのかもしれない。

 そして俺があのとき感じたように「いける」と思って、「チャンスだ」と思って、成り代わって、「俺」のように振る舞っていたとしたら――。


 俺モドキは、今も俺の肉体を狙っているのかもしれない。

 俺の、すぐそばで。


 今はそれが怖くて仕方がない。
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