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「アリラ」と「キリアン」。
意識を取り戻した和葉がこの美しい少女と青年から教えられた言葉がこれだ。どうもこれが彼らの名前らしい。自身を指差して何度も言ったあと、和葉がそれを無気力に復唱すれば、推定アリラと思ゆる少女は満足げにうなずいたのだ。
少女と青年の耳は、何度見ても奇妙であった。人間ではあり得ないほどに横に長く伸び、ともすればとがっているとも言える耳を持った彼らは、それ以外を除けば和葉となんら変わりはない。着ている物があまりに素朴である――とは言え、和葉の方がよりみすぼらしい姿であるのだが――ことと、日本ではあまり見ない髪と目の色、そして顔立ちを見るに、やはりここは日本ではないのだろうと和葉は結論づける。
よくて外国か、そうでなければ和葉がいる世界とは別の世界というやつだろう。小学生のころに読んだ児童小説が頭をよぎる。そこで少女は押入れの中にもぐり込んで、別の世界へと迷い込んでしまうのである。その結末がどうであったか和葉は思いだそうとしたが、うまくは行かなかった。
しかし少なくとも、あの物語の少女は和葉のように現実に絶望してなどいなかったし、獣に襲われてじくじくと痛むような手ひどい怪我を負ったことはなかった。それだけは言える。
それに少女は言葉に困ったりなどはしなかったはずだ。――今、和葉が言葉が通じずに困っていることがあるかと言われれば、答えに窮するが。
そして「キリアン」と連呼していた青年が今度は和葉を指差したので、和葉は名前を聞かれているのだろうと思い答えた。
「カズハ?」
確認するような声は、流暢ではなかったがそう呼ばれるのがなんだか物珍しく、新鮮な感情を抱きつつ和葉はうなずく。
下の名前で呼ばれたのは母親を除けば、めまぐるしく変わって行く「彼氏」たちくらいであった。あとは善人の塊のような、和葉をのけ者にしたくない人間が最初だけ下の名前で呼ぶくらいか。そうであるから、母親とその「彼氏」以外に名前を呼ばれるのは久しく、和葉は奇妙な気持ちになったのである。
「カズハ! カズハ******」
自分の名前は聞きとれるが、やはりそのあとがなにを言っているかはわからない。
その後、背の曲がった顔がしわくちゃの老婆がやって来ると、キリアンとアリラは布で作られた仕切りの向こう側へ消えて行った。布切れや草の葉を抱えてやって来た老婆は、どうやら医者のたぐいらしい。服を脱ぐ動作をしたので、和葉は大人しくそれにしたがった。服を脱ぐとき、乾いた血が布地に張りついていたせいで傷口が痛んだ。
そして老婆は傷口に容赦なく葉をすりつけて行ったので、和葉は唇を噛んで叫ばないよう痛みに耐えなければならなかった。
見えない背はともかく、獣に食い荒らされたと言っても過言ではない右足の処置は目視したくなくて、和葉は目をそらす。脳に響いて来るような痛みはあったが、止血が上手く行っているのかそれほど出血はひどくなかった。とは言え、それは傷の大きさに対してというもので、実際にはだいぶ血が流れてしまっていた。
そこも老婆は手早く、しかし和葉にとっては苦痛に耐えなければならないほどの処置をほどこす。包帯代わりの荒い目の布――どうやら彼女らが着ている服と同じ生地のようだ――には赤い染みがすぐに浮かんでしまったが、それでもそのまま傷口を晒し続けているよりはいいのだろう。
それらを、和葉は他人事のように眺めていた。事実、この体がどうなろうと和葉にとってはどうでも良いことなのだ。この体は、もうすぐ朽ちるか腐るかして森の土に還って行くのだから。
老婆が帰ってすぐ、キリアンが布の仕切りを少しだけ開いて向こう側を指し示す。そこには木製の素朴な机があり、その上には木でできた器が三つ置かれている。仕切りの向こうから漂って来る匂いからも、それが食事なのだとわかった。
和葉は正直食べる気はしなかったが、それをジェスチャーで示すのも面倒でキリアンになされるがまま、食卓に腰を下ろす。移動はキリアンが和葉を抱きかかえる形で行われた。そこに少しだけ気恥ずかしさを感じて、和葉は少しだけおどろく。自身の心が凍ってしまっている自覚があったから、そういった行動に心動かされる自身におどろいたのだ。
そして同時にこれでは行けないと思った。こんな心では自ら殺す行為を完遂することはできない。強い意志を持って、和葉は再び殻に閉じこもるように心を閉ざした。
食事は獣の肉が入ったスープとやたらと固いパンがひとつ。それからアルコールの匂いがわずかにする飲み物が与えられる。アルコール臭がするからにはこれは酒類なのだろう。和葉の脳裏に酒に酔って暴力を振るう男たちの姿がよぎる。それはほとんど条件反射といっていいものであった。
和葉は結局パンにも飲み物にも手をつけなかった。飲み物はもちろん酒への嫌悪感から、パンは口に入れれば喉が渇きそうだったからである。
まだ凍りついていない心のどこかでなんとも失礼な人間だと和葉は思うが、すぐにその考えにもふたをした。
そんなことはもう関係ない。この人――人間かはわからないが――たちとはもうすぐ関係がなくなるのだから。
食事のあいだ中、アリラは身ぶり手ぶりを交えて和葉に話しかけてくれているようだったが、なにが言いたいのやら和葉にはいまいちわからなかった。それに理解しようとも思っていなかった。だから、適当に小首をかしげて見せるだけで、あとは終始木の器に入ったスープに視線を落としていた。
和葉の頭の中を占めるのは、これからどうやって死のうかということだ。そして行きつくのはやはり当初の予定通り、首を吊ることであった。
食事が終わるとアリラとキリアンは部屋を出て行ってしまう。部屋の入口は和葉が寝かされていた場所と同じく、固い布地の仕切りがあるくらいだ。痛む足を引きずって恐る恐る外を除けば、すぐそこに外界が広がっている。部屋の出入り口だと思っていた場所は、どうやら家の出入り口であったらしい。
眼前にはあまたの巨木が群れをなしていた。そしてその巨木にはぼこぼこといくつもの穴が開いていて、その穴のほとんどに布でふたが――正確には仕切りがされている。
アリラたちはここで暮らしているのだろうか。とすればあの穴のひとつひとつが部屋なのだろうか。
そんな疑問が和葉の頭に浮かぶが、すぐにその視線はかまどの前にいるキリアンへと向かった。アリラはそれよりも遠くの、井戸らしき場所で食器を洗っている。ふたりとも、家に対して背を向けていた。
キリアンがなにをしているのかはわからなかったが、和葉は直感的に今しかないと思った。
仕切りの布をつかむと、それにすがるようにして体を外へと出す。木のうろのふちに足が当たって声を出しそうになったが、なんとか耐えた。
逃亡は、思ったよりも簡単にできた。木の家を出るとそれが巨大であることをいいことに、遮蔽物として利用する。木に身を隠しながら視線を逃れるのも、辺りがすでに夜のとばりが落ちていることもあって容易であった。
そうして人影のある集落から離れると、和葉はやっと胸を撫で下ろし緊張から解放される。これでやっと死にに行けるのだ。
和葉は近くの木に根を伸ばしていた丈夫そうなツタをむしりとると、死に場所を探して森の奥へと分け入って行く。
場所は比較的すぐに見つかった。ちょうど斜面になっている場所に根を張った木を見つけたのだ。和葉は見よう見まねでツタの先端に加重があれば締まる輪を作ると、それを木の枝に引っかける。そして輪の部分を手元にキープしてから、もう片方の先端を木の幹に何重にもしてくくりつけた。
あとは輪の中に頭を通して斜面の上から飛び降りるだけである。それを考えたとき、なぜだか和葉は泣き出してしまった。恐怖からの涙ではなかった。ただなんとなく猛烈に寂しくなって涙が溢れ出て来たのだ。
「ママ……」
母親が恋しい。しかしその母親から吐き捨てられるように言われた言葉を思い出すと、寂しさよりも死への欲求の方が勝った。
「こんなんだったら産まなきゃ良かったわ」
母親にとって自分は初めから必要のない存在だったのだ。それを思うと悲しみと正体不明の感情――それが怒りだと和葉は気づけなかった――でぐちゃぐちゃになる。
そうやってひとしきり泣いてから、和葉は決意を新たにした。
すなわち、自らの手でこのごみのような人生に幕を引くことを。
和葉はツタでつくった輪の中に頭を通し、それが首に当たる感触を確認すると、ごく自然な動作で斜面から飛び降りた。
*
キリアンは横たわるカズハの姿を見て、怒りにも似た感情を抱いた。それと同時にどうしようもなく悲しくなって、柄にもなく泣きそうになり、あわてて視線を上へと向ける。アリラとふたりきりになったとき、キリアンは決めたのだ。泣くのは同胞が死んだときだけにしようと。だから、今ここでキリアンは泣くわけにはいかなかったのだ。
キリアンが見つけたとき、カズハは木のツタで首を吊っていた。その姿を見た瞬間、キリアンは全身の血が凍って行くのを感じた。そしてあわててカズハの体を持ち上げて、大声で仲間を呼んだのである。
そうしてどうにかカズハを地面に下ろすことに成功し、彼女にまだ息があることを確認して安堵した。
「まさか、こんなことをするなんて……」
キリアンの隣人のひとりがそうつぶやく。周囲は重々しい空気に包まれていた。この、まだ小娘と言ってもいい年頃の少女が自ら死を選ぶ理由がなんなのか、ここにいるだれもがそんな疑問を抱く。
地面に横たえられたカズハの首にはぐるりと青黒い跡がついてしまっている。それを見てキリアンは息が止まりそうなほどの衝撃を受けた。
背と右足に怪我を負い、それでもなお死ぬことを求めるカズハの心中はどうなっているのか。キリアンにはまったく理解できなかった。
「よっぽどひどい目に遭ったんじゃないか、その嬢ちゃん」
「だからって死ぬこたあないだろう」
「自分から死を選ぶほどひどい目に遭ったんだろう。かわいそうに」
ざわめく周囲の中でしかしキリアンは理不尽を感じた。死を望むほどに過酷な体験をしたとしても、本当に死んでしまう義理などないだろう。手ひどい目に遭わされたとしても、なんとしてでも生き抜いて見せるのが生き物というものではないのか。
キリアンの種族の価値観では、自殺はあまり理解されないものである。命というのは森の神から与えられるもので、それを粗末にするのはひどく罰当たりな行いとされていたのだ。だからたとえどんな目に遭い、絶望を覚えようとも、生き抜くことが生物としての正しい姿なのだ――というのが彼らの認識である。
それでも人間と関わり合いを断っているわけではないから、自ら死を選ぶ行為がなぜ起こるのかくらいを想像できる力はある。それでも心から理解することはとうていできそうになかったが。
「キリアン。オレは先に集落に帰ってエングル婆を呼んでおく」
「ありがとう。俺はカズハを運ぶから……」
エングル婆とはカズハの怪我を見た産婆のことである。村長とほぼ同年代の彼女は、集落の知恵袋としての役目も担っていた。
そんなエングル婆の力を借りた方がいいだろう。彼女を呼んでおくと言った男は言外にそう言っていたのだ。
それはキリアンも同意見であった。ただでさえ言葉が通じないのだ。それに加えて自殺願望を持っているとなるととんでもなく厄介である。
それでもキリアンはこの少女を見捨てると言うことができなかった。妹の恩人だからというのもある。でもそれ以上に、なんとなく放っておけなかったのだ。
意識を取り戻した和葉がこの美しい少女と青年から教えられた言葉がこれだ。どうもこれが彼らの名前らしい。自身を指差して何度も言ったあと、和葉がそれを無気力に復唱すれば、推定アリラと思ゆる少女は満足げにうなずいたのだ。
少女と青年の耳は、何度見ても奇妙であった。人間ではあり得ないほどに横に長く伸び、ともすればとがっているとも言える耳を持った彼らは、それ以外を除けば和葉となんら変わりはない。着ている物があまりに素朴である――とは言え、和葉の方がよりみすぼらしい姿であるのだが――ことと、日本ではあまり見ない髪と目の色、そして顔立ちを見るに、やはりここは日本ではないのだろうと和葉は結論づける。
よくて外国か、そうでなければ和葉がいる世界とは別の世界というやつだろう。小学生のころに読んだ児童小説が頭をよぎる。そこで少女は押入れの中にもぐり込んで、別の世界へと迷い込んでしまうのである。その結末がどうであったか和葉は思いだそうとしたが、うまくは行かなかった。
しかし少なくとも、あの物語の少女は和葉のように現実に絶望してなどいなかったし、獣に襲われてじくじくと痛むような手ひどい怪我を負ったことはなかった。それだけは言える。
それに少女は言葉に困ったりなどはしなかったはずだ。――今、和葉が言葉が通じずに困っていることがあるかと言われれば、答えに窮するが。
そして「キリアン」と連呼していた青年が今度は和葉を指差したので、和葉は名前を聞かれているのだろうと思い答えた。
「カズハ?」
確認するような声は、流暢ではなかったがそう呼ばれるのがなんだか物珍しく、新鮮な感情を抱きつつ和葉はうなずく。
下の名前で呼ばれたのは母親を除けば、めまぐるしく変わって行く「彼氏」たちくらいであった。あとは善人の塊のような、和葉をのけ者にしたくない人間が最初だけ下の名前で呼ぶくらいか。そうであるから、母親とその「彼氏」以外に名前を呼ばれるのは久しく、和葉は奇妙な気持ちになったのである。
「カズハ! カズハ******」
自分の名前は聞きとれるが、やはりそのあとがなにを言っているかはわからない。
その後、背の曲がった顔がしわくちゃの老婆がやって来ると、キリアンとアリラは布で作られた仕切りの向こう側へ消えて行った。布切れや草の葉を抱えてやって来た老婆は、どうやら医者のたぐいらしい。服を脱ぐ動作をしたので、和葉は大人しくそれにしたがった。服を脱ぐとき、乾いた血が布地に張りついていたせいで傷口が痛んだ。
そして老婆は傷口に容赦なく葉をすりつけて行ったので、和葉は唇を噛んで叫ばないよう痛みに耐えなければならなかった。
見えない背はともかく、獣に食い荒らされたと言っても過言ではない右足の処置は目視したくなくて、和葉は目をそらす。脳に響いて来るような痛みはあったが、止血が上手く行っているのかそれほど出血はひどくなかった。とは言え、それは傷の大きさに対してというもので、実際にはだいぶ血が流れてしまっていた。
そこも老婆は手早く、しかし和葉にとっては苦痛に耐えなければならないほどの処置をほどこす。包帯代わりの荒い目の布――どうやら彼女らが着ている服と同じ生地のようだ――には赤い染みがすぐに浮かんでしまったが、それでもそのまま傷口を晒し続けているよりはいいのだろう。
それらを、和葉は他人事のように眺めていた。事実、この体がどうなろうと和葉にとってはどうでも良いことなのだ。この体は、もうすぐ朽ちるか腐るかして森の土に還って行くのだから。
老婆が帰ってすぐ、キリアンが布の仕切りを少しだけ開いて向こう側を指し示す。そこには木製の素朴な机があり、その上には木でできた器が三つ置かれている。仕切りの向こうから漂って来る匂いからも、それが食事なのだとわかった。
和葉は正直食べる気はしなかったが、それをジェスチャーで示すのも面倒でキリアンになされるがまま、食卓に腰を下ろす。移動はキリアンが和葉を抱きかかえる形で行われた。そこに少しだけ気恥ずかしさを感じて、和葉は少しだけおどろく。自身の心が凍ってしまっている自覚があったから、そういった行動に心動かされる自身におどろいたのだ。
そして同時にこれでは行けないと思った。こんな心では自ら殺す行為を完遂することはできない。強い意志を持って、和葉は再び殻に閉じこもるように心を閉ざした。
食事は獣の肉が入ったスープとやたらと固いパンがひとつ。それからアルコールの匂いがわずかにする飲み物が与えられる。アルコール臭がするからにはこれは酒類なのだろう。和葉の脳裏に酒に酔って暴力を振るう男たちの姿がよぎる。それはほとんど条件反射といっていいものであった。
和葉は結局パンにも飲み物にも手をつけなかった。飲み物はもちろん酒への嫌悪感から、パンは口に入れれば喉が渇きそうだったからである。
まだ凍りついていない心のどこかでなんとも失礼な人間だと和葉は思うが、すぐにその考えにもふたをした。
そんなことはもう関係ない。この人――人間かはわからないが――たちとはもうすぐ関係がなくなるのだから。
食事のあいだ中、アリラは身ぶり手ぶりを交えて和葉に話しかけてくれているようだったが、なにが言いたいのやら和葉にはいまいちわからなかった。それに理解しようとも思っていなかった。だから、適当に小首をかしげて見せるだけで、あとは終始木の器に入ったスープに視線を落としていた。
和葉の頭の中を占めるのは、これからどうやって死のうかということだ。そして行きつくのはやはり当初の予定通り、首を吊ることであった。
食事が終わるとアリラとキリアンは部屋を出て行ってしまう。部屋の入口は和葉が寝かされていた場所と同じく、固い布地の仕切りがあるくらいだ。痛む足を引きずって恐る恐る外を除けば、すぐそこに外界が広がっている。部屋の出入り口だと思っていた場所は、どうやら家の出入り口であったらしい。
眼前にはあまたの巨木が群れをなしていた。そしてその巨木にはぼこぼこといくつもの穴が開いていて、その穴のほとんどに布でふたが――正確には仕切りがされている。
アリラたちはここで暮らしているのだろうか。とすればあの穴のひとつひとつが部屋なのだろうか。
そんな疑問が和葉の頭に浮かぶが、すぐにその視線はかまどの前にいるキリアンへと向かった。アリラはそれよりも遠くの、井戸らしき場所で食器を洗っている。ふたりとも、家に対して背を向けていた。
キリアンがなにをしているのかはわからなかったが、和葉は直感的に今しかないと思った。
仕切りの布をつかむと、それにすがるようにして体を外へと出す。木のうろのふちに足が当たって声を出しそうになったが、なんとか耐えた。
逃亡は、思ったよりも簡単にできた。木の家を出るとそれが巨大であることをいいことに、遮蔽物として利用する。木に身を隠しながら視線を逃れるのも、辺りがすでに夜のとばりが落ちていることもあって容易であった。
そうして人影のある集落から離れると、和葉はやっと胸を撫で下ろし緊張から解放される。これでやっと死にに行けるのだ。
和葉は近くの木に根を伸ばしていた丈夫そうなツタをむしりとると、死に場所を探して森の奥へと分け入って行く。
場所は比較的すぐに見つかった。ちょうど斜面になっている場所に根を張った木を見つけたのだ。和葉は見よう見まねでツタの先端に加重があれば締まる輪を作ると、それを木の枝に引っかける。そして輪の部分を手元にキープしてから、もう片方の先端を木の幹に何重にもしてくくりつけた。
あとは輪の中に頭を通して斜面の上から飛び降りるだけである。それを考えたとき、なぜだか和葉は泣き出してしまった。恐怖からの涙ではなかった。ただなんとなく猛烈に寂しくなって涙が溢れ出て来たのだ。
「ママ……」
母親が恋しい。しかしその母親から吐き捨てられるように言われた言葉を思い出すと、寂しさよりも死への欲求の方が勝った。
「こんなんだったら産まなきゃ良かったわ」
母親にとって自分は初めから必要のない存在だったのだ。それを思うと悲しみと正体不明の感情――それが怒りだと和葉は気づけなかった――でぐちゃぐちゃになる。
そうやってひとしきり泣いてから、和葉は決意を新たにした。
すなわち、自らの手でこのごみのような人生に幕を引くことを。
和葉はツタでつくった輪の中に頭を通し、それが首に当たる感触を確認すると、ごく自然な動作で斜面から飛び降りた。
*
キリアンは横たわるカズハの姿を見て、怒りにも似た感情を抱いた。それと同時にどうしようもなく悲しくなって、柄にもなく泣きそうになり、あわてて視線を上へと向ける。アリラとふたりきりになったとき、キリアンは決めたのだ。泣くのは同胞が死んだときだけにしようと。だから、今ここでキリアンは泣くわけにはいかなかったのだ。
キリアンが見つけたとき、カズハは木のツタで首を吊っていた。その姿を見た瞬間、キリアンは全身の血が凍って行くのを感じた。そしてあわててカズハの体を持ち上げて、大声で仲間を呼んだのである。
そうしてどうにかカズハを地面に下ろすことに成功し、彼女にまだ息があることを確認して安堵した。
「まさか、こんなことをするなんて……」
キリアンの隣人のひとりがそうつぶやく。周囲は重々しい空気に包まれていた。この、まだ小娘と言ってもいい年頃の少女が自ら死を選ぶ理由がなんなのか、ここにいるだれもがそんな疑問を抱く。
地面に横たえられたカズハの首にはぐるりと青黒い跡がついてしまっている。それを見てキリアンは息が止まりそうなほどの衝撃を受けた。
背と右足に怪我を負い、それでもなお死ぬことを求めるカズハの心中はどうなっているのか。キリアンにはまったく理解できなかった。
「よっぽどひどい目に遭ったんじゃないか、その嬢ちゃん」
「だからって死ぬこたあないだろう」
「自分から死を選ぶほどひどい目に遭ったんだろう。かわいそうに」
ざわめく周囲の中でしかしキリアンは理不尽を感じた。死を望むほどに過酷な体験をしたとしても、本当に死んでしまう義理などないだろう。手ひどい目に遭わされたとしても、なんとしてでも生き抜いて見せるのが生き物というものではないのか。
キリアンの種族の価値観では、自殺はあまり理解されないものである。命というのは森の神から与えられるもので、それを粗末にするのはひどく罰当たりな行いとされていたのだ。だからたとえどんな目に遭い、絶望を覚えようとも、生き抜くことが生物としての正しい姿なのだ――というのが彼らの認識である。
それでも人間と関わり合いを断っているわけではないから、自ら死を選ぶ行為がなぜ起こるのかくらいを想像できる力はある。それでも心から理解することはとうていできそうになかったが。
「キリアン。オレは先に集落に帰ってエングル婆を呼んでおく」
「ありがとう。俺はカズハを運ぶから……」
エングル婆とはカズハの怪我を見た産婆のことである。村長とほぼ同年代の彼女は、集落の知恵袋としての役目も担っていた。
そんなエングル婆の力を借りた方がいいだろう。彼女を呼んでおくと言った男は言外にそう言っていたのだ。
それはキリアンも同意見であった。ただでさえ言葉が通じないのだ。それに加えて自殺願望を持っているとなるととんでもなく厄介である。
それでもキリアンはこの少女を見捨てると言うことができなかった。妹の恩人だからというのもある。でもそれ以上に、なんとなく放っておけなかったのだ。
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