やなぎ怜

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 文子は生まれ変わりや前世などというものは与太話の類いだと思っていた。事実、大学時代に友人に誘われて占い師に前世を見てもらったことがあるが、その結果はまったく思い出せない。

 けれども――現実に文子はを体験した。

 すなわち、生まれ変わりというやつを。

 かおるは男女どちらか判断のしにくい名前であったが、どこからどう見ても男だった。

 ものごころついたころからおぼろげに「生まれ変わり」というものを認識していたので、薫の人格が大いに混乱するということはなかったのは幸いである。

 ただ、物事の分別がつくまでかなり周囲にとっては不思議な発言を繰り返していた自覚はあり、それは文子――もとい薫にとっては投げ捨てたい過去であることは言うまでもない。

 世界はそう変わってはいなかった。暦を見れば文子としての自意識がなくなってから――つまり、文子が死んだと思われる日から、ほんのちょっとしか経っていないことがわかった。

 それでも社会はちょっとだけ変わっていた。一番は精子バンクの存在がようやっと公的に認可されたことだろう。

 それでもまだ、前時代の人間に言わせると「非自然的な方法」での妊娠はハードルが高いようだが、ないよりはマシだろうというのが元・女の感想だった。

 薫は男だったので、自然と周囲は過保護だった。現代では女児よりも男児が拉致、誘拐される事案のほうがずっと多い。そうでなくとも不埒な考えを持って薫に近づく女は多かった。

 精通を迎えてもいない少年になにを必死にと思うが、多くは娘のために気を惹きたいようであったことは、ひとまず薫の心を安堵させた。

 薫の家庭は今どき珍しい一夫一婦であったから、薫の母親は自分の息子を守ることに注力していればよかった。つまり妻のあいだでの権力闘争とは皆無の場所で薫は育ったということだ。その事実はいやな前世の記憶を持つ薫の心の平穏に一役買ったことは、言うまでもないだろう。

 どこへ行くにも薫は母親と一緒だった。当然小学校の送り迎えも母親がした。私立の、学費がお高そうな学校の中では、専用のボディガードがつくという特別待遇だったが、力の弱い男子児童がいる学校はたいていそうらしい。

 どうも、思ったよりも男女比の崩壊は深刻な方向へとむかっているようだ。駿と共に文子として育った記憶を持つ薫だったが、駿にボディガードがついていた記憶はない。

 そうであるから自然と薫の行動範囲は狭まれる。それでも己の前世の「結末」を知ったのは、小学校六年生の夏休み。自由研究の資料集めという名目で図書館へ連れて行ってもらったときのことだ。

 そのころ母親は第三子――ちなみに第二子は女の子だ――を身ごもっており、図書館に帯同してくれたのは民間のボディガードの女性だった。母親であればあれこれ口を出されるが、ボディガードは薫が危険な場所へ自ら頭を突っ込もうとでもしない限り、制止の手を伸ばしたりはしない。

 それをいいことに薫は館内のパソコンで新聞記事を探して――そして、見つけた。

 そっけない文章で三面記事の端っ子を飾るのは、まさしく文子の死。名前もバッチリでている。

「ああ……」

 その吐息は嘆きのものだったのか、薫自身にはよくわからなかった。ただ、やっぱり文子は死んでしまったのだと、遅まきながらそれを実感した。

 おどろいたのは駿もすでにこの世の者ではない、という事実だった。彼はどうやら文子を殺めたその手で、自らの命も絶ったらしい。初報では「重態」だったが、ネットニュースを漁れば、駿が死亡した旨が書かれた記事が、かろうじてデッドリンクをまぬがれていた。

 薫は――いや、薫の中にいる文子は、駿を憎いとは思わなかった。無理心中を選んだ彼を責める気にはなれなかった。ただ、擁護したり、雷同する気にもなれなかった。

 残されたのは、ただひたすらの虚無と――恐怖、そのふたつだけだった。

 文子はたしかに駿を愛していた。駿も文子を愛していた。けれども周囲は完結したふたりだけの家庭を許さなかった。これは『ロミオとジュリエット』の亜種のようなものかもしれない。そこまで考えて薫は自嘲気味に鼻で笑った。

 思うに、文子も駿も結婚するには早すぎたのかもしれない。子供ができるということがどういうことなのか、わからないままにふたりは新たな妻を迎えてしまった。それが、破滅の原因だったのかもしれない。

 駿は文子の苦しみを理解しようとしていただろうか? 文子は、駿が与えてくれる愛情を慮った選択肢を選んだだろうか?

 問いかけは泉のようにあふれて止まらない。

 けれど、もう、すべて終わったことだ。

 そう、終わってしまったのだ。

 ふたりの死という、最悪の形で幕は下りたのだ。

 あとはもう、薫がなにかできることなどなにもない。

 悲劇の舞台を俯瞰した薫の中に残ったのは、もうだれかを愛したり、家庭を築いたりするのはこりごりだという思いであった。

 薫の顔は客観的に見て地味で華がないものだったが、それでも男というだけで女子生徒はおろか、女性教師からも秋波を送られたことはあった。けれども薫はそのすべてを拒絶した。

 ゲイではないかとのうわさも立ったが、薫は気にしなかった。どう思われても良かった。ただ、自分の人生の平穏を守りたい。その一心で薫は多くの人間を拒絶して行った。

 周囲からの結婚の催促には精子バンクに定期的に精子を供給するという契約を結んで回避した。結婚してだれかを抱いて子をなすよりも、自分の知らないどこかで子供を作られることのほうが、薫にとって何倍もマシだったからだ。

「精子の提供を受けて妊娠された先方様が前園まえぞの薫様との面会を望んでおられます」

 ときおり義務的に通知されるその言葉にも、ずっとノーを突きつけて来た。

 子供を産むならご勝手にどうぞ。けれど自分は父親としての義務は果たさないし――果たせそうもない。それが、薫の返答だった。

 ……だからその出来事は、魔が差したとしか言いようがないものだったのかもしれない。

 その日は最悪の気分だった。前世の夢を見たのだ。それも、駿と幸せに笑いあって、文子が赤子を抱いている夢だ。正確には、前世でなしえなかった夢と言うべきだろうか。

 起床してからずっと気分は落ち込んだままで、せっかくの休日だというのに……と薫は苦々しく思いながらコーヒーを流しこんだ。

「精子の提供を受けて妊娠された先方様が前園薫様との面会を望んでおられます」

 最悪の気分だった。同時に、妙に人恋しくなった。

 だからその事務的なメールに思わず了承の旨を返信してしまったのは――悪魔がささやいたとしか思えない。

 あっという間に面会の日取りが決まって、次の休日に薫は顔も知らない女性と面会することになった。場所は精子バンクの施設内に設けられた応接室だと言う。それならまあ安心かと思って、薫は結局断れる最後のチャンスをふいにした。

 女性の名前は井上いのうえ芙美乃ふみの。年は薫と同じだった。

 次の休日まではすぐだった。

 待ち合わせの時間よりもいささか早く到着したが、愛想の良い精子バンクのスタッフによると、井上芙美乃はすでに応接室にいると言う。地味な容姿にたがわず内気な薫は、相手が時間を守るような律儀さを持った女性で良かったと、ひとり胸を撫で下ろす。

「失礼いたします。井上様、前園様がいらっしゃいました」

 白で統一された、清潔感のある施設において、応接室もそう変わりはなかった。オフホワイトの皮張りのソファが向かいあわせに置かれたその片方へ、面会相手――井上芙美乃は腰を下ろしていた。

 その顔を見た途端、強烈な既視感が薫を襲う。

「前園様? いかがされました?」
「あ……いえ、なんでもないです。すいません、ちょっと立ちくらみが……」

 苦し紛れにそう告げれば、あわてたように席を勧められて薫は井上芙美乃の前に腰を下ろした。

 若さと瑞々しさにあふれた井上芙美乃は、まさしく美女と言っても過言ではない。けれどもそれが薫には気持ち悪くて仕方がない。生理的な忌避感があとからあふれてきて、止まらなかった。

「わたくしどもスタッフも同席することができますが、いかがいたしましょうか?」
「えっと……」

 薫が言葉に迷っていると、井上芙美乃が上目遣いにこちらを見る。

「……これが最後の面会になるかもしれませんから、できればその……ふたりきりでお話ししたいです」

 顔にたがわず鈴を転がすような可憐な声だった。それでもその話し方が妙に引っかかって、薫は嫌な汗をかく。

「……だそうですが……」

 こちらの言葉を促すようにスタッフが薫を見る。その顔にはどこか心配そうな色が隠れて見えた。けれどもそれに薫は気づかず、適当に「じゃあそれで」と答えてしまう。

 スタッフの背を見送ったあと、扉の閉まる無情な音が静かな白い部屋に響く。

 薫は改めて井上芙美乃を見た。ゆったりとした色を抑えたパフスリーブの袖が目につく青のワンピース。余計な装飾がなく、ともすれば派手になりそうな井上芙美乃の容姿を可憐に見せている。

「六ヶ月です」

 井上芙美乃が微笑んで腹を撫でる。そうするとゆったりとした布地の上からでも、腹がぽっこりと肥満とは違った出方をしているのが良くわかった。

「ねえ、うれしいですか?」
「え? それは、その……」

 わからない。今、現実に彼女の胎内には薫の子供が息づいている。けれども、わからなかった。

 それどころか理由のわからない嫌悪感が湧いて出て、薫は困惑した。

 吐き気もひどい。油断すれば今日の朝、胃に詰め込んだトーストが出てきそうだ。井上芙美乃には悪いが、あまり口を開きたくないというのが今の薫の正直な感想だった。

はうれしいよ」

 井上芙美乃が笑う。

 薫は、すぐには違和感に気づけなかった。

との子供ができて」
「……ど――」

 どうしてその名前を?

 そう言いたかったが、次に口から出て来たのは吐瀉物だった。

 足元に吐き戻したものが広がり、額は脂汗に濡れる。眦には自然と涙が浮かんだ。

「文子? だいじょうぶ?」

 井上芙美乃は――いや、駿は心底おどろいたような声を出し、ローテーブルを迂回して薫のもとへと駆け寄る。そしてその白魚のような手で薫の広い背を優しく撫で続けた。

 けれどもそれで吐き気がおさまるはずもなかった。否、胃の腑に渦巻く不快な感覚は増すばかりだ。

「びっくりした?」

 ふふ、と無邪気に笑う井上芙美乃という名前をした駿を見て、薫はまたえずく。その背を撫でながら駿は弾んだ声で言葉を続けた。

「今の文子を見たときにね、俺はすぐにわかったよ。ああ、このひとは文子だって。男だったのにはびっくりしたけれど、今は俺も女だしね。あ、そういえば前の俺と同じ苗字なのに気づかなかった? まあ、よくある苗字だしね。あのね、俺の――つまり、井上駿の娘なんだよね、井上芙美乃は。顔見てわからなかった? 結構前の俺に似てると思うんだけどな~」

 うれしさを抑え切れないと言った様子で話を続ける駿の顔を薫は見上げる。ずっと感じていた既視感の正体にようやく気づいたが、なにもかもが手遅れだと言わざるを得ないだろう。

「……どうして前園薫が文子だってわかったか、わかる?」

 薫はゆるゆると首を横に振る。その返答に駿はちょっとがっかりしたような顔をした。

「文子を一番に愛してるからだよ」

 それは可憐な声でさえずるように放たれたはずだが、薫には低い、どこか怒った男の声に聞こえた。

「でも、なん、で……どう、やって……」

 薫の声は震えていた。しかしあえぐような、繋がらない言葉でも、駿には薫が話さんとしていることがわかったようだ。

「――ああ。ここの施設長が芙美乃わたしの母親なんだよね。斉藤さいとう美都子みつこって覚えてない?」
「あ……」

 それは駿が迎えた妻のうちのひとり。キャリアウーマンだったことだけは覚えているが、それ以外は正直に言ってうろ覚えだ。

「まあ、文子が生きてたころよりも年取ったし、職も変わってるからパッと見ではわからなかったのかな? まあ、そういうわけで職権乱用になるけど美都子おかあさんに頼んで人工授精してもらったんだ~。正真正銘、文子との子供が俺の中にいるってわけ。――ねえ、うれしい?」

 同じ言葉を繰り返し、駿は薫の顔を覗き見る。迫ってくる井上芙美乃の顔を見て、薫はまた吐き気を覚えた。

「……俺はうれしいよ、文子。性別は逆転しちゃったけど、お陰で文子との子供が産める。これってすっごく幸運で、幸せなことだよ。文子も俺との子供を欲しがってたよね? ねえ、うれしいでしょ?」

 薫はなにも答えられない。ただ、青白い顔でぼんやりと井上芙美乃を見ることしかできない。

「『子供には愛してくれる親が必要』。文子、前にそう言ったよね? ……この子には愛してくれる父親が必要だよ。文子もそう思うでしょう? だいじょうぶ。お腹の子、男の子なんだ。美都子おかあさんすごく喜んでるから、薫の住む場所も仕事も心配しなくていいよ。――ねえ、うれしい? うれしいでしょ? 文子?」
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